篩(ふるい)という古い道具を見たことのある人はもう少数派だろう。今朝は夢から目覚める時に篩で砂粒を選り分けている男の姿が浮かんだ。無言で作業していて、砂が動くザクザクという音が聞こえる。
なぜそんな映像を想像したのか考えず、イメージを自由に変化させるに任せた。篩で選り分けられた少し大きめの砂粒がクローズアップになった。そのそばに蟻がありありと見えた。おやじギャグを連発しているが、ま、先に進む。蟻は自分の体より大きいその砂粒によって圧死させられるという心配は抱いていないが、筆者は蟻の立場になって、篩の作業をしている男が大量の砂粒を蟻がいるとは知らずに地面にぶち撒けた時、ひょんなことで蟻が生き埋めになるかもしれないと思った。そして蟻は自分を圧迫する砂粒に抵抗しながら、その砂に微妙な文様があることに気づく。細かい砂粒であるのに、表面にマーブル文様がある。意識が薄れて行く中で蟻はその文様を凝視する。そして夢の中に入る。砂粒はぐんぐんとズームアップし、地球の姿になる。さらに蟻は顕微鏡を覗くように目を凝らし、その砂粒地球の表面のある一点に注目する。するとそこには作業をしている男がいる。篩を使って砂粒を選り分けている。最後に残った少量の大き目の砂が、篩が逆さまにされた途端、ザバッと地面に積み上げられる。男は無言で、選り分けた砂粒によって蟻が下敷きになったことを知らない。蟻がそのようなことを薄れる意識の中で想像したことを筆者は夢から半ば目覚める時に思い浮かべた。今日の睡眠中の夢で見た映像を篩にかけて記憶したのは篩、砂粒、蟻、地球の4つに凝縮出来る。その出所を詮索しても思い当たることがないので考えないことにするが、先ほど今日は何について書こうかと思った時、思い浮かんだいくつかの写真があった。それをヤフーのマイ・ボックスからダウンロードし、どの順に載せようかと決め、早速書き始めた。今朝の夢から以前撮った写真を思い出したようだが、案外その逆だ。毎日マイ・ボックスに保存している写真をざっと眺めながら、これはいつ投稿しようかと思っているが、その思いが意識の下に絶えずあって、それが夢に作用を及ぼしている。つまり、今朝見た夢は何か月も前に撮った写真から派生している。たぶんそうだ。そうでも思わないと落ち着かない。また君子の話になるが、君子とは自己をいつも冷静に保ち、欲望を抑えることが出来る人を筆者は想像する。これは自分のどのような行動や意識の動きも覚醒下にあることを意味しているが、では睡眠中の夢はどうかということになる。君子でも夢は見る。そして見たい夢が見られることはなく、想像がつかない夢を見る。そして常に覚醒して自己統制をしているはずの自分が思いも寄らない夢を見たことを不思議かつ腹立たしく思い、夢を分析し、奇妙と思えた場面の出所を探る。そしてどれも思い当たるものばかりであることに安堵し、睡眠中ですら自分は意識を支配していると思い込む。君子は不安なのだ。夢の中で自分が予想しない映像を見るならば、目覚めている時でも予想しない行動をしてしまうかもしれない。それは誉められないどころか、犯罪になったりする。それほどに気が小さい君子は夢で出所がつかめない場面を見た時は、無意識に篩をかけてただちにそれらを忘れる。篩の網上に最後に残ったものはわずかになっているし、それらを吟味して出所を探るのはあまり時間を要さないし、またそういう分析を君子は好む。君子は自分をいつも砂を篩にかけている男のように感じる。男は無言でザクザクと砂を動かし、最後に残った砂粒がたまに蟻を圧死させる様子を想像する。
今日は夕方に家内と自転車でムーギョに買い物に出かけた。ただし、いつもとは違って出来たばかりの林の中の自転車道路を通った。その真新しいアスファルト舗装の下にはたくさんの蟻がいたはずで、彼らはローラーで圧死させられる前に大移動したであろうか。先日自治会のある人と雑談していて、認知症で脚力が比較的ない人でも、案外すぐに姿が見えなくなるということを聞いた。同じことは3日ほど前、わが家に上がって来たナメクジを見て思った。ゆっくり這っているのは確かでも、部屋を横切るのに2,3分で済む。場合によってはもっと早い。であるので、蟻がローラーが迫って来る危険を察知すると、それから逃げるのはたやすいのではないか。それはともかく、自転車で桂川沿いにある自転車歩行者専用道路を走っていると、いつもの街道を南下する倍ほどの距離があって家内は文句を言ったが、たまにはわざと長い、また慣れない道を行くのはよい。夕方とはいえ、日が最も長い頃で、午後5時はまだ昼間だ。出来たばかりの延長された桜の林の中の自転車道路を走り初めしたかったことのほかに、久しぶりに見る自転車道路の周囲がどうなっているかを確認したかった。そのひとつはこれもマイ・ボックスの写真を保存しているが、河川敷の雑草や樹木が一斉に刈り取られた直後、ある切株のすぐ近くで見かけた、20ほどに分割されたスイカの一片に似た形の木材がまだあるかどうかを知りたかったのだが、ちょうど半年ほど経って河川敷はすっかり筆者の予想どおりに葛が生い茂り、また走っている自転車からはにわかにはその木の断片を確認出来なかった。そのスイカ型の断片はチェーンソーで切株状態に伐採する際、刃を入れ直したために出来たもので、それを切株のそばで見つけてよほど持って帰ろうかと思いながら、後日取りに来ればよいと思い直し、切株のそばではなく、自転車道路のすぐそばの斜面に置いた。その道はいつも多くの人が散歩するから、それらの人が見つけて持って帰らないように少し陰になるような、それでいて筆者だけにわかる目印のすぐ近くを選んだ。その目印はよく覚えている。今日は自転車で快適に走りながらその目印を探すと、一瞬にして通り過ぎてしまった。それを振り返りながら眺めた途端、右脇に家内の自転車が追い越し、「ぶつかるやないの!」と激しい罵声が飛んだ。家内は筆者が半年前に面白い形、すなわちスイカそっくりの切株の断片を見つけ、それをその目印のすぐそばに隠しておいたことを知らない。だが半年も風雨に晒されると、もう筆者が見つけた時のような新しさはない。それに誰かが見つけて持って帰ったかもしれない。すぐに取りに戻るつもりが半年経ってしまった。人生はそんなものだ。「てっきり誘ってくれると思っていたのに……。」 この言葉の裏には、『20年前ならまだ若かったのに、もう70になろうとするのでは無理よね』という口惜しさがある。期待されていることを知らないのは無粋というものだが、知っていてもその気がない場合がある。スイカ型の木片を面白いと思ったのは、木では初めて見た形であったことと、その形をいわばノコギリを正確に入れることに失敗して作ってしまった男が気に留めずに切株のそばに捨て置いたことだ。ま、切株上にその木片を置いて写真を撮っておいたので、筆者はそれで満足したのだろう。それにそんなガラクタを家の中で見つけると家内はさらに罵声を発する。その木片を見かけた時以来、各地でさまざまな切株の写真を撮っている。その1枚もまだ投稿していないが、写真に絡めて何を書けばいいのか見当がつかないことも理由だ。「○は○か」の番外編がふさわしいが、「○は○か」用の写真もたまる一方だ。
河川敷は4月は黄色い菜の花づくめであった。工事を請け負った業者がその種子を蒔いたからかもしれない。もちろんその費用は予算に計上されていた。菜の花がすっかり枯れた後、その様子を松尾橋の上から眺めて驚いた。緑やベージュ、茶色などが混ざってとても繊細で美しかったからだ。数日後にその写真を撮ったが写っていなかった。そして次にカメラを持って出かけた時にはもう美しさはすっかり消えていた。人生はそんなものだ。あっと言う間にいい時期は過ぎる。だが、また別のいい時期がやって来る。そう思い続けなければ生きていて面白くない。今年1月下旬には河川敷からすっかり植物が消えたというのに、菜の花が枯れて今度は予想どおりに葛が繁茂し、スイカ型の木片を隠しておいた場所もその葉で埋まっていた。木片は葉陰に茶色になってまだあるかもしれないが、それを探し当てても最初に見つけた時の感動はないだろう。なぜなら、人間で言えばもう70を越えたような姿だ。「てっきりすぐに戻って来てくれると思っていたのに……。」 その恨めしい言葉を聞いてさてどうすればいいか。さて、マイ・ボックスに長らく保存したままの写真は今後絶対に載せないものも多少混じっているが、いつかは紹介したいものがほとんどで、その機会をいつもうかがっている。そのために筆者はあまり自覚しないが、意識の底でそれらの写真が横たわっていて、浮上する機会を待っている。その予兆が夢で、またいささか変形されて夢に現れる。今朝の篩や蟻と今日載せる写真とどういう関係があるかは、筆者だけが知っているが、ここで説明したところでつまらないものだ。それでわざわざ書かないが、筆者としては今朝半ば目覚めつつ見た夢の原因がこれらの写真にあるということが、こじつけであっても、わかったつもりになれたので気分はよい。君子になった気分とでも言うか、撮影して半年間のもやもやが解消されもする。4枚目のみ1か月ほど前、散歩道の途中にある畑で撮ったが、写そうと思って2、3か月ほど経っていた。いつまでも同じ状態でないかもしれないと急に不安になってカメラを持ってわざわざ撮りに行ったが、今も同じ状態で、慌てる必要はなかった。だが、慌てたと言っても2、3か月も放置していた。他の3枚はみな桂川の河川敷だ。最初のものは2月3日に渡月橋下流50メートルほどの中ノ島公園で撮った。去年秋の台風18号ですっかり流されたきれいな白っぽい砕石がまた元どおりにされたのはいいが、しばらくすると写真のように波打って来た。禅寺の枯山水では箒などで同様の文様を作るが、これは砕石の土台の土が波打っていることによるだろう。自然に出来たとは言い難いが、半分はそういうところがある。この波打った砕石づくめの公園を闊歩する蟻は定期的に起伏があるので変な気分になるだろう。2枚目の写真は桜の林から自転車道路を500メートルほど南下した場所で、左端に自転車道路のかすれた白いラインが見える。雑草がすっかりなくなっているが、今は葛その他の雑草でいっぱいだ。この写真を撮った立ち位置はスイカ型の木片を隠した地点だ。写真の中ほどにたくさんの切株が見える。その中のいくつかを拡大して撮った。3枚目は松尾橋の上から見下ろしたが、最初の砕石づくめの公園よりはるかに起伏が大きく、人間が歩くのに苦労する。あえてそのようにブルドーザーで山と谷が規則正しく造られた。以前何度か書いたように、5月にバーベキューをさせないためであろう。ところが1月下旬から2,3か月の間に少しずつ人が踏み鳴らして平らにし、5月の連休は毎年と変わらぬ人で溢れ、バーベキューの臭いが上空の鳶を刺激した。残飯のおこぼれは蟻もありついたであろう。最後の写真は理由はわからないが、畑にたくさんの小山が作られている。そこに草や苔が生えて来て、いずれは木も生えるのではないか。蟻にすればこの小山の連続はアルプス山脈だ。その砂山のひとつの山にある砂粒を蟻は凝視する。するとありありとそこにいくつもの小山が見え、自分の姿も認められる。そして蟻は自分の人生を何と小さく、短いものかと思う。篩にかけて最後に残った記憶がそれでは蟻はつまらないか。そうでもない。人生はもともとそんなものだ。