掌を合わせて拝まれる対象として仏像が今もあるのかどうか。拝む機会はもっぱら墓参りか神社への初詣でくらいで、寺の本尊を拝むことは縁がなくなっている人が多いのではないだろうか。かくて仏像は鑑賞されるもので、博物館で展示され、多くの人に見てもらうのが役目ということになっている。

2,3年前か、奈良の興福寺の阿修羅像が東京の博物館で展示され、大変な人気であった。それを冷やかにに見るのは筆者のように60を過ぎ、しかも昔から阿修羅を見ている者だ。となると、若い女性が阿修羅像にまるでアイドルのように惚れ込んでも、それは若さゆえであって、30年も経てばかつて胸をときめかせたことを不思議に思うかもしれない。ともかく、古い仏像は常に若い世代には新鮮に映る可能性があり、拝む対象となっていなくても、いい造形であるとは認識され続ける。なので、仏像はまずは拝む対象であると目くじらを立てなくてもよい。阿修羅像に感動した若者の中から何人かは仏像の研究者になるか、あるいは僧侶になる場合もあるだろう。鑑賞される対象であっても、感動の次に拝みたくなる思いがその人に芽生えることは充分あり得るから、博物館で各地の仏像が並べられるのは悪いことではない。30数年前、ある女性から聞いたことだが、若くして仏像に関心を持つと、異性に関心がなくなって独身のまま中年を迎えてしまう場合が多いそうだ。当時筆者は展覧会で仏像はそれなりに見ていたが、どこがいいのかさっぱりわからなかった。それは今もさして変わらない。つまり、筆者は仏像に強い関心を持てないまま生きて来た。それもあって結婚して子どもを育てたと言えるかもしれない。その女性の話を聞きながら、20代で仏像に関心を持ち、異性への興味を失うほどというのは、どれほど仏像について詳しいことかと想像した。もちろん筆者の想像を超えていて、どの寺にどういう仏像があり、どういう形をしているかを知悉することはどれほどの時間と労力が必要なのか、気が遠くなる思いがした。だが、それは筆者が仏像に関心がないからに過ぎない。誰でも関心が増大すると、その対象について詳しくなる。そしてその対象に関心のない人から見ればそのことがさっぱり理解出来ず、「趣味だからね」の一言で軽く片づけられる。その言葉に、ある何かに強い関心を抱いている人は多少心が傷つく思いがするが、意見した人にとっては関心も知識もない世界のことであるから、「趣味」という言葉で表現するしかない。それで、仏像が好きでたまらない人がついに独身を通すことになったとしても、それは単なる仏像趣味であって、仏像に関心のない人から特別誉められることでもない。これは仏像愛好家からすれば許せないことかもしれないが、仏像の源のお釈迦さんは仏像を何よりも好きになって独身を通せと弟子たちを諭したことはなく、仏像好きはやはり単なる趣味と言うべきだ。それで世の中には無数の趣味があって、そのどれか、あるいはいくつかに関心を抱いて楽しく暮らす人があるが、仏像趣味は他の趣味より多少変わっていると筆者が思うのは、最初に書いたように、それは鑑賞される芸術的な彫刻とは違って、拝まれることが基本にあるからだ。拝むのであればひとつでいいではないかと筆者は思う。それを仏像趣味人が結婚するよりも楽しいとばかりに仏像のあれこれに詳しくなるというのは、「おたく」と言ってよく、拝むことをとっくに忘れているようにも見える。何が言いたいかと言えば、仏像を拝みたいと思っているのであれば、仏像について広く深く知ろうとはしないのではないかということだ。
仏像はどれもある寺に伝えられて来たもので、めったなことには他の地域の人の目に触れなかった。今でも秘仏はいくらでもあるはずで、仏像は誰にも見せるというものではなく、やはり少し奥深かって暗い場所に据えられ、遠目に見て拝むものだ。そういう奥ゆかしい存在を白日の下に晒し、しかも細部の形まで知りたいというのは、何となく冒涜的ではないか。丸見えになってしまうと身も蓋もないものが世の中にはある。仏像もそれに属するだろう。展覧会で各地の仏像が並べられるということは近代に入ってからのことで、多くの仏像を間近に鑑賞出来るようになった。それで先の仏像趣味者が登場することにもなったが、それはある仏像が他の仏像と比べてどの部分がどう違うといった形態の差の知識を際限なく増やし、仏像を彫刻として見るという芸術鑑賞行為と同じと言ってよい。それでも独身を通す人がいるほどであるし、そういう人は普通の芸術鑑賞と同一視してもらっては困ると言うだろう。そこで持ち出すのが、普通の芸術とは違って信仰の対象になるもので、拝みたくなるほどのありがたさを感じさせるという意見ではないか。これを簡単に言うと、仏像は最高の芸術ということだ。仏像以上の芸術はないという意見に筆者は反対はしないが、全面的に賛成もしたくない。名前のある仏師が作ったものは、それだけで普通の芸術と同じものと見られても仕方がない。仏の像でありながら、一方で作った人の名前が伝わっているというのは、「普通の芸術」にほかならない。信仰心のみで作ったのであれば名前を残さなくていい。製作者の名前がわからないのに最高級の芸術と言えるものはたくさんある。そしてそういうものは宗教に用いられる造形である場合が多い。それはさておき、鳥博士さんから送ってもらった招待券で5月には3つの仏像展を大阪、奈良、京都で見た。それらの感想の最初が今日で、仏像全般についてはまた書く機会があるので本論に入ろう。本展は副題が見所を端的に表現している。「武家のみやこ 鎌倉の仏像 迫真とエキゾティシズム」で、迫真さと異国的なところを味わえば企画者の思いが達せられるといったところだ。だがこのふたつの言葉は考え始めると曖昧な思いが強まって来る。「迫真」はどんな仏像でもそれなりにあるだろう。それにもともと仏像はインドや中国を経て日本で作られるようになったもので、「エキゾティシズム」はあって当然ではないか。つまり、「迫真とエキゾティシズム」は鎌倉時代の仏像に限らず、それ以前の仏像にも使える言葉のような気がして来る。それはそうなのだが、物事には広義と狭義があり、本展では後者の意味で使っている。他の時代に比べればより「迫真とエキゾティシズム」さがあるということで、その理由を知るには本展に並ぶ仏像だけを見てもあまりわからず、ある程度は日本の歴史を知っておかねばならない。そしてその大きなヒントは「武家のみやこ」という言葉だ。京都とは違って鎌倉は武士のみやこで、あた武家であるからにはその趣味を反映した仏像が造られた。それが「迫真とエキゾティシズム」というふたつの表現で代表出来る特徴を持つということだ。「迫真」は「真に迫る」で、言い代えれば「写実」だ。「本物みたい」な仏像が造られたことは、鎌倉以前はそうではなかったことになる。そうした仏像は様式性が強かったと思えばよい。様式性とは「型」で、どれも似た雰囲気を持つ。「型」にしたがって作るのであるから当然そうなるが、この様式性にはいい点もある。見事に完成されたある仏像があるとして、それが人々に大いに歓迎されたのであれば、もうその形を大きく外して新しく作る必要はなくなる。そしてどの寺も似た仏像をほしがるということになるが、拝む人たちにとっても他の寺とはよく似ながら完成度の高い仏像はありがたい。それに他の寺や地域の仏像とさほど変わらない形であれば、仏像とはだいたいこういうものという考えが出来上がり、信仰の対象とするにはかえってよい。これが他の寺と著しく違う形であれば、拝みたくなるだろう。
だが、どんな造形にも流行がある。これで完璧と思っていても、必ずその形は古く思われる時が来る。かくて様式が細部まで決まっていたとしても、随所に工夫を凝らす仏師が登場する。というより、常に仏師はそういういわば自由裁量に任せてもらえる箇所を知っていて、そこに自分や自分が属する流派の特徴を出そうとする。それは最初は仏師の間でしかわからない微妙なものであるだろうが、そのうち顕著になって来る。ましてや世の中を支配する連中が変わると、そういった人たちの好みを受け入れたものにしようとする。武士はそれまでの支配階級とは違って力でのし上がった者たちであるから、力強い造形を好む。そこにそういう表現を得意とする仏師の集団がいわばお抱えになって新しい仏像を量産するが、鎌倉ではそれは「慶派」が担った。運慶や快慶の名前は小学生でも知っているが、彼らの集団だ。またこのふたりの代表作である東大寺南大門の仁王像は近畿の小学生は演奏で必ず見る。その筋肉隆々の姿を見ると、武士が好む造形であるのはわかるが、本展で言う「迫真」の言葉はそういう造形だけを指しているのではない。そしてそこが仏像をよく見慣れている人とそうでない人とでは理解の及び具合に著しく差が生ずるはずで、筆者はこの年齢まで多くの仏像を見て来ながら、漠然と対峙して来たので、鎌倉時代の仏像の様式なるものが充分に理解出来たかとなると、やはり漠然と対峙したこともあって、これを書きながら大きな特徴といったものを思い出せない。それでは本展の感想を書く資格がないが、せっかく見て来たことでもあるし、何か書いておかねばならない。「迫真」さは慶派が武士の好みに応じて特徴として盛ったものか、それとももともと慶派は「迫真」を特徴としていて、それを武家が好んだのかだが、このことを正確に理解するには、慶派のほかにどういう流派が当時対立していたのか、またそれら他の流派の仏像はどういう造形的特質を持っていたかを知らねばならない。そういう流派の比較を紹介する展覧会が今まであったのかどうか知らないが、圧倒的に慶派が有名であることは興福寺の仏像を多く手がけ、また運慶や快慶の名前以上によく知られる仏師がいないことからもわかる。筆者が面白いと思うのは、慶派は奈良の集団で、武士の世の中になって鎌倉に呼ばれたことだ。つまり、仏像の歴史をたどると奈良に行き着くことで、それで本展が奈良で開催されたのもわかる。武士が偉そうにしても、新しい仏像をほしいとなると、東国では間に合わなかった。また、慶派は公家に変わって新しい支配階級が登場したことによって、自分たちの才能を思い切り広げる場を得、それまでになかった形の仏像を作ることが出来た。このことは、世に伝わる作品は世を支配するパトロンがいてこそ生まれて来ることを示している。慶派にとっては今までの仏像の知識は充分蓄えているから、新時代に即した像を作ることに技術的問題はなかったろう。そこには仏像もまた人間が作るもので生臭い話もいろいろとあったはずで、信仰の対象という建前は取りあえず脇に置いておこうという考えが仏師たちになかったとは言い切れまい。出来上がった像が迫真的で立派なものであって初めて注文者は喜ぶし、そこから信仰の対象という考えが始まる。つまり、作り手たちは現代の仏像趣味者たちと同じように、どの寺の仏像のどの部分がどういう形をしているかといった知識をたくさん持っていて、常にいかに新しく、また迫真的な像を作り得るかを考えていたであろう。鎌倉時代はその絶頂に達し、新しい「型」を完成させた結果、それ以降は仏像はそれこそ勢揃いした「型」の中からどれかを選んで組み合わせるといった方法に頼るか、あるいは慶派の「型」を踏襲するしかなかったが、現実的には後者であろう。
「エキゾティシズム」の特徴だが、これは中国的ということだ。仏像は大陸からわたって来たもので、今さらに中国的というのも意味がよくわからないが、中国の文化は貿易で流入して来たから、日本とは異なる表現も伝わっていた。それを新しい要素として取り入れるのも武士ならではで、やはり今までの仏像とは違う様式が見られるのが鎌倉時代の仏像だ。そういった特徴を会場内ではキャプションで具体的に書いてくれていたが、図録を買わなかったこともあってここで詳しく書くことが出来ない。ひとつ覚えているのは、仏像がまとう衣の襞やまたその垂れ具合だ。たとえば「釈迦如来坐像」という珍しい釈迦の坐像があって、臨時で作った直方体の箱の上に据え置かれて展示されていた。釈迦は箱の上面に座っているが、衣は箱の左右の側面を覆うかたちで垂れていて、その坐像のみを平らな面の上に置くことは不可能だ。衣がそのように長く垂れるのは鎌倉の仏像のひとつの特徴で、これは「エキゾティシズム」の要素だ。同坐像のように、凝った造形が鎌倉時代に頂点に達したと見てよいだろう。今までにない新しい仏像をとなると、どんどん凝って行くしかない。その絶頂は鶴岡八幡宮にある「弁財天坐像」だ。筆者はこの実物を見るのは初めてだが、その存在は昔から知っていた。また初めて写真で見た時は上半身が真っ白な裸で、それでびっくりしたものだが、今回は衣装を着せられて展示された。また琵琶をかまえておらず、筆者が昔写真で見たものとは違う別の像かもしれない。確か会場にもふたつあると説明があった。だがどちらも上半身は裸の状態で彫られている。顔は当時の美女をモデルにしたのか、様式的ではない。それがとても生々しい。つまり迫真的だ。同じことは鎌倉時代にたくさん作られたのだろう、特定の武士の坐像だ。実物大で作られているので、顔は本人そっくりなはずで、現代でいう肖像写真の代わりになっている。こうした像は神のような地位に武士が上ったことを示してもいる。凝った仏像を彫るだけでは物足りず、ついには武士を崇める対象として彫るに至ったが、そうなれば人々の仏への信仰が微妙に変質したことも明らかではないか。そしてそのつながりに現在がある。話を戻して、衣装を着せられた「弁財天坐像」は百貨店のマネキンと同じ発想だ。実際、そうしたマネキンの原点に仏像があるだろう。マネキンもいろいろだが、本物の女性とそっくりなものがある。それは鎌倉の仏像に内在する迫真性の現代的焼き直しだ。仏像もだが、マネキンもあらゆる造形が出揃い、もう斬新なものを生み出すことはないのではないか。ただしこれは仏像とマネキンが同列のものになったという意味ではなく、仏像趣味者は仏像をオプションとして信仰心を起こさせる芸術的彫刻と言い張る。