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●切株の履歴書、その2
の季節だ。スイカ、ニガウリ、キュウリ、メロン、野菜も果物も瓜だらけに思えるのは、だいたい大きくて目立つからだ。昨日4か月ぶりに梅津の従姉の家を訪れた。ムーギョに自転車で買い物に行き、その帰りに立ち寄った。



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ムーギョでは入ってすぐにスイカが並べられている。それが春からで、スイカは年中実っているような気にさせる。筆者は瓜類が好きで、スイカも好きだが、今年はまだ一度しか、しかもわずかに食べただけだ。それはさておき、ここ数か月はムーギョに行くことが減った。しかも自転車を使うことがほとんどで、徒歩数が激減して運動不足になっている。4月だったか、桂で保健師に健康診断から半年後の経過を調べられた際、徒歩と自転車とでは後者の方が運動になると聞いた。ただし同じ距離ではなく、同じ時間ということで、徒歩で30分費やすより、自転車に30分乗る方がエネルギーを消耗するそうだ。ならば、梅津に行くのに自転車よりも徒歩の方が運動になる。往復で1時間費やすとすれば、自転車に1時間乗らねばならない。それでは松尾橋から四条河原町までを往復出来る。それだけ自転車に乗るならば1時間歩く方を選ぶ。それはともかく、自転車で梅津に買い物に行くことに慣れてしまうと、徒歩で往復しにくい。便利なものに慣れるとそれを手放しにくいとよく言われるが、まさにそれを実感する。いっそ自転車がなければいいかもしれない。京大のある先生が不便な道具を研究していて、わざと不便な機能を付加することによって考える力を見につけようとしている。たとえば地図で、目的地に接近すると、スマホに映っている地図の肝心な箇所が消えてしまう。そうなると地図を当てに出来ないから、自分でどうにか探すか、人に尋ねることになる。そうして目的地に着くと、より感動も大きいということだ。その先生はケータイ電話をまず使わなくなり、次に腕時計が壊れたのでもう修理しなくなった。そのことを聞いたタレントはおおげさに驚いていたが、筆者はケータイを持ったことがなく、また腕時計も何個かあったのに、みな電池が切れてそのままにしている。出かけた時に困りそうなものだが、都会を歩いているとどこかで時刻が確認出来るから、今のところ大不便は感じない。10分や20分、自分の思いより進んでいようが遅れていようが、気にしない。バス待ちの間、時計があれば後何分待てばよいかだいたいわかるが、どうせ15分に1台はやって来るから、時間を気にせずに待てばよい。そう考えることにした。腕時計があると、時刻どおりにバスが来ないことにイライラし、わずか5分の遅れが1時間ほど遅れたかのように許せないと感じる。これは異常と言うべきで、時計がないことは精神衛生上にもよさそうだ。それは筆者があまりに暇で、誰かと待ち合わせする必要もないからだが、忙しいと言う人も大したことはしていないし、誰かを待つにしろ、待たせるにしろ、お互い正確な時間を気にすることもないではないか。毎日正確な時間にしたがって行動している人は自分をロボットと思うべきだ。筆者はもうそういう生活は出来ない。それを不真面目と言うのは当たらない。何が真面目でそうではないかは誰がどのように決めることが出来るか。
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 今朝、家内が筆者を叩き起こしながらTVの画面を見ろと言った。一昨日から話題になっている西宮の県議が号泣しながら会見している様子を民法が取り上げていた。鬘疑惑で有名な司会者が、その県議を擁護する意味ではないが、「真面目に見える」と言った。後で少しそのことについて補足していたが、やはり「真面目」という言葉はふさわしくない。詐欺罪が適用出来るかもしれないその県議に「真面目」な部分があると見るのは、よほど日本の常識が麻痺しているからだ。本当に真面目な人は人に後ろ指を指されるようなことはしない。で、そういう人は政治家には絶無の状態で、その感覚が広く日本に浸透し、真面目の基準は大いに下がった。その県議の話をもう少し続けると、彼は自分を真面目と思っているだろう。であるので、多少の経費のちょろまかしは些細なことだ。もっと大きなことを自分は成し遂げるべきで、その夢を持っていると主張する。顔の面がどれほど厚いのかと思ってしまうが、それくらいの鈍感さがなければ政治家は務まらないのも事実かもしれない。1年に300万円ほどの出張費請求は、億単位の詐欺事件が多い中、確かにその議員の言うように大問題ではないだろう。先の司会者は議員が年に100回も訪れた城崎に病弱な母親がいて、それを見舞っていたのではないかと、小説家もびっくりの想像力を働かせて意見していたが、たぶんその司会者もそのような作り話をいつでも持ち出す覚悟で今まで賢く回ってがっぽり稼いで来たのだろう。まだ眠たいのにつまらないことで起こすなと、筆者はまた夢の中に入って行き、1時間ほどして階下に行った。いつもより早めに寝たのに、起きるのが少し遅くなったのは、昨日南側のベランダの手すりのペンキ塗りをしたからだ。隣家が特に錆びついていたので、塗り終えるのにわが家の倍の時間がかかった。しかも最も暑い午後1時から3時頃までだ。作業中は気が張っていたので疲れを感じなかったが、さすが夜はいつもより早く寝る気になった。隣家のベランダを塗り直している最中、ふと目を庭に生える木々にやると、そこにちょうどヒヨドリがやって来て留まり、3メートルほど離れた筆者の方をまともに向いた。ヒヨドリの顔を真正面から見たのは初めてで、若冲の鶏図を思い出した。その瞬間、ヒヨドリは首を90度回転させた。すると1メートルほど離れたところにもう一羽のヒヨドリが飛来して留まった。つがいだろう。先に来た方は口を幾分開けたので、鳴き声を発しそうに見えたが、特有の鋭い鳴き声は聞くことが出来なかった。静かに二羽がやって来て緑の黄葉がたくさん生い茂る木に留まり、そしてまたすぐに去った。その様子は別段珍しくはないのに、筆者は二羽をやや見下ろす位置にいたためもあって、二羽は輝く緑の中で楽しげにしている微笑ましいカップルのように見えた。ヒヨドリや雀はわが家や隣家の裏庭でよく見られる鳥の代表だが、たまに耳慣れない野鳥が鳴いてくれる。その時は耳をそばだて、大きな音を発して驚かないことを心がける。合歓木にはもう満開を過ぎて雀を初めとした小鳥たちがその木に留まることも少なくなったような気がするが、そのほかの緑がそれなりにあって、わが家の裏庭は小鳥たちにはちょっとした楽園ではないかと自惚れる。
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 裏庭に小鳥がやって来るのは緑があってたまに花が咲くからか。肝心の餌はどうなのだろう。虫がいればなおいいはずで、筆者の知らない間に緑に繁殖する虫を食べてくれているのかもしれない。そう言えば昨日は隣家のベランダでアゲハ蝶の羽を1枚見た。もう半分と胴体が見当たらず、蜘蛛に食べられたか鳥に食べられたか、とにかく捕食されたのだろう。あまりにその羽がきれいで、黒いペンキで右手を汚し切った筆者が触れるのは悪い気がしてそのままにしておいた。その蝶はどこかから飛んで来たものと思うが、わが家の裏庭で羽化したものかもしれない。となると、青虫が筆者の知らない間にもぞもぞと動き回っている。10数年前、そういう光景に出くわした。裏庭に出ていたところ、地面を3匹の太くて大きな芋虫が小川に向かっているのを見つけた。全速力という雰囲気で、それは筆者に見つかったため、危険を感じているというふうであった。黒に緑や赤の点々が目立ち、いかにも蛾のように見えたので、殺虫剤を吹きかけたが、それでも速度を緩めなかった。あっと言う間に視界から消え、探すのをやめたのは、殺虫剤を噴霧したことを後悔したからだ。彼らも必死に生きている。蛾と思ったが、案外稀で美しい蝶かもしれない。それに鳥に見つかって食べられるとしても、殺虫剤の味がついていたのでは鳥にとっては毒になる。それはさておき、わが家の裏庭を見た客人がよく言うのは、畑にすればスーパーで野菜を買わずに済むということで、その農作業の楽しみもつけ加える。だが筆者にはそんな面倒なことをする気はない。野菜を育てている人が言うには、虫によく食べられることだ。ならば鳥も食べるのではないか。野菜を育てると鳥がよりたくさんやって来そうで、それはそれで楽しいはずだが、せっかく育てている野菜が齧られると鳥が憎たらしくなるだろう。人間、いや筆者は勝手なものだ。野菜が鳥に齧られるとして、大きな瓜類であれば人間が食べる部分は大量に残されるであろうから、さほど心配することもないか。今日は切株の写真を載せ、それにまつわる話をするつもりが、瓜から始めたものであるから、なかなか切株につながらない。そこで今日の写真を説明すると、最初のは「風風の湯」から直線距離で100メートルほどの河川敷に生えている合歓木で、1週間ほど前に撮った。別のカテゴリーに書いたように、桂川河川敷の渡月橋から松尾橋に至るまでの間は川の断面積を確保するために、長年生えていた樹木が根元から伐採された。それでも例外として残された木がごくわずかにあって、そのうちの1本がこの合歓木だ。あまりに枝を横に広く張っているので切るに忍びなかったのだろうか。この木から500メートルほど下流に数年前まで合歓木があって、それはおそらく樹齢50年といったところで枯れたのか、伐採され、今は古びた切株になっている。その木には思い出があり、わが家の裏庭の合歓木はその木に実った種子で育てたものだ。おそらく今日の最初の写真の木もそうだろう。種の保存が実感出来る例で、自然は逞しい。では木の伐採は不自然かと言えば、それはどうなのだろう。人間が自然の一部とすれば人間の行為は自然だ。人間が自分の生活だけを考えて河川敷の樹木を伐採するのもそう言えるか。自然と言う人と不自然と考える人があるだろう。せっかく樹齢を重ねて来たというのに、ある日一斉に樹木が根元から切られる。そういう大量殺戮が今年1月に桂川の河川敷で行なわれた。今日の2枚目以降の写真は切られて間もないそうした樹木の株だ。根まで掘り起こすのはあまりに手間もかかるし、また意味のないことで、写真の状態のまま年月を重ねて行くが、ひこばえがあったりするかもしれないし、また地中の根は新しい樹木の誕生の養分にもなるだろう。そして葉をまた茂らせるようになれば鳥も増える。そうなると河川敷で無断で畑を耕している人たちはまた鳥の被害に嘆くことになるが、それが自然であれば我慢もすべきだ。
●切株の履歴書、その2_d0053294_0135792.jpg

by uuuzen | 2014-07-03 23:59 | ●新・嵐山だより(シリーズ編)
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