枠から完全にはみ出た生き方があるだろうか。今朝目覚めてしばらくぼんやりしていると、窓の外に鳥が行き交う様子が見えた。背景は空のみで、窓枠の中にたまに鳥が飛び込んで来る様子を眺めているのは楽しい。そして思ったのは、空を飛ぶ鳥は自由かどうかだ。
筆者が眺める窓枠の外を自由に飛び交っているから、窓枠を基準にすればその枠には嵌っていない生活だが、鳥は鳥で枠の中で生きている。どんな動物も同じで、人間はよく自由でいたいと言うが、生きている限り、何かの枠の中に収まっている。そのことをヨーコ・オノは「BORN IN A PRISON」であると歌ったのかどうか、ともかく一旦その枠を意識し始めると、急に不安になる場合がある。筆者もそういうことがあって、そんな時にはその考えを振り払うことにする。自分を閉じ込めている枠を意識すると窒息しそうな気がするものだが、その枠から絶対的かつ恒久的に逃れていたいと思ってもそれは不可能であることを知っている。名画と思われているのかどうか知らないが、昔スティーヴ・マックイーンの『パピヨン』、離れ小島に隔離された主人公の囚人パピヨンが脱出を図る内容で、それは享楽的な生活を求めての行動ははなはだわかりやすく、逃げ出すことに成功した主人公はまた酒や女が自由に手に入る生活に戻ったことであろう。その映画の言わんとしていることは、人間には自由が必要であるということだろう。だが、その自由は見方によっては安っぽい。酒や女が自由に手に入るとして、それが枠から解き放たれた生活か。あまり考えることの得意でない男ならそうかもしれない。そう言えばパピヨンを演じたチンピラ風情そのままのマックイーンはまさに適役であった。これがもっと知性を感じさせる俳優ならば、脱出を試みずに島に留まって瞑想に耽ることを選びそうに思われる。パピヨンの相手役をダスティン・ホフマンが演じ、彼は島に留まる方を選んだが、それは知性があったというより、単にパピヨンのように断崖絶壁の上から海に飛び込む勇気がなかったからだろう。そのようにホフマンは演じていた。ともかく、島に幽閉されるとそこから脱出して自由を得たいと人間は思うらしく、同じパターンを描いた映画やドラマをアメリカは数多く作って来たが、人間はどこへ移住しようと、枠というものからは逃れられない。それをしがらみと言い代えてもよいが、それを煩わしく思うか、逆に楽しいと思うか。人間は常にその選択を迫られ、また常に決定して先へと日を送って行く。それが人生で、しがらみを煩わしいと思う気持ちが大きい時は自分を不幸と感じてその境遇から脱したくなるが、脱出が難しい場合はいろいろ面倒なことが生じる。そのひとつは精神病だ。あまり耳慣れない言葉であったが、「統合失調症」という病気に罹った人を身近に知った。個人的なことなので詳しく書くことは出来ないが、先日その人がひょいとわが家にやって来て、3時間ほどだが嵐山を散策した。その人の口からどういう理由でその病が発症したのかを聞いたが、理解出来るところもあるが、そうでないところもあった。ネットで調べても今ひとつどういう病気なのかわかりにくく、精神の病の複雑さの前に首をかしげるだけだが、誰でも事故に遭遇して大けがを負う可能性があるのと同様、精神の病にいつ何時冒されるのかわからないことだけは漠然とながらもわかる。その人に当日筆者が話したことで最もよく覚えているのは、筆者が見る睡眠中の夢についてのことだ。以前に何度か書いたかもしれない。筆者はこのブログの別のカテゴリーで自分の見た夢を文字にしていた。過去形で書いているのは、今のところ再開するつもりがないからだが、その理由は、夢はしょせん意味がなくてアホらしいと思うことと、夢を思い出して詳しく書き始めると、どこかで気持ち悪くなるからで、それはある場面の源がいくら考えてもわからないことによる。
夢は無意識の状態で見るから、どのように不道徳な内容であっても責任を取る必要はないが、夢のかなりの部分は遅い場合は数日後に何気ない拍子に思い当たるふしがあって、「ああ、なるほど。それでああいう変な場面を見たのだな」と合点が行く。ところが、思い当たらない場面もあって、それをしきりに思うと落ち着かなくなる。それで思わないことにして忘れてしまうのだが、そのような意識を働かせずとも、誰でもたいていの夢は忘れてしまって何の問題も起こらない。起こるとすれば、思い当たるふしのない場面をいつまでも覚えていて、自分の内部に別の人格が潜んでいるように感じる時だ。どこまでも意識の塊と自分のことを考えていても、実際は誰もがそうではなく、無意識が夢の中で動き回るし、しかも睡眠中のそうした夢は目覚めている時の意識に何らかの作用を及ぼすから、日中でも無意識は入り込む。それは「魔が差す」という表現を思えばいいかもしれない。つまり、人間は自分のことを「絶対に○○しない」といったように過信出来るものではなく、誰でも危うい均衡の上で生活していて、いつ精神のバランスを崩すかわからない。そういう状態を「心神喪失」と呼んで、刑罰を科さないこともあるから、精神の病は割合広く認知されていると言うべきだろう。それはさておき、精神を病む人は先の筆者の知り合いのように、自分で分析して原因を理解している場合もあるのに、なぜ完治しないのだろう。原因を理解するとは、筆者の睡眠中の夢分析で言えば、夢のあらゆる部分を日中思ったことの反映に違いないと決めつけて、逐一その源を探る行為に似ているが、前述のように必ず思い当たるふしのない場面が夢に含まれる。そう考えると、統合失調症の人がそういう病を患った原因を突き止めようとしても、それは無理な話であり、また病の完治とは関係がないように思える。当然そのことを統合失調症の人はよく知っているから、病の完治からはなお始末に悪い。今はいい薬があるそうだが、それも万全とは言えないだろう。筆者がぞっとしたのは、その人がしばらく精神病院に収容されたことで、その時の経験を詳しく語ってくれはしなかったが、とにかくひどい状態であったらしく、その人は力の限りその収容に抵抗し、どうにか退院出来たそうだ。家内はその話を聞きながら、映画『カッコーの巣の上で』を思い出したらしいが、一旦精神病の烙印を押されると、本人の意志とは関係なく、世間がその人をより悪い精神状態に追い詰めて行く場合もあるのではないか。話を戻すと、筆者は来訪した統合失調症の知人に対し、自分の睡眠中の夢が自分の意志とは無関係である例を持ち出して、人は無意識に動かされる場合があるので、あまり深刻に考えず、気を楽に暮らした方がいいと意見した。それがまたどれほど無責任でその人を追い詰めることになるかどうかはわからない。そう考えると、話すら出来なくなるから、なるべく以前のままの筆者を見せるしかなかったというのが正直なところだ。それほどに筆者は統合失調症については無知だが、3日前、たまたま思い出して引っ張り出したファスビンダーのDVD『不安が不安』(ANGST VOR DER ANGST)にこの病名が出て来た。この映画は半年ほど前、京都のドイツ文化センターで無料鑑賞会が開かれたが、DVDを所有しているので出かけなかった。それですぐに見ればいいものを、本と同じで手元にあるだけで安心してしまい、なかなか見る気になれなかった。それが3日前に急に思い出したのは、長年気になっていた大きな木の枯葉や枯れ枝を取り払ったからだろう。夢の分析で言えばきっとそうだ。気になっていたことを実行したついでに、別の気がかりもこなす気になったというのがもっともらしい。
『不安が不安』というのは少しわかりにくい訳だ。『不安に感じることが不安になる』という意味で、不安が不安を呼ぶ姿を思えばよい。映画の中では「統合失調症」の訳語は一度だけ出て来た。製作は1975年であるから、当時はまだ珍しい言葉であったように思う。原作はある女性がファスビンダーに送った体験記で、それをファスビンダーが脚本にして90分のTV用映画として撮影した。25日で撮り終え、またどの場面も予めどのように撮影するか明確に決めていたという。そして使用したフィルムは放映時間の4倍で、これは通常の映画の半分以下という。無駄を嫌ったファスビンダーで、制約の中で最高の仕上がりを目指した。制約すなわち枠があって製作するのは何事も同じだが、毎回同じような作品になることを作り手は拒むものであるし、ファスビンダーは特にそうであったから、枠を毎回作り替えると言おうか、とにかく次々と映画を撮ることに邁進し、その果てに頓死してしまった。そのことでようやく人生という枠から逃れることが出来たが、まさか死の世界に枠があっては死者はたまらない。また、枠から解き放たれた死というものは、枠というたががない点で捉えようがない、つまり生者が云々出来ないもので、その意味で全くつまらない。となれば、枠は生の意味であって、それを楽しむことこそが生きている者の努めと言える。ともかく、ファスビンダーにしてもその枠から逃れられず、一方で映画という枠内で生き甲斐を見出し、もう一方では枠から絶えず逃れ出ようともがき続けた。その枠を「不安」と言ってよい。ファスビンダーが原作を読んで気に入ったのは、そこに描かれる主人公に自分と同じ性質を見たからであろう。本作の主人公は女性で、数学教師の夫と娘をひとり持つ家庭の主婦だ。共働きでないので、傍から見れば何ひとつ不自由のない生活と言ってよい。つまり、恵まれていて幸福だ。にもかかわらず、その女性は不安でいっぱいだ。間もなく二番目の子が生まれるが、不安は日増しに大きくなる。自分のことを幸福とは思っているのだが、日常の何気ない時に眼前の光景が歪んで見えることがある。そのことに不安を覚え、近くの医院に駆け込んで薬を処方してもらう。ところがそれを飲んでも不安は消えない。薬切れになるとまた不安で、居ても立ってもおられず、また医院に走って無理やり薬をもらう。そのうち、薬剤師と肉体関係を結ぶが、それでも不安は収まらず、今度は酒に手を出す。そのように壊れて行く妻を、夫はようやく気づいて別の病院に連れて行き、「統合失調症」であることを知らされるが、夫にはどうすることも出来ず、涙ぐむばかりだ。一方、すぐ近くに住む夫の妹や母は夫をないがしろにしていると非難の言葉を浴びせるばかりだが、これは主人公の女性にすれば自分の周囲に味方がひとりもいないのと同じ状況で、統合失調症になっても仕方のない立場であることをほのめかす。本作を見て、主人公の女性はあまりに恵まれ過ぎて贅沢病に罹ったと言う人があるかもしれない。共働きならば精神病になっている暇はないと見る人もあるだろう。だが、統合失調症はそう簡単な理由でなるものではない。原因がわかればそれを除去すれば完治するはずだが、統合失調症はどうもそうではないようだ。
本作の結末を書くと、主人公はタイプライターを使って文章を綴っているところで終わる。そういう仕事を得たのだ。それによって病が一応は収まったことが暗示される。これは原作者がそうであったことの反映だ。ファスビンダーに文章を送り、それが認められて映画化された結果、女性はプロの小説家になった。それで統合失調症が治ったのであろう。だが、ファスビンダーの映画では一見そのように見えるだけで、いつまた彼女が病をぶり返すかわからない漠然とした不安のようなものを感じさせる。これはとても不気味で、完全なハッピーエンドには思えない。彼女は自分が出来る仕事を得、そのことに没入することで不安を感じない状態に自己を持って行くことが出来た。それは他人から見れば何ひとつ不自由のない恵まれた主婦という枠がとても耐えられない境遇であって、自分はもっと別の何かが出来る存在であることを確認したかったということになりそうだ。心の安定のためには経済的なことはひとまず無関係ということだ。だが、タイプライターで文章を打つという新しい「枠」の中に嵌ったその女性が、また新たな不安を抱えない保証はない。生きている限り、枠は次々と生じる。常にそのどれかに嵌りながら、別の枠を夢見るのが人間だ。本作の主人公が薬、そしてアルコールがなくては生活出来なくなるのも、悪い意味での枠の中にすっかり嵌り込んだ状態だが、ファスビンダーも薬物とアルコールで身を滅ぼした。監督は本作の主人公の姿に自己を投影していたのだろう。統合失調症や薬物、酒は今もなくならないどころか、本作で描かれる主婦は形を変えて日本中に見られる。夫がかまってくれない、自分で稼がない、といったさまざまな理由で主婦は不安に囲まれている。不安が不安を呼び、ついには神経が参ってしまう。その時、誰かが手助け出来ればいいが、配偶者ですら異変に気づかない。気づいてもどうしていいかわからない。そういった問題を75年の時点で映画にしたのは、さすがファスビンダーと言える。ここには書かないが、原作ではどうなっているのか気になる登場人物があった。日本の監督が同じ原作を使って同じ日数と経費で撮影しても、まず本作のような仕上がりは望めないだろう。筆者が気になりつつも面白いとして忘れることにした謎めいた登場人物がひとりいた。その人物は本作に登場しなくても全くかまわないし、むしろいない方がわかりやすくていい。それなのになぜ登場するのか。原作に登場しているとすれば、監督はその人物を消化し切れなかったか、あるいは曖昧な状態として描く方が効果があると考えたかのどちらかだが、原作にはいない人物ならば、映画としても深みを出すために監督が作り上げたことになって、天才の面目を思わせる。それにしてもファスビンダーは統合失調症ないしそれ気味であったのだろうか。薬物によってとんでもない名作が生まれると考えたそうだが、不安を抱えるから薬物に走った本作の主人公からすれば、ファスビンダーはどういう不安を抱え続け、それから逃れるために薬に手を出し続けたのかと思う。そうそう、本作にはファスビンダーの恋人であったアルミン・マイヤーという若い男性が登場する。DVDケースのジャケット写真の左の人物がそうだ。彼はファスビンダーに薬物を教えられ、そして本作の3年後、監督から別れた後に自殺した。その現実をファスビンダーがどう受け止めたのだろう。