垣根の植え込みの高さが整っているのを見るのは気持ちがいい。荒れた垣根はめったに見かけないが、植木屋に手入れさせるとして、年に何度呼ぶのだろう。新緑の季節は刈り整えてもすぐに伸びるはずで、それがどの木も同じように生長してくれればいいが、人間の髪の毛と同じで、伸びるほどに荒れたように見えるだろう。
垣根のそれぞれの木の伸び具合は微妙に異なるはずで、垣根の手入れは植木屋に任せるとすれば、規模にもよるが毎年かなりの出費になるのではないか。わが自治連合会の区域は、西と中央に南北に2本の小川が走っている。その水路はいちおうはきれいな流れに保たれているが、筆者が暮らす最上流部はたまに強烈なガソリン臭が漂い、10年ほど前に警察に来てもらったことがある。当然どこが流したのかわからない。だが、わが家から上流で小川に何かを投げ込むことの出来る家は10軒もない。それに筆者は会長を務めていたので知っているが、ガソリンや廃油を流すような人はいない。ではもっと上流からかとなると、そうなれば保津川下りの船を揚げる水門より上流となって、もはや民家はない。つまり、わが家から上流の10軒もないどこかが定期的に流している。その10軒のひとつに自動車整備工場がある。ガソリンや廃油とは最も関連が大きい。その工場からわが家までは50メートルほどだ。裏庭のすぐ向こうを流れる小川から強烈なガソリン臭が漂うということは、ガソリンは揮発性であり、わが家から近い上流で投棄されたと考えるしかない。だが、棄てる現場を誰も見ていない。それにガソリン臭は30分ほどでかなり薄まる。その薄まることをいいことに、廃油の処分をけちって川に流すのだが、その川には鷺や鴨が飛来して魚を得る。きれいな小川に何ということをするのかと思うが、誰にもわからなければ何をしてもかまわないと考える人はいる。数か月前、松尾橋の上から水の流れを見たところ、川幅全体に虹色に光る油が見えた。しばらく立ち止まって眺めたが、よほど上流で多くの油を流したようだ。ガソリンではないかもしれないが、機械油だろう。そんなものが嵐山で流される。風光明媚が聞いて呆れる。何だか今日は○とは言えない、×の話から始めてしまったが、それには理由がある。今日自治会内を用事で歩いていると、京都市の初めて見る広報車がわが自治会内を回りながら音声を流していた。それは、わが自治会内から流れが始まる前述のふたつの小川に関してのことで、下流でゴミがたくさん溜まって処分に困るので、ゴミや葉っぱなどを流さないようにというお願いだ。そんな報せはこの30年はなかった。それほどに下流では大量の投棄物が蓄積しているようだ。溜まったゴミはどんどん引き上げればいいようなものだが、その予算は税金だ。そして常にゴミが溜まらないようには出来ない相談で、そうなれば人は川にゴミを捨ててもかまわないとなおさら思う。そうなった挙句、下流では洪水の際にその堰き止められたゴミによって水が流れず、浸水被害が出る。下流の人たちの生活を守るために上流でゴミを捨てないでくださいというお願いで、そんな車が大きな音声を流しながらわが自治会を隈なく走ることに筆者は赤面した。わが自治会は西京区では渡月橋に最も近く、また旅館料亭が軒を並べる。そういう地域が下流の人たちがどうなってもいいと思っていると思われているのだとすれば、これは憮然とするのはあたりまえだ。
前述したように、わが自治会では小川に面した家はさほど多くない。もう少し南の自治会では玄関はその水路を越えたところにあるという家が多い。水路は京都市ともうひとつ別の役所が分担で管理しているから、その上に架かる橋も個人所有のものではないようだが、実際はそうではなく、家に入るのに水路を越えねばならず、そのためのコンクリート製の小さな橋は個人が造っている。これは京都市も黙認しているのだろう。ややこしいそうした歴史を多少筆者は知っているが、それをここで書いてもややこしく、また面白くないので省くが、世の中には杓子定規で決まらないことが多いことだけ示唆しておく。水路を越えて家に入らねばならない家でも玄関脇に垣根を設けている場合が多い。そして、そうした家では垣根やその向こうの樹木の手入れをよくしていて、脚立に乗る老人を見かける。刈り取った葉や枝はほとんどそのまま水路に落ち、下流へと運ばれる。水路の幅は2、3メートルであるので、ビニールシートを吊るしてそこに葉や枝を落とすべきだが、そのように作業している人は筆者はひとりしか知らない。つまり、大多数の住民は水路を無料の掃除機と考え、葉や枝だけではなく、ペットの糞やゴミまで平気で捨てる。そういう現場をよく見かけるが、みな70以上の老人だ。そして女性が多い。今さらそういう人に注意しても始まらない。認知症と思って諦める方がよい。あるいは若い頃からそのようにして来たので、顔も名前も知らない筆者から注意されると、激高するだろう。広報車は水路沿いを走っていたから、そうした人は音声を聞いているはずだが、まさか自分のこととは思わない。ゴミを捨てている自覚がないのだ。ましてやそれが下流で大量に溜まり、豪雨の際は民家に被害を与えるなど、想像もつかない。それでも広報車が走ったのは、よほど下流の住民が腹に据えかねているからだろう。わが家は水路のほとんど最上流に位置するから、裏庭の向こうにゴミが溜まることはないが、先に書いたように、異臭のする油を定期的に流すとんでもない奴がいる。「水に流す」という言葉があるが、それは下流のことを考えていない。もちろん、いがみ合っていた人が仲直りするのはいいことで、そういう形容に使われるが、水に流すことは流される何かがあることで、流されたものはどこかに行き着く。そういうことを日本では昔からほとんど考えて来なかったので、「水に流す」という表現が生まれた。日本は水が豊富で、汚れはみな水で洗い流せばよいと思って来たし、今もそう思っている。それはたとえば原発についても同じだろう。原発を稼働させることは処置に困る原発ゴミが発生することだが、「水に流す」観念が染みついているので、そうしたゴミもどこかに流れて行くくらいにしか思っていない。福島原発事故後の放射能を太平洋に垂れ流すのも同じ考えによる。わが家の裏庭向こうにガソリン臭が定期的に漂うのも全く同じで、水は大量で、そこに少しくらい危険なものを流してもすぐに希釈すると思っている。こういうのを楽観主義と称して、笑って讃える人もある。「そんなに深刻に考えなくても、自然は大きく、人間のやることにはたいてい○だ」と言うのだが、そんな人は自分がいやな目に遭遇していないからであって、たとえば自分の家のすぐ裏手で爆発するかと心配になるほどのガソリン臭が夜中に漂って来ると慌てるし、またそれが誰かが不法投棄したものとすれば立腹するに決まっている。楽観主義は周囲の人を和ませるが、無責任と紙一重だ。きれいに整えられた垣根は見て気持ちいいが、刈り取った尻からそれを川に流す様子を目撃すると、その家の民度を疑う。だが、現実は民度がなきに等しい家が多いのだ。
今日は21日で、本来は昨夜の投稿は今日にすべきであったが、毎月21日はいつの間にか「○は○か」と題しての投稿となっていて、それを優先した。出かけた際に目についた丸いものを撮影することにしているが、どれもこれもというのではない。では何か決まりを設けているかとなれば、それはない。遭遇した途端に判断を下し、しばし立ち止まって撮影する。丸い形であっても、どれも直径1メートル以上とおおよそ決めている。そうなるとかなり限定される。つまり比較的珍しい。街中を歩くと、その気になればそうした円形を見つけることはたやすい。そのため、円形は現代に増えたものと考えがちだが、案外そうではなく、昔たとえば江戸時代からあるものを現代が模倣しているだけと言った方がよい。これは昔も今も人は円形に憧れがあることを示している。そう言えば、日本の国旗は赤い円形が中央にひとつ描かれるだけで、その円は太陽を意味するから、人間にとって円形は最も普遍的なものだ。筆者が丸いものを撮影するのは太陽や満月とのつながりを思っているからだろう。それに丸い形を見て心を少しでも丸くしなければ、むしゃくしゃすることの多い世の中だ。そのむしゃくしゃが今日はあったが、それについて書けばそれこそ今日は別の題名にしなければならない。さて、最初の写真はグランフロントの西面にある水辺のコンクリート製の方向盤で、何のために設置されたのか知らないが、水中にこれ1個が設けられている。水深は10センチほどなので、夏場は子どもが遊ぶだろう。この丸い板は梅田スカイビルの屋上から見えるのではないか。ただし、視力のよさが必要だろう。2、3枚目は先月奈良で撮った。2枚目は「東向き商店街」の中ほどで、博物館に行く前に気づきながら、シャッター・チャンスに恵まれず、県立美術館での展覧会を見た後の午後7時頃に撮影した。少し南に不退寺の業平忌を宣伝するガラス・ウィンドウがあった。この方向指示盤は2001年に設置されたことがわかる。それ以前のこの商店街はもっと暗く、食べる店が少なかった。ここ数年で奈良もかなり洒落た雰囲気になった。中国人観光客が多いのは京都と同じで、この写真を写す時は苦労した。博物館の展覧会を見た後、不退寺に行き、それから戻って今後は県立美術館に行ったが、その内部で撮ったのが3枚目で、天井照明だ。この形は1枚目の水中の円盤と凹凸の関係にある。「○は○か」用の写真は数か月分保存しているが、奈良で撮ったものを早速今日使うのは、来週は奈良でのことを何度か投稿する予定であるからだ。4枚目は梅田新道近くの歩道橋で見かけた。これも理由がある。というのは明日心斎橋に行くが、その途中西天満で個展を見る予定で、梅田から歩く途中、またこの写真の円形の脇を歩くことになる。これは最初からあった模様ではない。ほかにもひとつふたつ同じものが近くにあったが、何かの理由で歩道橋全体に敷き詰められている茶色のシートを切り取ったのではないだろうか。理由がわからないのがまた面白い。今月は「○は○か」に使うつもりでいた円形を捉えた写真を「梅田スカイビル」で何枚か載せたので、今日は気分としては新鮮さがない、つまり○ではないが、まるで駄目というほどでもない。そう言いたいところだが、最初に書いた「垣根」に戻らねば、文章の全体が丸くつながらない。垣根が円形ということはまずあり得ないが、広い敷地があればそれは出来る。土地はだいたい四角か角張っているから、家もそれに応じた平面図となる。部屋もそれに沿う理屈で、「丸く掃く」はずぼらな形容に使われる。となれば丸に興味を示す筆者のブログはずぼらな人格を表わしていることになりそうだが、垣根を構成する樹木はどれも平面図としては丸いから、丸い垣根は本当は理想ではないか。垣根をまるで板塀のようにてっぺんも表面も直線に整えようとすることは、樹木にすれば去勢されているようなもので、そのために絶えず反乱を起こして徒長しようとする。垣根を円形にかたちづくれば、庭師に頼らず、放置したままでも見られるような形を保つだろう。物事を丸く考えることは、ずぼらでいい加減ということだ。