3日ほど前に新聞でこの展覧会のための特別の催しとして、昨日と今日、僧侶たちによる声明があることを知った。もうひとつの催しは瀬戸内寂聴の青空講和で、これはすでに18日に終わっていた。
どちらかを選ぶとなると、声明の方がいいので、結局今日思い切って雨天の中を出かけた。もし晴れならば博物館の前庭で上演される予定だが、雨天の場合は講堂の中で先着150名のみとあった。午後1時半ぎりぎりに行けばまず150名の中には入れないから、30分前に着くようにした。そしてそのとおりに講堂入口前に到着したところ、すでに講堂の中だけではなく、講堂出入口扉手前のふたつの部屋にもたくさんの人がいた。扉は開けっ放しにして上演されるので、そこでも充分に聞こえるというので、そこで待つことにした。すると30分の間にもどんどんと人が増え、上演直前には部屋も人でいっぱいになった。全部で500人はいたろう。若い人も多い。講堂に通ずるその部屋の出入口では、博物館員が数名と、60代前半とおぼしきひとりの僧侶が立っていて、その日上演される声明の漢字を連ねたB5サイズの用紙1枚をみんなに配ってくれた。その僧侶は結局、声明が終わるまでずっとそこにいたが、貫祿充分で、それでいて偉そうぶる感じは少しもなく、さすが修行を積んだ僧侶は風格が違うと感心した。たまにそういう目立つ気迫の人を見ると、希薄な普通の人にはないありがたみが湧く。仏教の僧侶の腐敗のことをたまに文字で読んだり、また噂に聞いたりするが、そういうのはごく一部で、大多数はこうしたしっかりした風格ある人たちなのだろうと思う。そうでなければ曲がりなりとも仏教が今まで日本に伝わっては来なかったろう。講堂には十数名の声明を歌う僧侶がすでにステージ下に横一列になって並んでいたようだが、あまりの人の多さで講堂の出入口にすら近づくことは出来ない。隙間からちらりと見ると、赤や紫の豪華な袈裟に身をまとった僧侶が2、3人見えた。天台宗京都教区を代表する人たちだが、その中のひとりの比叡山の横川中堂の一番偉いお坊さんが、上演に先だって1時間ほど話をした。これがなかなか面白く、いつまで経っても終わらない様子で、傍らの人からの時間切れという横槍が入ってようやく声明を歌う番となった。
手わたされた声明用紙を見ながら漢字を辿り始めたが、あまりにも引き延ばして歌うため、すぐにどこを進んでいるのかわからなくなった。ただし、声明の歌そのものは全4部に分かれていて、その間に少しだけ間があり、また歌う速度にも変化があるので、その区切りの時だけはわかる。最初の講義と声明の実演を合わせてちょうど2時間だった。これは思ってもみない豪華な催しで、通常ならば国立劇場といった立派な会場でお金を払って、まためったにない機会を狙って行くしかないが、どうせ出かけるなら、何かおまけの催しがある日がよいと思ったことは正解であった。だが、1時間もの間、わけのわからない僧侶の歌ともつかない合唱を聴かされるのが退屈なのか、ぽつぽつと出て行く人もあった。その代わりにヴィデオ・カメラで熱心に録画する若い人が何人もいて、知る人にとってはまたとない出会いであった。声明が始まると部屋は黒いカーテンが引かれて映画館の中のような暗さになった。部屋には座る場所がないのでみんな床にそのまま坐り込んでいたが、筆者はずっと立って聴いた。演奏する姿が全く見えないので、何だかラジオを聴いている気分で、もうそろそろ終わる頃かと思い、声明用紙を広げて、さて今はどこを歌っているのだろうと、目で探していると、前述した風格ある僧侶がどういうわけか部屋に風のように入って来て、しかも筆者の前を通り過ぎる瞬間、さっと指で今歌われている箇所を指してくれた。これにはびっくりした。虚を突かれた。筆者の目が用紙のうえをきょろきょろとしているところを遠くから見て取り、用事で移動するついでに他人にはわからぬように、そっと声明の進行中の箇所を教えてくれたのだ。だが、繰り返すが中はうす暗かったのだ。あるいはうす暗いから筆者が光のある方向に用紙をかざし、いかにもどこを歌っているかを探す素振りをしたから僧侶にすれば目についたのだろう。それにしても客に用紙を手わたす係を務めながら、一方で講堂で歌われている声明をしっかりと聞いており、すぐにどこを歌っているかを指し示すことが出来るとは。天台僧侶であるのであたりまえのことだろうが、改めて僧侶もいろいろと勉強して学ぶべきことが多いのだなと思った。いや、これまた当然のことか。どんな職業でもぼんやりとして何も学ばなくてもかまわないというものはない。専門は専門でそりなりに努力している。すべからく自分の仕事に精出すべし。
1時間かけて歌われた声明はめったに聞けないもので、「伝教大師御影供」と題して、「昇堂」「僧讃」「勧請」「讃」「伽陀」「退出」の6つから構成されていた。歌があるのは最初と最後を除いた4つが順に歌われたが、これは適当に有名なものから選んでオムニバス形式にしたものではなく、きちんと儀礼にしたがっての正しい形のものだ。もちろん天台声明にはもっとほかにもいろいろ種類はあるはずだが、この5つのタイトルだけからでも、まるで4楽章の交響曲のようなイメージが浮かぶと思う。実際そのとおりで、4つを順に聴くと、起伏が明らかにあり、最も歌われる行数の多い3番目の「讃」は他の数倍の速度でテンポよく歌われ、聞き方よってはベートーヴェンの「歓喜の歌」のようだった。歌だけではなく、2、3人の銅鑼や鐘の打楽器の伴奏が時々入るのだが、注意深く聴いていると、微妙な間をきちんと取りながら、息が見事に合っていた。またその打楽器は耳にしたことのない、少し変な音で、そのどこかとぼけた味わいのある音がまた僧侶のさまざまな声質の集合によく似合っていた。声明用紙は歌われる漢字の左右に、小さな片仮名や点など、見慣れない記号類がたくさんついている。僧侶だけにわかる音譜のようなものだが、これらの記号があることによって、声明はずっと同じ形で今に伝わって来ている。今回の展覧会でも重要文化財の指定を受けている京都の三千院所蔵の13世紀の「声明集」が展示されていたが、それは現存するまとまった天台声明集の最も古いものだ。元々声明は古代インド仏教の儀式音楽に端を発するのは言うまでもない。これが中国の魏の曹植(192-232年)が今の魚山(山東省東阿県)で創始した中国声明を、慈覚大師円仁が日本に請来し、その後比叡山に伝えられた曲の数々を京都大原の聖応大師良忍(1073-1131年)が今の形に集大成した。そのため大原は曹植に因んで魚山と呼ばれているとのことだ。この大原中心に広まった天台声明は、たとえば浄瑠璃、清元、長唄、音頭といった日本のあらゆる音楽の源になっていて、そうなれば日本の音楽のルーツは古代インドに遡るということにもなりそうだ。だが、インドから中国に伝わった段階でかなり節回しは変化したであろうし、曹植から良忍までは800年の開きがあるから、その間で日本語の訛というものが加わってまた変質したことは充分に考えられる。
さて、今BGMで黛敏郎の『涅槃』交響曲を聴いている。このCDは10年ほど前に買った。録音は1995年7月下旬、東京芸術劇場大ホールで、指揮は岩城宏之だ。CDの後半には40分ほど奈良法相宗薬師寺聲明『薬師悔過』が収録されている。ブックレットには黛敏郎の解説がある。少々引用する。『…引声を主とした天台の聲明は、大原に脈々として生きつづけ、確固たる理論のもとに正しく伝承され、その格調の正さと高さは、わが国の聲明中、最右翼といえよう。一方、真言聲明は、その旋律線のなだらかな美しさをもって人を魅了し、天台聲明と見事な双璧をなしている。わが国の各宗、各派の聲明はいずれもこの二大潮流のどちらかに源を発し、影響を受けているといわれる。だが、それらのいずれにも属さぬ奈良聲明は違う。…他の宗派の聲明にくらべて、非常に荒削り、ある場合には殆ど粗野でさえあり、自由豁達、エネルギッシュだ。体系化される以前の、原初的な、生ま生ましい息吹きが感じられ、平安以後、ことに鎌倉に入ってから輩出した諸派の、いわゆる抹香くさい仏教性とは全く異質な、大陸的というか西域的というか、とにかく大陸渡来の文化がまだ日本化される前の混沌としていた状態、つまり奈良時代そのものが反映されているのだ。…少なくとも薬師悔過や観音悔過に関する限り、私としては、平安以前、何らかの形で大陸から伝わったものが、現在まで生きつづけていると考えたい』。声明も多様であることがこの文章からもわかる。引声というのは、声を引き伸ばすことだが、声明用紙には数えてみると260個ほどの漢字が並んでいて、それを1時間ほどかけて歌うのであるから、あまりに長く引き伸ばすことがわかると思う。そのために文字を目で追うことが難しい。真言声明は何年か前、梅田の古本屋で青い箱にLPレコードが10枚程度入ったボックス・セットが安価で売られているのを見かけたことがある。買いたかったがその時は他の本で両手が塞がっていた。どうせすぐには売れないだろうと思っていたが、次に行った時にはなかった。そのため、真言声明を聴いたことがないので、天台声明との比較は出来ない。買っておけばよかったが、こうした後悔する経験を何度も積んでいるのに、大抵機会を逸する。
それはさておき、黛が大陸的な魅力の声明により関心があるのは、古代インド仏教に関心があるからではなく、むしろ、奈良時代に初めに入って来たまだ混沌としたエネルギーに満ちた力のあるものに憧れがあるからだろう。素朴なものが持つ力は何と言っても圧倒的だ。それは時代が下がるにつれて緻密、精緻にはなるが、これは窮屈になることの意味であって、自己変革に乏しいものと化すことだ。もっとおおらかで、それでいてたとえば声明であれば、その本来の目的を忘れないものこそ知りたいと黛は考えたに違いない。これはよくわかる。仮に古代インド仏教の声明が伝わっていたとしても、それは異国のものであり、さほど関心はなく、その仏教伝来の衝撃を奈良時代の日本がどう受け止めて、どう表現したかということを突きとめたかったのであろう。インドの仏像や中国の仏像と日本のそれが違うほどに声明も国によって違っていたはずだが、それでも仏像は仏像としての約束事があるから、その違いをどの程度で捉えるかで、日本の独自性を誇る立場を採るか、あるいはインドや中国のものをより愛するかとに分かれるが、黛は日本以外のアジアは一応どうでもよくて、とにかく日本の原点に立ち帰ることで、そこに大陸文化を咀嚼しようとした人々のおおらかさのようなものとつながりたかったのかもしれない。これはたとえば、正倉院のことを考えるとよくわかる気がする。正倉院の宝物は中国や西域で作られたとされるものが少なくないが、日本で制作されたものも多い。それらが混じって正倉院宝物という一種独特の、他の日本美術にはない香りの空間を形づくっている。現代の工芸家ならば誰でもそのことは感じる。そして、制作に行き詰まったりする場合、たまに正倉院宝物の文様や色合い、構成を見ることは、何か心が浄化される気分になれる。そこには紛れもない大陸文化の造形精神が宿っており、それ以後の日本の芸術とは一線を画するような何かがある。おそらく黛はそれと同じことを音楽で知りたいと考えた。となれば声明しかない。そしてそれは最澄や空海とは違う、もう少し以前に奈良に伝わったものと見定めたに違いない。今CDで聴いている1300年前の奈良声明は確かに天台声明のような、言葉のあまりの長い引き延ばしはなく、もっと単調で繰り返しが多く、どこか日本の民謡のように聞こえる。あるいはグレゴリオ聖歌っぽい。異国性を感じると言えば確かにそうだ。メロディを採譜すると、もっと詳しいことがわかるだろうが、今はその余裕はない。天台声明は五音七声と言って、全部で12の調、つまり12律(12か月に相当)があるそうだが、これは理論上であって、実際は半分ほどを使用している。この12律の音程を詳しく調べると、たとえばインド音楽との関連もある程度は把握出来るのだろうが、これは全く専門的な領域の研究に属する話で、そのような研究があるのかどうか、門外漢の筆者には調べる手立てもない。作曲家の黛はきっとそうしたことにも視野を広げて、行き着くべくして『涅槃』交響曲を作ったのであろう。展覧会の展示物について書く余裕がなくなった。後日改めたい。