悠々たる気分になれるのがとても高い所に立った時だ。飛行機では墜落の心配が心のどこかにあるので、あまり悠然という気にはなれない。となればやはり超高層の建物で、「悠」は「はるかな」様子を意味するから、あべのハルカスの最上階は悠々の言葉にふさわしい。
ついでに梅田スカイビルの屋上もということになって、ブログやホームページに「ゆうゆうゆうぜん」という題名を標榜する筆者としてはどちらの屋上にも立ったのは当然の義務ということであった。東京に何年か前に行った時は六本木ヒルズの屋上にも上ったから、残るは東京のスカイツリーということになっている。だが、スカイビルの39階のお土産売り場には日本のタワー協会の類が製作した共通ポスターが1枚貼られていて、北海道から沖縄まで10いくつの展望台つきの塔の写真が並べられていた。神戸のマリンタワーや通天閣、京都タワー、それに目の前まで行ったのに上らなかった東尋坊タワーなど、見覚えのある塔に混じって初めて知ったものが半分ほどあって、日本は広いと再確認した。電車好きがいるかなには塔好きもきっといるが、同協会に所属しない塔もあちこちにあると主張するだろう。塔は高さを競うのが目的ではない。眺望がどれほどいいかどうかが肝心で、その点スカイツリーはどうなのだろう。あまり高過ぎて下を見ると雲で何も見えないでは困る。それを飛行機に乗っているか富士山の頂に立っているような浮遊感覚のようでいいと思う人もあるかもしれないが、筆者は小さな家や人が見えるのがいい。それはさておき、今日はどういう題名にしようかと迷いながら、「おまけ」とした。そう決めたところ、「あきらめワルツ」さんが送信してくれたおまけの写真を載せるのにちょうどよいことに気づいた。その写真を今日は最初に載せる。「遊」の異体字で、「あきらめワルツ」さんは書道家でもある。カメラ・レンズの歪みを多少修正し、また紙の撓みの影などを消して明暗を強調した。紙に書いたものを見ていないが、たぶん実際に見るものにより近くなったと思う。「遊」の異体字は「方」が「手偏」となっているが、そう言えばその理由を今まで考えたことがない。「方」と「手偏」とでは書くのにほとんど時間が変わらないが、一画でも少ない方がいいということか。「あきらめワルツ」さんのこの書は「子」とその下の「しんにょう」の間が少し空き気味で、それが浮遊感を表わすのに役立っている。浮ついた気持ちで遊んでいるような雰囲気だ。「しんにょう」の払いが地面とすれば、「子」はその上空に飛び跳ねている。これはスカイビルの屋上に立つ筆者の比喩になりそうだ。となれば「ゆうゆうゆうぜん」は「遊々々然」となって、筆者はまるっきり遊び人ということで、これは当たっているとしか言いようがない。それにしても「悠然と遊ぶ」というのは人間の理想だ。死んだ友人Nは仕事を辛いものと言って譲らなかった。お金のために働いているだけで、金の心配がなければ誰も働かないと言った。筆者は根を詰めることが好きで、仕事は好きなことしかしないと若い頃に決めた。人生の半分ほどの時間を占める仕事がいやでたまらないなら、生きている半分は地獄ということになる。それは間違っている。どうせやらねばならないなら、楽しまねば損だ。それは難しい場合が多いが、それでもそういう気持ちを持っていないと、人生に失望する。そうでなくても失望だらけの人生だ。自分は楽しいからやっているという思いは欠かせない。そういう筆者も貯金がなくなれば金を稼ぐ必要に迫られるから、Nが言ったように今は金に困っていないからに過ぎないのかもしれないが、ほしい物を少なくする、つまり無駄をなくして行けば金に振り回される割合は減る。こんなことを書きながら筆者は狂気としか言えないほどに金を注ぎ込んでいる対象がある。もう預金残高の限界が来ているので、目覚めなければならないのに、中毒のようになってしまっている。その狂気も「遊」の一字で片づける余裕を持っていたい。
「あきらめワルツ」さんに「遊」の一字の画像を送信してもらった理由を訊いていないが、「ゆうゆうゆうぜん」からの連想だろう。「遊」は子どもと大人とでは意味が少し違ったりする。子どもは遊ぶのが仕事だが、大人は遊んでいては仕事にならないと言われる。つまり遊びと仕事は分けられている。子どもでもそれは似たものだ。遊びと勉強だ。子どもの仕事は勉強で、いい成績を取ると褒美がもらえたりする。大人の仕事も同じだ。やはり遊びと仕事は歴然と分けなければならないようだ。「あきらめワルツ」さんが「遊」の一字を書いたのは遊びになるだろう。お金をもらうと仕事になるが、その仕事を遊び感覚でやると金を支払う者はいい顔をしないかもしれない。このように遊びは大人にとっては特に他人には厳しい。自分が遊ぶのはいいが、他人が遊んでいるのを見ると腹が立つという人は少なくないだろう。遊びませんかと女性を誘いながら、ベッドの上で自分だけ先に行ってしまうと女は気分を害するのと同じで、自分が遊ぶのであれば他人も喜ばせなければならない。ところが自分だけ遊ぶ人の方が圧倒的に多い。たとえばこのブログは誰からもお金をもらっていないので、楽しんでもらえなくても文句を言われる筋合いはない。たまに段落が長いので読みづらいとコメントをしてくれる人があるが、正直な話、放っておいてほしい。繰り返すが、筆者は無料で書いている。読みたい人は呼べばよい。それだけのことだ。つまり、自分だけがまず楽しければいいと思っている。ひとつの段落が長いのは一種の訓練として自分に課していることだ。長編小説が長いといって読みたくない人もあれば、俳句が短いのでつまらないと考える人もある。管弦楽団が奏でる交響曲は1時間ほどの長さがあるが、それが長いと思う人は作曲家に文句を言わずに2分台の流行歌を聞けばよい。このブログを長編小説や交響曲に比べるつもりはないが、表現物のその方法に文句を言う人は自分を何様と思っているのかと言いたい。ましてや筆者は62歳で、もう長い間長文を書いて来ている。昨日書いた「君子」で言えば、君子は豹変するものであるから、筆者も他人の意見に謙虚に耳を傾け、間違いは訂正した方が、いくらかでも君子に近づく。だが、段落をもっと増やせとか、適当に見出しを設けろというのは、当人の読みにくい思いによる意見で、筆者の間違いではない。確か宮武外骨が同じような目に遭って、文章の最後に括弧や句読点をまとめて数十個ずつ並べ、読者が適当にこれを配置すればよいと書いていた。外骨にすれば、文章の一字一句は自分が考えたとおりの表現であって、それに文句を言うのは不遜な読者という思いがあった。それで読者がもっとほしいと思う文章の区切りに役立つ記号を文末にまとめて添えたのだが、そういう遊び心が込められた風刺に雑誌の編集者でもあった外骨の面目がある。
今日はスカイビルについてのおまけの話をするつもりが、もう3段落目に入った。昼食時にスカイビルに行ったこともあって、展望台を見た後、何か食べようと考えた。お土産コーナーにはひとつ面白い人形を見かけた。ソーラーで動くプラスティックの花や熊さんの人形があるが、その舞妓さんヴァージョンで、首を左右に振り続ける。同じ仕組みのもので寿司を握る職人ヴァージョンを先日どこかで見かけたが、筆者はこのソーラー人形が好きで、自分で買ってふたつ持っている。その話はいずれするつもりでいる。舞妓さんヴァージョンは大阪ではなく、京都で販売されるべきだが、京都では見かけない。700円程度であったと思うが、外国人に人気があるだろう。お土産コーナーを出ると、下りのエスカレーターの脇を先に進むと奥にレストランがある。通路は円形で、右方向に曲がって行くと、突き当りに中華レストランがあった。昼は1000円の定食があって、とても空いているうえに、奥に丸い大きな窓が見えたので入ることにした。ウェイターにランチはまだあるかと訊くとうなづく。丸い窓の際のテーブルに案内されたので、料理が運ばれて来るまでの間、その窓から景色を眺め、また向いのテーブルの椅子の丸い穴を撮影した。丸い窓は船を思い出させるが、それよりはるかに大きい窓だ。そして39階の高さであり、また北向きなので淀川が見えて楽しい。ランチは大サービスで、夜は1万円以上するようだ。39階までは無料で上がれるので、おそらく夜は昼より人が多いだろう。カップルがデートするにはなかなかよく、夕日を眺めるためにやって来る仕事帰りの会社員もいるのではないか。この中華レストランは円形窓に合わせて椅子をデザインしたはずで、空中庭園のシンボルは円形ということだ。それで今日の写真の説明をしておくと、2枚目は展望台に上るためのチケットを買う小さなカウンターの右数メートルにある窓で、この右隣りの同じ窓の写真は「その2」に載せた。窓外の眺めが中華レストランとは違ってスカイビルの構造体が出っ張って見える。それがかなり艶消しで、そのために中華レストランの窓は価値がはるかにある。3枚目がそれで、あえて真正面から撮らなかった。淀川の上流方面が見えていて、窓端は京都が遠くに位置するはずだ。この窓から外を見ていると、半ば飛行機に乗った気分でありながら、建物という安心感があって、まさに悠然たる気分になれる。4枚目は説明不要だ。背中に大きな丸い穴が開いているので、背中を広く開けた服を来た若い女性が座れば、背後にいる者は目の置き所に困る。穴の奥を覗くのは盗み見している気分で、何だかセクシーだ。恋人同士には最適な店だろう。悠々たる気分になれるのであれば、女性には背中を大きく開けたドレスを着用してほしい。♪Dear Prudence, won’t you come out to play?