詰まったものを爪楊枝でほじくり出すように今日からしばらくは映画や展覧会の感想について書いて行くつもりでいる。まずは先月15日に京都文化博物館のフィルム・シアターで見た勝新太郎の『顔役』で、この映画は見ている間や見終わってすぐはあまり感心しなかったが、数時間後には思いを改めた。
フィルムが赤く焼け、また両側が多少切れた状態で映写されたものの、有名な俳優をたくさん使うという豪華さや映像の実験性はよくわかり、また印象に残るセリフもあって、脚本、監督、主演をこなした勝の才能がよくわかる。勝の風貌は筆者はファスビンダーを思い出させる。だが勝は役者で、ファスビンダーは監督として評価されていて、比べるのは無理という声が多いだろう。また勝はセックスに関してはストレートであったと思うが、ファスビンダーは両刀使いだ。そのことが演技や監督としての能力にどう関係するのかしないのかわからないが、無関係と言う人の方が多いのではないか。本作は1971年の作品で、当時のファスビンダーの作品と比べると、勝の本作は権力や組織に一匹狼で立ち向かう格好よさをテーマにし、ファスビンダー作品のような繊細な心の綾といったものにはさほど関心を寄せていないように見える。勝と言えば座頭市で、悪い奴をぶった斬るというそのお決まりの行為は時代を現代に置き換えてそのまま本作でも見られ、その意味では全くの娯楽を目指した作品で、社会の悪をどうすればただすことが出来るかといった問題提起やその解決のヒントのようなものは全然描かず、問答無用で悪の権化を抹殺する。それは殺人であるから、いかに相手が社会の巨悪としても法律では受け入れない行為だが、巨悪こそが法律を無視してやりたい放題をやっているのであるから、それに対してもまともに、つまり法律を守って対峙してもどうにもならず、相手と同じ手を使って相手を封じ込めるという方法を採る。それは暴力が支配する世の中で、まるでやくざ世界の闘争と同じだが、本作を見る者は娯楽映画のことであるからと半分は思いながら、もう半分はきっと現実は本作のとおりだろうと感じ、自分がそういう現実から遠いところにいることに安堵感を覚える。大多数の観客がそうだろう。中には本作で描かれるやくざ者や刑事もいるはずだが、結末を除いてだいたいは本作に描かれているのが現実で、組織の中の一個人としてはどうしようもないと諦めている。そういう生ぬるさに勝は意義を唱え、大きな組織にひとりで立ち向かう覚悟の表明として本作を作ったのではないか。フィルム・シアターにあったプログラムによれば、勝は1967年に自身のプロダクションを設立した。そして、あまり成功しなかったそうだが、翌年に勅使河原宏と安部公房を監督と脚本家として招いて『燃えつきた地図』を製作、主演した。そして本作は初めて監督業を手がけたもので、たぶん前作よりは儲けが出たのではないか。また第一作は芸術志向が強いと想像するが、それを勝が求めたことは儲ければ何でもよいという思想を持っていなかったことを証明しそうで好感が持てるが、毎回儲からないでは経営が成り立たない。それで第一作で学んだ芸術性を本作でもどこかに使うことを考え、それは最初の場面からでも誰でも実感出来るもので、撮影の仕方と音楽はいかにも時代を感じさせながら、当時としては最先端であったことを納得させる。その特徴的な撮影方法と音楽がなくても本作は面白い映画にはなったと思うが、記憶に残りにくい普通の作品となったに違いない。つまり、勝の意図は正しかった。
筆者のように71年当時20歳であった者が今頃本作を見ると、いかにも70年代の古さを感じるが、今の若者は違うだろう。そこが映画ないし、時代に密接に関係した作品の面白いところだが、勝は40年後に本作がどのように見られるかは考えなかったはずで、とにかく当時としては最先端の映画を撮りたかっただけで、そのことで批評家も観客も驚き、また歓迎するという自信があったと想像する。やくざ映画はやくざの抗争が描かれるのが普通だと思うが、そこに警察がどう絡むかまでは筆者はやくざ映画をほとんど見なかったのでわからない。本作はやくざの抗争と、それを取り締まる警察の部署における勝が演じるしがない刑事と部署の長との対立が物語の中心で、やくざも警察も組織であることには変わりがなく、組織は組織の論理で動き、こき使われるのは下っ端だ。勝が演じる立花刑事はそのことを身に染みている。上司は上司の立場があることは理解するが、その上司もまたさらに上の上司の言いなりにならねばならない現実があり、警察の上層部はやくざと関係があって、親分は逮捕されてもすぐに出所し、またやくざ社会に君臨する。警察はやくざを取り締まるのにやくざを利用したことが戦後すぐくらにはあって、本作でもそのことが示されるが、もう時代は変わったのであるから、やくざから情報をもらうといったことはしないようにと、立花の上司は訓示を垂れる。これは観客には白々しく聞こえるように演じられるが、それは立花の苦々しい思いを示しもし、また警察はやくざとどこかでつながっているのではないかと立花も観客も疑う。この閉塞感は今はどうだろう。70年代はまだ権力に向こう見ずで対抗するという思いが一般には広くあった気がする。それがいつの間にかすっかり骨抜きになったのではないか。消費税が上がってもそんなものかとみんな思い、一方で大企業の課税が引き下げられていることを不思議に思わない。日本は一部の大金持ちが巨万の富を蓄積し、貧しい人は明日食べる米もないという時代を経て来たが、その悪しき伝統のようなものが、今は巧妙にわかりにくくされて、貧しいのは自己責任で、誰にでも巨万の富を得る機会は平等にあると言う。そしてそれを素朴な人は信じているが、それは飢えずに毎日食べられるからだ。その分、日本は先の悪しき伝統からすっかり脱却した平等社会が生まれたと考える人が多いかもしれないが、財界が政界と手を結んで国民全員から消費税を徴収し、将来的にはさらに大企業を優遇して税率を下げるかあるいはゼロにしたがっていると見ることも出来る。これでは大企業だけが莫大な富を蓄積し、その他大勢の人は安い賃金でこき使われ、大学生もブラック・アルバイトで体を壊すという実態がいつまで経ってもなくならない。つまり、ごく一部の大金持ちはますます富を蓄積し、その他大勢はその日暮らしも同然という、日本社会の伝統的な図式は全くそのままと言える。いっそのこと、その状態を世界遺産登録した方がいいとも思うが、何しろどうにか食べるものには困らない状態にあるので、賃金を上げろと唱える暴動は起きない。で、本作が撮られた71年はどうであったかと言えば、大阪万博の翌年で、高度成長期を邁進し、所得が増えて未来を薔薇色で描いていた人が多かった。その一方で、筆者よりうんと大人はいろいろと矛盾を感じ、閉塞感を抱いていたことが、本作から間接的にわかる。高度成長と言えば、それだけ多く儲けようとする人、また実際に儲けた人が多かったわけで、そこには醜い人間関係も多々あったろう。そして莫大に儲けるには組織の頂点に立ち、また政治家や警察とも裏でつながる必要はあったろう。その構図は今もなくなっていないと考えてよい。そのように大人であれば誰しも想像することを本作は物語の中心に据え、その汚泥のように醜い状態を掃除するには、親分をどうにか始末せねばならないと、主役の立花刑事は、かなり短絡的に思い、実行する。そこがかなり漫画的で、一気に映画が非現実の世界に移転してしまうが、そういう方法によってでも一刑事がやくざの親分を死に追いやるという行為に喝采を贈る。それは本作を映画館で見る人たちは巨万の富とは何の関係もない庶民で、悪い奴には同じように悪い行為でこらしめてもそれは正義であると思うからだ。
今思い出したが、80年代に豊田商事事件というのがあった。若い男が巨額を詐欺で集めた結果、被害に遭った人がその若い男の殺害をふたりの男に依頼し、TVカメラがたくさん居並ぶ中で若い男の部屋にふたりが刃物を持って入り、若い男を殺してしまった。殺したふたりは刑務所に入ったが、ふたりの黒幕が誰かを疑った人は多かったろう。本当に被害に遭った人からの依頼であったのかと言えば、当時筆者は若い男が集めた巨額を政治家辺りがやくざを通じてつごうしてもらい、そういう裏の関係を金を集めた若い男の口から洩れるのを恐れて口封じしたのではないかと思った。とても変な事件で、殺したふたりは死刑にならず、刑務所に10年ほど入っただけで出て来た。殺された若い男は桁外れの巨額を集めながら、マンションの小さな一室に住んで派手な暮らしをせず、趣味はエレキ・ギターを弾くことであったが、いざという時のためのスケープ・ゴートで、本当の親玉は別にいたのではないか。結局詐欺によって集められたお金はどこに消えたかわからずじまいで、マスコミも深く追求しなかったように思う。謎多き事件で、1000億単位のお金が集まるところではやくざと政治家、警察がどこかで手をつないでいるのだろうと思った人は多かった気がする。そういう嫌なムードは本作にもそのまま流れている。立花刑事は警察の本分をどんなことがあっても忘れない男で、相手が無茶をするのであれば同じようにこっちも無茶をしてやると暴走する。その姿は豊田商事事件で首謀者のマンションの一室に窓の柵を壊して入り込んだふたりの男に重なる。『悪い奴であるから殺してもよい』。ふたりの論理はそうであった。そのために逮捕はされたが10年ほどで出所したとも言えるかもしれない。つまり、悪い奴をこらしめてくれた正義の味方なので、せいぜい10年程度の懲役でしょうという考えだ。だが、前述のように、ふたりが本当の正義の味方がどうかはわからない。むしろ、そのふたりもまた巨悪に雇われただけで、殺された若い男と立場は似ていたかもしれない。そう考えると全くやるせないが、そういう現実もある、いやむしろそれが現実であることを知りながら、立花刑事は警察手帳を上司に向かって投げつけた後にひとりでやくざの親分を抹殺することを実行する。やくざの親分が殺された後のことは映画では描かれないが、現実問題として考えれば、生き埋めにされた車はいずれ発見されるし、生き埋めにした犯人が立花刑事であることはわかるだろう。そうなった時、警察は彼を逮捕するか、あるいは刑事であるからには身内の恥で、うまく隠すかのどちらかだが、警察にとってどちらが利益が大きいかを考えて判断するだろう。本作では立花刑事は証拠をつかんでやくざの親分をひとりで逮捕しに行き、親分の車に親分を乗せて警察に向かう途中で埋め立て地で自分が下りた後、車を埋め立て地に落としてしまう。そしてスコップで砂をかけて隠すが、穴に落ちた人間が砂に埋まると、それを自力で除くのは不可能だ。砂に詰まってやがて息が詰まってつまらない死に方をするのはやくざの親分としては格好悪いが、その殺し方には立花刑事の強い恨みが感じされる。その説明は映画でちゃんとなされているが、それについてはここでは触れない。ともかく、殺人者に対して殺人を犯すのは刑事にはあるまじき行為だが、警察手帳を投げつけて刑事であることを辞めた後ではどうか。つまり、逮捕覚悟の行為だ。また、親分と署に向かう途中、親分と立花刑事のやり取りが面白い。立花は親分が何度逮捕されてもすぐに出て来ることを言う。それを受けた親分は自分には甲斐性があるからと言い、そして立花を一匹狼と表現し、そういう人物はそれなりの生き方があると言う。それはつまり、自分の手足になって働けということだ。豊田商事事件で殺人犯となったふたりを連想するし、また本作でも若いやくざが人殺しをして刑務所に入る場面があり、一匹狼的なやくざもまたやくざの組織の下っ端として働きながら、出所すれば位が上がることが約束されていることを示唆していた。
立花刑事は警察とやくざが裏でつながっていて、いつまで経っても親玉が健在であることに業を煮やす。だが、親玉を消しても二番手が親玉になるだけのことで、やくざ組織はなくならない。警察がなくならないのと同じことで、双方の裏でもつながりは絶対になくならないものだろう。立花がそう考えたかどうかだが、当然考えたはずだ。そして刑事であることに嫌気が差し、逮捕してもすぐに出所する親分を抹殺した。それは無茶くちゃな行為で、また後味が悪いが、そのようにしなければ存在を消せない親分であれば仕方がないとたいていの観客は理解するし、それはそれほどに日本の裏社会が厳然とあり続けることへの拒否感の表われでもある。それもまた日本の伝統で、あまりにも悪がはびこると、必ずからそれを打ち破ろうとする者が現われて来る。その意味で、本作はきわめて日本的な物語で、海外ではどう思われるのか気になったが、アメリカ映画に似た主人公を描いたものがあるかもしれない。話を戻して、立花が親分を殺したことが発覚して逮捕されれば、警察は立花は親分の子分で、刑事としての顔を持ちながら、裏で悪事を働いていたとマスコミに嘘を流すだろう。つまり、警察対やくざの戦いではなく、同じやくざの間の抗争であったと言えば、警察はあまり非難を受けずに済む。そして、そういうことを予想しての立花の行動であったと思うから、なおさらやり切れない思いがするし、また悪いことではあるが、やむにやまれない行為、あるいは喝采を送りたくなる仕業と結論づける。以上長々と書いたが、勝が立花を演じたことは、独立プロダクションという、いわば映画の配給会社に比べるとまさに一匹狼の存在であることと、その立場でどういう作品を作り得るかという悩みと呼応している。そして、やくざの親玉をとにかくやっつけてしまうという強引な行為は、当然成功させるための周到な計画があったために可能であって、それは本作の実験的とも言えるカメラワークや音楽になぞらえられ、大手の映画会社では作り得ない、そして興業的にも成功する作品を狙ったことがありありと伝わり、いわば生活と作品を内側で一致させた、またさせるしかなかった立場がうかがえる。それが本作の最大の面白さと言えるが、それは勝が独立プロダクションを作ったという事実を知って言えることという意見があろう。だが、やくざと警察という組織の対立とつながりという現実の前で、純粋に悪いことを悪いと考えてそれを糾弾する立花刑事の行為は、座頭市のシリーズや悪名シリーズでの勝を知る人がほとんどであったろうし、勝の人格そのままという、錯覚には違いないが、いかにも勝らしいものとして観客は見るはずで、そこにはプロダクションを設立してあたりまえの一匹狼としての現実の勝の性質にも思いを馳せるはずで、筆者には立花刑事は勝の本音をそのまま表現しているように感じられた。そのことが本作の面白さで、最初にファスビンダーを引き合いに出した理由でもある。役者であればどのような役も演じるが、勝の代表作となった先のふたつのシリーズによって人々はそれが勝そのものと錯覚しているし、勝自身もそうではなかったかと思う。そのため、立花刑事がやくざの親分を埋め殺す行為は、あまりに向こう見ずで無茶だが、そのように勝はその後を生きたとも思わせ、その一匹狼ぶりに筆者は笑顔で喝采を送りたい。カメラワークは極端なクローズアップの多用で、音楽はいかにも当時をほうふつとさせるロックだが、本物のやくざを起用したと思わせる賭場やまたやくざの組同士の契りの場、そしてストリップ小屋など、裏社会のドキュメンタリー映像と言ってよい場面が豊富にあり、勝がそういう場所に実際に出入りしていたのかと思わせるほどに迫真的だ。今ではそういうやくざは影を潜め、普通のビジネスマンと変わらないと言われる。やくざの色はブラックというのが相場だが、今ではブラック企業という表現があって、どこからどこまでがやくざなのかわからなくなっている。そうなると、立花刑事が埋め殺したやくざの親分はやくざの最後の旧世代で、その後は急速にやくざは一般市民の中に紛れ込み、より巧妙に金を集めるようになったと言えるかもしれない。