揉みに揉ませられた気がどこに落ち着くか想像出来るのに、次回を見たくなるのが韓国ドラマで、今日最終回を迎えた『愛よ、愛』について書く。1時間ものが全88回で、韓国では2012年に放送されたホーム・ドラマだ。
若者の恋を中心に老人から中学生まで登場し、家族で安心して見られる内容になっている。このドラマの興味深い点はまず時代設定が1970年に置いていることで、最後は現在につながるかと予想していたが、そうはならず、1972年の場面で終わる。時代劇というには近い過去だが、70年代が韓国ではどのような時代であったのかわかって面白い。その頃の韓国は日本より数十年ほど経済力が遅れていると言われていた。それを100年くらいと言う人もあれば、30年くらいという人もあったが、つまりは日本の戦後すぐくらいの貧しさであったことになる。このドラマを見る限り、そこまで経済的後進国には見えないが、取り上げられた3つの家族はいわば中流やその上に属し、平均的国民よりかなり金持ちと言っていいだろう。そのため、登場人物が貧しさに苦しんで悪事に手を出すといった内容はなく、問題はもっぱら恋に絡んだものだ。そして、『ロミオとジュリエット』の物語を作り替えたところがあって、敵同士のふたつの家庭が登場する。その敵対は朝鮮戦争時に生まれたもので、その点は戦後の日本とは大きく違う韓国の特殊性が見える。敵同士というのは愛国主義者と親日派で、後者を糾弾する向きが今もなお韓国には根強く、時に世代間の問題ともなり、さらには日本との関係をぎくしゃくさせているのは周知のとおりだ。それでこのドラマでは親日派であった家庭を悪役に描いているかと言えば、さほどでもない。そういう問題に固執するのは朝鮮戦争を実際に経験した老人だけで、その子や孫はほとんど関心がないかのように描かれる。また、本作の『愛よ、愛』はもちろん男女の恋愛を指すが、ドラマの中では二度『染色は愛だ』と唱えられ、親日派の娘である染色家が韓国でも最高と言われるほどの草木染めの作家として描かれる。ドラマの中では「天然染色」と呼ばれていたが、日本でいう植物染料を使った「草木染め」であり、その技術はたぶん日本から戦前にもたらされたか、影響を受けたものだ。とはいえ、染色はどの国にもあって、朝鮮半島でも日本と関係なく古来より行なわれていたはずで、それは広幅の布全体を染めるもので、日本のように糊防染による文様染めはない。数年前、京都市立芸大の韓国からの留学生とほんのわずか話したことがあるが、彼女は友禅染め、すなわち韓国にはない糊防染による文様染めを学びたいためにやって来たのに、芸大では教えてくれる先生がいないと不満げであった。芸大で教えるのは糊を使っても型染めであり、また友禅のように線状の防染技術を使ってもそれは蝋によるもので、友禅染めをまともに教えられる先生はいない。友禅は芸術家のやるものではないという考えからのようで、では糊型染めやローケツ染めが世界的に認知されているかと言えば、全然そうではない。それはさておき、本作の毎回のタイトル画面は主人公の女性の母親である染色作家が布を染める様子が写り、赤い布にハングルで「愛よ、愛」が白く染め抜かれていた。それは糊防染によるもので、前述のように韓国では発展しなかった技術で、今もそうであるはずだ。実際本作ではその染色作家は染めた布に刺繍を施す仕事で有名であり、友禅のように「染め抜く」という技術は持たない。そのため、タイトル画面に使われた糊防染による文字は、染色に携わるような筆者から見れば、いかにもいい加減に見え、タイトル文字を刺繍で表現すべきであった。
韓国ドラマの「いい加減さ」はNHKのドラマに比べると歴然とする。本作は低予算であったのかどうか知らないが、セットがあまりにお粗末だ。たとえば主人公の娘の家は地方の小さな町で漢方薬を売っている。毛筆で薬の名前を大きく書いた障子張りの扉を持つその平屋の建物の表玄関が毎回映るし、またその前で登場人物たちはしばしば演技をするが、店の内部はほとんど映らない。それでは視聴者に不審感を抱かせるので、わずかに扉が開いて内部が見える回があったし、また逆にその内部から外が見える場面もあったが、店の内部の場面はTV局内のセットで、店の外観と不自然でないように設えられてはいるが、それでも店の外観と店内部から透けて見える毛筆の裏文字が違い、また外からごくたまに見える店の内部の薬箪笥の置き方が全く違っている。こういう初歩的なミスが平気なのは低予算のせいと言うより、国民性だろう。そんな細部よりドラマが面白ければいいという考えだろうが、ドラマの面白さは家具調度のごく些細な部分も大きく影響する。たとえば本1冊でもだ。漢方薬屋の娘は絵心があって、ソウルの一流大学の美術学部に進学する。そしてたまたま故郷で出会った同じ大学の先輩から好意を抱かれ、画集を1冊贈られる。それがピカソのものだが、1970年に韓国にはそういう画集はなかった。その画集は帯にハングルが書かれていて、韓国で出版されたものという設定だ。だが当時は日本でもそのような画集は集英社が出していた程度で、たとえばその1冊のゴッホはペ・ヨンジュンが主役を務める『初恋』に登場する。『初恋』の時代設定は本作より5年後の1975年だ。明らかに本作に登場する分厚い立派なピカソの画集は90年代くらいのもので、現実とは20年は落差がある。そういうことに気づくのはよほどの画集好きだけかとは思うが、時代考証があまりにもずさんで、ひょっとすれば韓国では1970年という時代はもはや遠い昔で、正確に覚えている人が小数派なのではあるまいか。『初恋』より5年遅い時代設定であるにもかかわらず、『初恋』より20年ほどは進歩して金持ちになった韓国を思わせ、これは貧しかった過去を美化したい思いの表われとも見える。また『初恋』が撮影されたのは1996年で、当時としては20年前を描いたが、本作はその倍の40年前を描き、しかも1996年と2012年という年月の経過によって、韓国は裕福になり、『初恋』のように惨めったらしい人物や街並みを描く気にはなれなくなったのだろう。だがこれは由々しき問題ではないか。朝鮮戦争の生き残りが家庭の中で一番の発言権を持ち、まだまだ貧しかったはずの1970年を、まるで清潔で明るく、洒落てもいたような人物や家で溢れていたと思わせるのは、今の韓国の20代の思想を間違った方向に導く気がする。『初恋』と同じように絵を描く人物が主人公になりながら、本作は「汚れ」が欠如し、また悪役と呼べるほどの人物も登場しない。朝鮮戦争時に親日派によって死に追いやられた愛国主義の家族と、親日派の敵対は最終回までそのまま続き、老人が意志を曲げないことの典型が示されるが、若者はその間にあってそうした過去には関心がなく、『ロミオとジュリエット』のような悲恋が描かれるが、実際は『ロミオとジュリエット』とは大きく違って、お互いの家が敵対していることは若者には何のこだわりもない。『初恋』では経済的格差によって結婚が阻害された男女が描かれるが、本作は韓国ドラマお決まりのそうした事情もありはするが、それよりもっと深刻なものとして、血縁ということが主題になる。
韓国では名字は300ほどと日本の100分の1以下の種類しかないのに、同性では結婚しないと言われる。今もそうかどうか知らないが、その名残はあるだろう。「金」や「朴」が多いので、同じ名字の若い男女が出会う機会は日本の100倍ということになりそうだが、「金」や「朴」はいくつかの地方があって、どこそこの「金」と名乗る。そして同じ地方の「金」でなければ結婚出来ると聞いた。このように、韓国ではどこの地方の出身かをとても気にする。そして地方独自の人柄があって、地方同士の差別もあるようだ。本作では「タミウル」という田舎町と、そしてソウルが舞台になるが、70年頃は高速バスしか移動手段がなかった。今でもそうだろう。日本のように鉄道が隈なく網羅された国はない。「タミウル」はソウルの南東で、亀有(クミ)市の田舎だが、慶尚北道の中央辺りで、蔚山や釜山に近い。ソウルまでは200キロほどで、大阪から名古屋までを思えばいいだろう。また亀有はこのドラマの時代設定時の大統領であったパク・チョンヒの出身地で、彼の名前は一度だけ登場する。韓国人にとってはそういうことは周知の事実で、「ああ、朴大統領の時代の話か」と思うはずだが、それがどういう意味を持っているかについても思うことはいろいろと多いだろう。そしてそういうことが日本ではほとんど馴染みがない。たとえば、漢方薬屋の長女ホン・スンヒは大学の先輩で建設会社に勤務するカン・テボムからピカソの画集をプレゼントされ、早速ピカソ論を大学の新聞に投稿する。すると当時はピカソは共産主義者で、それを讃える文章を書いただけで共産主義とみなされ、検察に捕まった。ひどい話だが、朝鮮戦争の後、韓国は北とは停戦状態になって、反共に躍起になった。また、道を歩いている時に突如国家が流れ始めると、誰もが直立してそれを聞き、国旗の掲揚があればそれを見つめる。それにこれは最も大きなことと言ってよいが、夜間外出は禁止されていた。当時の日本と比べると、いかに前近代的かという思いがするが、それは今の韓国の若者も同じかもしれない。テボムが「平和建設」という国で5番目ほどの大きな建設会社に勤務し、しかもその社長夫婦は戦後の成り上がりという設定も面白い。当時の日本も列島大改造ブームで、土建会社は大儲けをしたが、それは韓国でも同じであったのだろう。朴大統領は日本から資金援助を受けて釜山ソウル間に高速道路を建設し、それを利用して半島の大改造が始まった。とはいえ、日本に比べると当時はまだまだで、それが加速するのは80年代後半だ。それはさておき、土建会社は政治家とつながるのは日本と同じで、またテボムの会社はヴェトナムの戦火のある地域で支店を持ち、海外進出も狙っていたという設定だ。またヴェトナム支店がゲリラに攻撃され、誰も現地へ赴きたがらないのを、スンヒに振られたテボムは辛い恋を諦めるために志願するが、ゲリラの攻撃に遭って瀕死の状態になる。結局治癒して帰国すると、社長に大いに認められて部長に抜擢、そのうえ社長のひとり娘と結婚してほしいとまで懇願されるのに、スンヒのことが諦め切れず、またスンヒも愛していた検事のパク・ノギョンとは結婚出来ない経緯を知るに及んで、ついに押し切られる形でテボムと結婚する。テボムは部長になった頃から態度が大きくなり、また会社を大きくして自分が社長になりたいために、政治界に賄賂を贈って入札に次々と勝利して大きな仕事を受注する。そのことが次第に社内でもまた社外でも噂となり、追い詰められて行くテボムだが、検事のノギョンとは昔からの親友で、スンヒの愛を巡って親友の仲はいつしか険悪になって行く。このくらいの話なら韓国ドラマとしては全く珍しくないが、複雑なことに、ノギョンの母が染色作家のチェ・ミョンジュで、彼女の初恋の男がスンヒの父で漢方薬局のマンボク堂の経営者ホン・ユンシクだ。しかもふたりは『ロミオとジュリエット』のように愛し合い、ミョンジュはスンヒを身籠ったまま一度は駆け落ちするが、両家は愛国運動家と親日派という敵対関係で、前述のように愛国家のユンシクの父はミョンジュの父によって陥れられて死んだという過去を持つ。今は両家とも父はおらず、妻が還暦を迎えた老女となっているが、ミョンジュの母は認知症で入院しているという設定だ。一方のユンシクの母は元気で、またミョンジュの家を嫌悪している。そのためもあって、朝鮮戦争のどさくさの時代、駆け落ちした息子を騙して自分のもとに呼び寄せ、御膳立てしていた結婚を無理強いする。これはどの韓国ドラマでも描かれる旧世代の罪ある行動で、両親がいいと思って子どもたちに強いたことが後々まで尾を引いて人間関係が複雑になって行くことの一例だ。
ではそうした旧世代は間違っていたのかと言えば、それは当時としては仕方がなかったとみなされているのだろう。ましてや愛国の運動家が親日家によって殺されたとなると、一生恨み続けるのはやむを得ない。このドラマではそこがひとつの見物で、お互いの家の老いた母がいつどういう状態で出会い、またどういう行動を取るかが気がかりになる。それは最終回でようやく訪れる。その前に、ミョンジュの母の認知症は次第に回復し、すっかり記憶を取り戻す。それは非現実的で、いつもの韓国ドラマ特有の「ごつごう主義」だが、本作ではそうなる理由が示される。それはスンヒの存在だ。スンヒはマンボク堂の長女として暮らしていて、妹スンアがいる。ふたりは双子として育てられたが、実はスンヒは生まれてすぐに手紙と一緒に家の前に捨てられているのをユンシクやその母が見つけて育てた。手紙にはミョンジュの名前があって、ユンシクは自分の娘であることを知るが、母やまた母によって無理やり結婚させられた妻のキム・ヤンジャは文字が読めず、本当の捨て子と思う。そしてその憐れな子を自分たち夫婦の子として、生まれて来たスンアと双子として育てた。また、ここは大事だが、赤ちゃんと一緒にあった手紙はミョンジュが書いたものではなく、その母か、あるいは赤ちゃんをマンボク堂に捨てて来いと命じられた当時ミョンジュの実家のお手伝いさんであった、今は平和建設の社長夫人になっているコプタンが書いたものだが、そのことは最後までついに明らかにされることがなく、杜撰さの一例となっている。以上のように人間関係がかなり狭いが、これは韓国ドラマではいつもそうで、愛憎劇を作るためには仕方がない。そして本作で最も気になったのは、毎回3度は立ち聞きしたり、たまたま話している近くにいて耳をそばだててしまうことだ。「立ち聞きドラマ」の代表と言ってよいが、それは上記のような複雑に絡まる人間関係を解きほぐして各登場人物が知って行くには仕方のないことで、暴かれてはならないことが最終回では全登場人物が知り、そしてみんなで笑顔で円満になるというハッピー・エンドを迎える。そのため、ドラマとして面白いのは全体の3分の2を過ぎた辺りで、それ以降はついに誰それが知るといったように、真実が少しずつ白日の下に晒されて行くだけで、展開がだいたい予想がつく。だが、それでは最終回まで見てもらえないから、さすがというべきか、また常套手段ながら、「それはない」と言いたくなる起伏を作る。それはミョンジュが病気で倒れ、腎臓を移植しなければ助からないという筋立てで、臓器移植がにわかに問題となる。
そしてスンヒは産みの親ミョンジュのために腎臓を片方提供し、一時は死の境をさまよいかけながらも快復し、ミョンジュと共同で染色展を開催する場面が最終回にある。臓器移植の場で両家の母親が初めて対面し、お互いスンヒを自分の孫と主張して譲らないが、手術から1年後、ミョンジュの母はまた認知症に逆戻りし、もはやユンシクの母のことがわからない。そうでもしなければ両家はいがみ合ったままとなるしかない。認知症になったのは、自分が捨てた娘の子をずっと思い続けた挙句のことだが、次第に記憶を取り戻すのは、たまたまスンヒが平和建設の娘の家庭教師になった後、ミョンジュの染色工房にアルバイト勤務し、ひょんなことでミョンジュの母の病床に見舞いに訪れ、そこでミョンジュの母がスンヒにミョンジュの面影を認めてからだ。つまり、旧世代はそれなりに悪いことをしたと悔やんでいて、その思いがついに実の孫と自分の娘を意外な形で引き合わせるという物語で、朝鮮戦争に遡る悲しい出来事が、最後はわだかまりが解けてみな幸福になるというのは、未来志向を描いて気持ちがよい。書き忘れたことをふたつ。ひとつは政治家などに賄賂をわたしたのに、罪はテボムひとりが背負ったことで、巨悪が罰せられる姿は描かれない。これは現実的と言ってよく、また韓国人の白け具合も示しているのではないか。政治家が悪いことをするのはあまりにもあたりまえで、どうにでも逃げ切ると思われているのだろう。もうひとつは、無学で身よりもないユンシクの妻だ。彼女は夫が昔駆け落ちまでして妊娠させたスンヒをそうとは知らずに育てる。その事実を知った時には衝撃を受け、動揺し、ユンシクを責めるが、結局家庭に戻る。彼女を演じたのはキム・イェリンで、訛りのある言葉もとてもうまかった。このドラマで受賞したそうだが、それは誰しも認めるだろう。彼女の持ち味で光っていたドラマと言ってよいほどだ。そして彼女は文盲であったが、娘のスンアにハングルを教えてもらい、たどたどしくはあるが、読み書きが出来るようになる。そしてそのことで、スンヒが捨てられていた時に一緒にあった手紙をある日読む。それがちょうど半分ほど過ぎた頃であったと思うが、毎回はらはらさせながら、また拙いセットに笑いを禁じ得ない思いをさせられながら見ることになる。もうひとつ書いておくと、3つの家庭のうち「ソマン病院」というタミウルに新しく出来た診療所があるが、それはマンボク堂の漢方薬に対して華々しい現代の医学を司る。そしてマンボク堂の漢方薬はむしろミョンジュの染色に使われることで脚光を浴びる。この辺りの妙を中心に書けば今日の投稿はもっと違ったものになった。