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紀伊山地の恋情と参詣道」世界遺産登録10周年記念。これが副題だ。大阪市立美術館で開催された本展を見たのは5月の下旬で、遅まきながら書いておく。ちょうど昨夜のNHKの関西のいいところを紹介するTV番組で吉野熊野を若い女性タレントと俳優の藤岡弘が旅をしていた。

途中休憩を挟んで2時間の番組で、その前半のみを見た。見応えがあって、これは一度紀伊山地を訪れてみなければならないとまたもや思った。またもやというのは、もう10年かもっと以前から熊野三山巡りをしたいと思いながらそのままになっているからだ。旅行会社の1泊のバス・ツアーで以前はよく企画されていたが、今はどうなのだろう。忘帰洞という海辺の温泉に一泊して1万円ほどであった。自分で行けばとてもそんな値段では無理だ。バスで効率よく回るからこそで、安上がりを考えるならばバスを使っての団体旅行がいい。ただし、今までのそういう旅を何度もしているが、見事にほとんど記憶にない。安くて便利はいいが、思い出がほとんど残らないでは意味がない。自分でどこをどう見て回るかを考え、しかも時に道に迷って目的地に着かなければ筆者は楽しくない。そういう考えがあるので、忘帰洞に一泊して熊野三山を公立よく回るツアーに申し込まなかったと言えるかもしれない。だが、自分で行くには電車を使えばとても一泊ではこなせない。近畿地方でも紀伊山地は最も不便なところで、簡単に熊野三山と言うが、3か所はかなり離れていて、バスや車がなければ1日ではとても回れない。そのことがついついこの地方、そして熊野三山を訪れたいという気持ちを削ぐ。そして世界遺産に登録されたこともあって、よくTVで紹介されるから、何となくもう行って来た気分になる。これば腰を上げる気力を削ぐ二番目の理由だ。同番組を見ながら家内はイーデス・ハンソンが暮らす地域と言ったが、確かにそうで、彼女が移住いたのは80年代で、その頃はまだ熊野古道はブームになっていなかった。逆に彼女が移住したことによって熊野古道はよく知られるようになった気がする。とはいえ、筆者は登山はしないし、山間部を歩くことにも関心がなく、熊野古道はいまだに踏み込んでいない。数年前だったと思う。やしきたかじんが若い頃に彼女と熊野古道にデートで訪れたといったことを話した。同席していたタレントたちはその意外に渋い趣味に驚いていたが、たかじんも若い頃は夜の街より自然豊かな場所に関心が多少はあったのかと思ったものだ。家内は何度か訪れたことがあるが、筆者は白浜にも行ったことがない。つまり、和歌山は市内だけ少し知っているだけで、それより南には一、二度しか、しかも20歳頃に海水浴で訪れたのみで、紀伊山地は全く未知の土地だ。前述した昨夜のTV番組ではほんの少し熊野古道が映ったが、石で舗装されていて、まるで嵯峨辺りと大差ないように見え、よほど大勢の人が訪れるのかと思った。また、熊野古道がどこをどのように通っていて、全部踏破するにはどれくらいの日数を要するのか、また歩いている途中で熊に遭遇する危険はないのかなど、全く知識が欠如していて、これはもうそろそろ本腰を入れて調べ、またごく部分的にしろ、一度は歩いてみたいと考える。家内は歩かされるのはもうこりごりで、旅行すなわち温泉と豪華な料理であるから、団体旅行に参加することになる可能性が大きい。それはさておき、吉野熊野に行かなくても美術館で同地の寺社が所蔵する像や絵画がまとめて見られるのであるから、これはバスを使っての団体旅行以上に手軽で、つまりはその分ありがたみが少ないということになる。とはいえ、高齢のためにもう現地には行けないという人はあるし、現地に訪れても非公開になっているものもあろうから、こうした展覧会はそれなりに便利だ。
筆者が館内でまず感じたのは、いつものことでもあるが、係員が現地に訪れ、1点ずつ梱包し、山道をトラックが走って大阪まで運び込んだ一連の作業だ。これが数点ならいいが、100以上の数となれば展覧会を開くのは大事件と言ってよい。それが1000円台で見られるのであるから、こんなに安いことはない。確かに現地の環境の中で神像や仏像を見るのが一番だが、美術館でたくさん一度に見ると、賑やかということのほかに、それらが集められた地域の特色といったものが浮かび上がる。それは本展の名称「山の神仏」であって、やはり紀伊山地という地域性だ。本展が奈良や京都で開催されず、大阪となったのは、人が多く集まるということのほかに吉野熊野や高野の玄関口であるからで、近畿の中心はやはり大阪と改めて思う。京都や奈良、和歌山に隣接し、どこへ行くのも便利だ。それが観光では京都が一番で、大阪は評判があまりよくない。紀伊山地はどうかと言うと、先に書いたようにかなり渋い趣味の持ち主でないことにはそう何度も訪れることはないのではないか。これは2,3年前だが、ローカル・バスの旅がブームになり始め、新宮とどこかを結ぶ1日に一度ほどしかない路線バスに長時間乗る旅がTVで紹介された。それを見て同じように旅をしてみようという人は今もいるはずだが、とにかく不便であることを楽しむ余裕がある人が好む地域で、それは昔から変わっていない。平安時代に京都から1か月ほどかけて公家たちが紀伊山地を旅したというが、それほどの労苦に見合うありがたみが確かにあった、いや今もあるのだろう。そういう奥深さがこの山地の魅力で、昨夜のTV番組でも鄙びた地域に点在する有名な店がいくつか紹介され、そこにわざわざ行かねば味わえない味があることは大きな魅力に感じた。今は店が有名になるとすぐに百貨店に売り場をかまえたり、またネットで注文出来たりするが、それでは面白くない。儲けこそが一番かもしれないが、どうにか食べて行けるだけの収入があればよいと考える店もある。TV向きの演出も多少はあろうが、そういう店が昨夜は紹介されていた。昔筆者と一緒に友禅工房で働いていたHが、友禅では食べて行けなくなって故郷の串本に返って役所勤めをし、フィリピンの美人の奥さんをもらって男子をふたりもうけた。今でも毎年家族写真を年賀状に毎年印刷して送って来る。10年ほど前に筆者の個展にやって来てくれて、地元の同窓が炭焼きの有名な職人になっているという話を聞いたことがあるが、仕事を求めて都会に出るのはどの田舎も同じで、和歌山の人は大阪や京都に出るのにさほど億劫がらない。だがそれも若い間だけかもしれない。そうなれば筆者のような年齢になると、ますます紀伊山地に行く気になれないことになる。
さて、本展は吉野・熊野・高野を扱い、高野に関しては個別の展覧会があった気がする。また、「山の神仏」と聞くと、すぐに蔵王権現や役行者を思い出すが、そういた像が展示されたのは言うまでもない。最も注目させられたのは、3年前にMIHO MUSEUMで開かれた『ギッター・コレクション展』でも目を引いた「熊野参詣曼荼羅図」で、今回はこれが室町から江戸と、製作時代が異なる3幅が一堂に並んだ。目録を見ると「那智参詣曼荼羅図」と題されているが、同じ構図、同じ寸法の作品だ。先ほどWIKIPEDIAで調べると36幅があるようだが、その表にはギッター本は記入されていない。とすればもっと存在しているかもしれない。縦横とも大人の身長ほどの大きさがあるが、表装裂を含むと2メートル四方ほどになる。どうにか家の中で飾れるから、ギッター展を見た時、筆者はこの作品をほしいと思った。次に思ったのは、たぶん売りに出ないし、出ても100万円以上するだろうから、自分で描くことだ。この曼荼羅図は柳宗悦が言及しているのかどうか、民画と言ってよく、素人が彩色に携わって量産したものではないだろうか。30数幅確認されていることは、その何倍も描かれたのではないか。ただし、大きな寸法なので、お土産に売るというものではなく、寺や神社が注文したであろう。3幅が横並びになっていたので、同じ構図ながら細部の色が違うことはよく確認出来た。ただし、模写を繰り返すことによる質の劣化はあまりなく、最初から、つまり原本から民画的な素朴な味わいがあったはずで、また曼荼羅らしく、びっしりと建物や自然、人物を配し、今でもさびしい紀伊山地がとても賑やかな、まるで京都の有名寺院の境内のような人ゴミに溢れる感じが楽しい。この曼荼羅図を見ると、一度那智の滝を見たいと誰しも思うであろうし、また実際に訪れると、予想以上に壮麗なことにまた驚いたように思う。参詣曼荼羅図はほかの構図もたくさんあるようで、本展には「熊野参詣曼荼羅図」と題して20点ほどが出品され、重文も数点含む。熊野三山の絵画と言えば、そうした参詣曼荼羅図で、筆者には少々不満であったのは三山が今も発行する牛王法印の木版画だ。熊野本宮大社のそれは最初に書いたNHKの番組で女性タレントと藤岡弘が説明を受けていた。筆者が熊野三山を訪れたいのは、この牛王法印の3種を買いたいためで、烏と宝珠を使って漢字を表現したそのデザイン性に憧れがある。それもまた民画的味わいが強く、「那智参詣曼荼羅図」に描かれる旅人たちは牛王法印を買って帰ったと想像するのは楽しい。版画であるから古いものがたくさん伝わっていてよさそうだが、これは誓紙として使うものであるから、案外残っていないのだろう。「那智参詣曼荼羅図」よりはたくさんあると思うが、あまり美術品とは思われないのか、展覧会で見たことがない。ついでに書いておくと、10年ほど前にネット・オークションで日本各地の似た木版のお札がまとめて出品されたことがある。白山や蔵王山が含まれていたが、どれも逞しい造形で、またいかにも霊験が感じられ、所有欲をそそった。
図録を買わなかったのでもう忘れてしまったが、目録を見ると、「吉野」の部門には「吉野曼荼羅図」が8点載っている。また「高野」には当然「高野山参詣曼荼羅図」があって、弘法大師の密教と結びつけたくなるが、日本の曼荼羅は密教とは限らない。また、曼荼羅はたくさんのものが描かれ、賑やかという点では共通している。それは参詣に結びつきやすかったのだろう。たくさんの人に来てもらって賽銭を投じてもらわねばならないのは今も昔も同じはずで、神や仏を多く並べて描けば、それだけ御利益が増えそうな気もする。今チラシを見開いたところ、本展は正確に言えば「吉野・大峯」、「熊野三山」、「高野山」の3部門に分けられている。このうち筆者が訪れていないのは「熊野三山」で、どうしても派手な「那智参詣曼荼羅図」の図版に目が行く。またそれはチラシを見る限りは正しいだろう。ほかに図版で紹介されている作品は熊野那智大社に所蔵される平安時代の「女神坐像」がまずあるが、これは2年前か、大津歴史博物館で見た多くの神像と区別がつかないほどに様式化されたもので、その素朴さは「那智参詣曼荼羅図」に通じていて、好ましい。それは高さ数十センチと比較的小さいからでもある。仏像にも同様に寸法のものはあるが、等身大やそれ以上のものが目立ち、神像の存在を圧倒している。たとえば同じ「熊野三山」の部門に出品された和歌山の藤白神社の「阿弥陀如来坐像」は等身大かそれ以上のはずで、また全身金箔が貼られて近寄りがたい。日本の神像はその前にあって存在がかすんでしまう。それほどに仏教の広がりが大きく強かったということだ。また、仏像がヴァラエティに富んでいたこともその宗教がいかにも奥が深いと思わせるのに効果的であったろう。神像は男女が一対で並んでいると、まるでお雛さまのようで、どこか玩具めいている。どこの神像か忘れたが、一対木像を型取りして鋳造した像が同じ部屋に展示されていた。それは今は各地から集めて展示出来るから簡単に見比べられるのであって、当時はほとんどの人はそういう製作の実情は知らなかった。また知らずとも、神像であるからには祀って拝むだけで目的を果たした。その拝むという行為がこうした展覧会では忘れられる。それはいかにも本音と建て前を分ける人間を自覚させ、それはそれで展覧会が現代の一種の参詣のあり方とも思わせる。「高野山」の部門には和歌山の丹生都比売神社から重文の狛犬と獅子が展示されたが、いかにも鎌倉時代を思わせる力強さで、保存もよい。これとは違ってほとんど頭部の上半分がなくなっている狛犬があった。熊野本宮大社のもので、手元の目録には時代が記されていない。ほとんど役に立たないようなそうした風化した像でもそれなりに、あるいや完全体とは違う異様な迫力があって保存の対象になる。神像、仏像というのはそういうものだが、やはりなるべく元のままの姿がよい。紀伊山地は和歌山と奈良、そして三重にもまたがっていて、丹生都比売神社は奈良と思っていたが、和歌山だ。この神社は毎年笑いの神事があってTVでその様子が映る。葛城は家内の父方の里で、また筆者の親類は五條にいるが、この神社からどれほど近いのか遠いのか知らない。