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●ならまちの名の知らぬ犬
を噛まれたことがあるので犬は今でも苦手だ。猫も飼ったことがない。動物嫌いというほどでもないが、ペットの世話をするのは苦手だ。植物でもかなり放ったらかしにするのでそれはあたりまえかもしれない。筆者が20歳頃までは町中に野良犬がいた。



今ではすっかり見なくなったので、嵐山から松尾に続く自転車道路沿いの公園で飼い主がよく犬を自由に走らせているのを見るとぎょっとする。中にはかなり大きな犬もいて、それが飼い主の思いを拒否して散歩中の人に接近し、脛や尻に噛みつかないとも限らない。1,2年に一度は土佐犬が人を噛み殺すという事件が報じられるが、飼い主は自分に噛まないので他人も安全と高をくくっているのだろう。それに、そういう事件を聞くたびに筆者は思うが、飼い主はまず自分の犬が悪いとは思わない。たとえ人が死んでも悪いのはそいつで、自分の犬に怯えた素振りを見せたか、脅かしたか、とにかく犬は悪くなく、他人が悪いと考える。そう想像して筆者は暗澹たる気持ちになる。動物好きは優しい心の持ち主と一般には思われている。本人もそう思っている。ところが自分の飼っている動物をかわいがりはするが、他人は嫌いというのであれば、本当に優しい心の持ち主と言えるか。動物は大事だが、もっと大事なのは人間ではないか。犬が人を噛み殺しても内心悪びれないのであれば、それは畜生に劣ると言うべきだろう。それはさておき、筆者が動物を飼うことに縁がないままで来たのは、前にも書いたことがあるが、その経済的余裕がなかったことが最大の理由と思う。筆者が10代の頃は飼い犬にも流行があり、白いスピッツをそこら中で見かけたことがある。それが急に全部姿を消した。代わってほかの品種、たとえばダックスフントとかスパニエルとかが飼われ始めたのだろうが、そういう流行はペット店の宣伝によるところが大きいだろう。あるいは芸能人の誰かが飼っているというのでみんなが真似するかだ。そうした流行犬は月給かその半分ほどの価格がするので、飼うことは優雅な生活を他人に示すことになる。そして金のあまりない人は雑種を飼う。それならわが家でも無理をすれば飼えないことはなかったかもしれないが、とにかく飼いたい気持ちが起こらなかった。前述のように、野良犬をたまに見かけることがあったし、猫も同様で、わざわざ自宅で飼わなくても見かける機会は多かった。その頃、野良犬がなぜいるのかを深く考えたことがなかった。今思うに、飼い主が捨てたとしか考えられない。ある寒い夜、銭湯に行く途中、閉店した菓子屋の前で犬が6,7匹群がっていた。みな比較的小型であったので怖くはなかったが、犬の方も筆者には無関心であった。それらの犬は輪を作っていて、その中心には白い犬の背中に乗った色の濃い犬がいた。その性交の様子をよだれを垂らさんばかりに取り囲んだ犬たちは眺めていて、中には乗っている犬を押しのけて交代をせがんでいる小さな犬もいた。それが雄であったか雌であったかわからないが、野良犬のグループ・セックスの現場に遭遇し、何か痛々しいものを感じた。彼らは食べることもままならないのに、子孫を残そうとしている。いや、話は反対で、餓死する恐怖が迫っているので、子孫を残しておきたいのだろう。その夜は筆者以外に通りを行き来する人はいなかった。立ち止まって眺めず、すぐに銭湯の暖簾をくぐったが、これが昼間なら商店主たちは棒で犬を叩くなりして追い払ったに違いない。
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 野良犬に恐怖を抱く人が増えたのか、いつの間にか野良犬は駆逐されるようになった。そう言えば保健所が雇った人だろうか、大人がふたりがかりで野良犬を捉えている場面を見かけたこともある。憐れにも犬は自分が捉えられた後、どういう運命が待っているのか知っているようであった。飼い主に大事に育てられながら、飽きられればゴミのように捨てられる。今でも同じだろう。そんな飼い主のもとで犬がどのような性格に変貌して行くかを想像するといたたまれない。これも前に書いたが、わが家のすぐ近所に10数年ほど飼われていた黒の大型犬がいた。盲導犬に使う種だ。飼われ始めたのは小犬の時からだ。その犬は半年ほど前に死んだが、死ぬ前夜、数時間悲しい声を上げ続けた。たぶん死ぬなと思っているとやはりそうであった。翌朝、その家の母親が犬の死体を引き取る業者と玄関前で話しているのを見かけた。その犬の一生は牢獄の中でつながれたままも同然で、狭い裏庭に終日閉じ込められ、外に散歩に連れ出してもらえるのはごくたまにで、尿も便も庭の中に垂れ流しであった。そんな犬が凶暴になるのは当然で、なおさら外に連れ出されることはなく、まさに「飼い殺し」された。それでも寿命をまっとうしたほどの長さを生きたと飼い主は反論するかもしれないが、小犬の時のかわいさで飼ったはいいが、飼い続けるには責任というものがある。だが、今は幼いわが子でも餓死させたり虐待を続ける親がいる。何だかいやな話になったので話題を変える。これは3日前のことだ。家内と上桂のスーパー2軒をはしごした帰り、筆者はいつも通る裏道を行くことにした。これも以前書いたことがあるが、ある民家の玄関扉のすぐ前に犬小屋があって、10年ほど前はその中に品種名は知らないが、鼻先がブルドッグや狆のようにべっちゃりとし、白と茶色がぶち模様になった毛の長い犬が住んでいた。いつ通りがかっても犬小屋の外で寝そべっていて、よく筆者と眼があった。とてもおとなしく、一度自転車を停めて写生したこともある。その時は玄関前の道の際に出されていたが、筆者を見ても吠えることはない。それにじゃれてほしそうな素振りも見せない。その犬を4,5年は見続けた。年々元気がなくなって行くのはよくわかった。目尻に涙が固まったようなものが溜まり、視力も落ちていたのだろう。ある日、ついに犬小屋は空になった。それからしばらくは何か動物の置物が犬小屋に取って代わっていたが、また同じような品種の犬が飼われ始めた。ところが半年ほどでその犬はいなくなった。玄関近くに貼紙がしてあって、犬を見かければ連絡下さいと書いてあった。盗まれたか、逃げたのだろう。それでまた半年ほどした頃か、犬小屋の中に犬の姿がちらりと見えた。3日前はその犬が全身を晒していた。その姿は10年前すなわち筆者が知るその家の最初の犬とほとんど同じに見えた。もちろん同じ品種だ。よほどその家の人はその品種が好きなのだろう。大事に育てられればまだ10年ほどは生きるだろう。その家の前を通るのがまた楽しみとなった。いつも自転車でさっと通り過ぎるだけだが、その一瞬を数十メートル先から待ち、犬の姿を目撃するのが好きなのだ。眼が合えばなお楽しい。『元気でいろよ』と内心声をかけて通り過ぎるが、犬は筆者の思いを受け取っていると思う。
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 さて、ネットで調べれば犬の品種名はわかるはずだが、雑草ひとつ調べるのに30分もかかるでは、犬ではもっとだ。先ほど今日の写真に見える犬の品種名を調べたが、30分費やしてわからず、断念した。今日は奈良市内で撮影した写真を4,5枚載せるつもりが、犬の話に終始しているので、予定を変えてならまちで見かけた犬の写真だけにする。先日不退寺への道について書いたので、奈良つながりの話題を今日も投稿する予定でいた。それには一昨日の大阪での郷土玩具の会の集まりで知り合った陶芸家の話にも触れるつもりでいて、それをまず少し書くと、その人は奈良市内の寺町というところに住んでいる。京都にも寺町はあるし、大阪にもある。町名からして寺が多く集まるか、あるいはかつてそうであった町だが、つまりは歴史が古い区域ということだ。それはよそ者を受けつけないということでもあろう。それほどに何代も続く家柄を誇りにしていると思ってよい。家内の母方の親類がならまちでも西寄りにいるらしく、また大きな屋敷と聞いた。寺町もそんなところだろう。それはいいとして、奈良に行くのはもっぱら展覧会が目的で、寺を拝観するためだけに訪れたことはほとんどない。ならまちには元興寺があって、10年ほど前に家内と出かけたが、それは当時富田渓仙が描く同寺の着色画を入手したことが理由であった。渓仙は大正か昭和初期にその絵を描いていて、現在の様子とは違っている。それは訪れてわかったことで、そのためにも行ってよかった。そうそう、元興寺の本堂内部で写生したものを先日たまたま見た。それは畳の上にはらりと落ちた白百合で、半ば透き通っていた。それを写生したのであるから、筆者はそうとう変わっているのかもしれない。それはさておき、白百合が咲いていた時期なので、ちょうど今頃だ。話を戻すと、今日の写真は去年12月に撮った。県立美術館で「藪内佐斗司展」を見た後で、たぶん15日の日曜日と思う。その日は生きたかったカフェがあった。これも以前書いたが、NHKのTV番組で河島アナムが奈良市内を散策し、ギターを弾きながら歌う番組を見た。その時に紹介された店で、関東からやって来た若い女性が確かならまちの古い家を手に入れ、そこをレトロ調を売りにしたケーキを出す喫茶店に改装した。その女性はキモノ姿で、彼女を見たいというのではないが、面白そうな店なので中を見たいと思った。ならまちは狭いのですぐにわかると思い、詳しく調べなかった。それで展覧会を見た後、ならまちに入り、その店を探すともなく狭い道を歩いた。すると、いかにも町屋を手直した喫茶店があった。たぶんそこかと思ったが、違っていてもまあいいだろうとばかりに中に入った。見事に違ってはいたが、テーブルのすぐ近くに、前述した上桂で見かけた狆に似た平べったい顔をしたおとなしい犬が座布団の上で丸まっている。その犬は店の看板にもなっていて、カラーで印刷した広幅の幕が玄関脇に垂らしてあった。犬好きならばその犬見たさに訪れるかもしれない。家内とコーヒーを飲みながら30分ほどくつろいだ間、その犬はめったに首を上げてこちらを見なかった。また見ても声を発しない。吠えることがあるのだろうか。犬は咬むものと思っている筆者にすればこういう犬は大歓迎で、とてもかわいらしい。
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 店の名前を覚えなかったのでさきほどネットでならまちを紹介する地図を調べた。するとその店は紹介されていない。あまり有名でないというからか。奈良市が紹介しる地図であるから、どのような小さな店でも洩れなく記入するのが公平というものだ。あるいは出来て間もないのでまだ紹介の準備が整っていないのかもしれない。それはそうと、前述した河島アナムが訪れたおいしいケーキを出す店もその地図には載っていないようだ。ではいったいどこにあるのだろう。ならまちを紹介する番組であったはずで、ならまちから外れてもさほど遠くないはずだ。元興寺の周辺にカフェやレストランが集まっていて、そこを外れると観光客は足を延ばしにくい。そこで思うのは名前の大切さだ。雑草ひとつ調べるにも名前がわからないでは他者に伝えようがない。アレチノギクという名前を知ったために、筆者が見つければ必ず必死の形相で引き抜く雑草の形が他人にわかる。TVでせっかく紹介されたのに、メモらなかったために、ならまちに出かけてもその店が発見出来ない。ちょっとした手間をかけないために後で往生する。筆者はそういうことが多い。つまり、しばしば無駄なことをしている。名前を知れば親しみがまず湧く。先の犬も同じで、品種名を知らないためにこうして書いていてもどかしい。その点、雑種は得だが、雑草は雑種とは言えず、それぞれに固有の名前がある。名前で思い出した。韓国では結婚しても女性の名字が変わらない。そのため、離婚してもそのことが他者にはわからない。これはなかなか便利ではないか。女性が結婚して姓が変わるというのは何となく不公平に感じる。それで夫婦別姓論が以前沸き起こったこともあったが、いつの間にか消えた。筆者は夫婦別姓に賛成で、女性が夫からも自立するにはまず姓も違っていた方がいいように思う。男としても嫁さんをもらって、その名字が自分と同じことになってようやく所有した実感が湧くというのでは情けない。それに、妻が実家の名字をずっと名乗ると、妻の立場を重んじる気持ちがより保持されるように思う。ひとりの独立した人格として認めやすいということだ。齧られる脛が太い夫は少数派で、今は共働きが普通になっている。ならば姓も別のまま暮らすのが平等ではないか。まとまりのない話になった。今日の写真は全部去年12月で、最初は近鉄奈良駅から県立美術館に向かう途中で撮った。昨日書いた「飛び出し鹿に注意」の黄色い道路標識が中央奥に見える。2枚目は県立美術館。4枚目の写真は犬の写真を撮った後、「東向き商店街」方面に行く途中で振り返って撮った。元興寺の西側の道で、南を向いて撮った。落ち着いた木造建築が多く、東京に住む人には新鮮だろう。才能があって地元の人が歓迎する店を開けるのであれば暮らしてみるのは楽しいかもしれない。それでも栄枯盛衰の激しい世の中で、オープンしたはいいが、閑古鳥が鳴く日々が続けば店をたたむしかない。去年秋にNHKの番組で見たケーキを出すカフェが閉店したとは思いたくないが、そういうことがあっても不思議ではない。
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by uuuzen | 2014-06-24 23:59 | ●新・嵐山だより
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