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●「KELPIE」
秋もたけなわになると、毎年決まってジェスロ・タルの音楽が心に響く。クリスマス頃までこれが続くが、これまで彼らの音楽でどれほど人生が楽しく彩られ、心豊かな思いがして来たことだろう。



●「KELPIE」_d0053294_12444658.jpg寒い街角をひとりで歩いている時、ふとタルの音楽のメロディが浮かぶ。それを口ずさみながら歩くのは何と楽しいことか。外気の寒さまでもが神から与えられた恵みに思えて来るほどだ。そんな深い記憶の中にあるメロディはタルのものに限ったことではないが、それでも晩秋が近づくとタルの音楽はよく似合うのだ。それはタルの音楽がスコットランドの自然豊かなところに源泉を持ち、しかも時代に応じた洒落た都会的なサウンドを取り入れているところにある。都会で生まれる最先端のぎすぎすして攻撃的な感じの音楽ではないのに、適度に過激さがあり、しかも人に優しい自然に包まれた懐かしさがある。静けさとそれを突如打ち破る激しさが交互に表われるその音楽は、ちょうどショパンなどのロマン派特有の情緒に似ている。また、地方における無理のない現代性の浸透と言えばよいか、人間が機械文明や電気の恩恵を受け始めたばかりの、まだ牧歌的な雰囲気も漂いながらの、便利な時代の到来を喜んでいるような人々の生活といったものがイメージ出来る。つまり、音楽が明るいのだ。タルの曲には短調が多いが、それでも悲しくはない。ブルースも演奏するが、何かに強く抗議するような悲痛なことは歌わない。自然豊かな田舎に高速道路が出現したことをさびしげにしかも力強く歌う「ファーム・オン・ザ・フリーウェイ」でも、昔のフォーク歌手のような、聴く者に直接的な行動を喚起して国の指導者たちに意見を伝えようといった態度はない。こう言えば、タルの音楽の歌詞を書くイアン・アンダースンが、日和見主義で、フォークやロックに属さない紛いものであるかのうよな誤解を与えるかもしれないが、決してそうではない。過去に作られたプロテスト・ソングが今も歌い続けられているかどうかは疑問であるし、たとえば先の「ファーム・オン…」が現代の否応ない現実をそっくりそのまま提示した歌として、ずっと将来に大きく評価されていないとも限らない。イアンは、何か世間のブームのような動きに便乗して、自分の曲が一時的な流行歌として消費されてしまうのを初めから否定して来たところがある。
 ビートルズの、ギターふたりにベース、ドラムスというスタイルの音楽が一般的で、しかもそれが格好いい見本のように思われていた時期に、タルはフルートを主にしたジャズ・ロック・スタイルのグループとして登場した。ジャズではフルートが中心になることは何ら珍しいことはなかったが、ビートルズのロックに心底慣れていた当時の若者にとっては、こういう形でのロックもあり得ると大いに新鮮であった。バッハの曲をフルートでジャズ風に吹く「ブーレ」を初めてラジオで聴いたのは1969年だったが、ビートルズがいよいよ解散するかというロック時代の大転換期に、このタルの音楽は筆者にとっては大きな衝撃だった。ロック音楽がどのような楽器編成によっても演奏が可能で、しかもそれでいてとても格好よいという新時代の到来を感じたものだ。ロックが過去の何らかの権威に囚われないことが信条であるとすれば、ビートルズのようなギター中心のバンドではなく、思い切り変わったタルのようなスタイルのバンドこそが最先端ではないか。そう思ったわけだ。だが、筆者の周りにはタルの熱烈なファンがいなかった。今もいないが、それでもそんなことはどうでもよい。人が聴いて騒ぐから聴き始めたのではないし、自分が長年聴いて来た音楽を人に無理にすすめる気もあまりない。自分が好きであればそれで充分だ。前にも書いたが、人は自分が必要とするものは自分の力で必ず探り当てて行く。そのような出会いでないものは、あまりありがたみもなく、その人にとって重要なものにはなり得ない。であるので、ここで書くことは、筆者個人の呟きに過ぎず、もしこの文章を読んでタルの音楽を聴き、失望したという人があってもそれは知らない。縁がなかったと諦めていただく。音楽には相性と、そして出会いの時期があるのだ。人も時も猛烈に過ぎ去っているこの瞬間の中で、出会いは無数に生じているが、それが真に決定的であることは多くはない。
 タルの音楽をもう30数年聴き続けて来たが、最近では紙ジャケットCDが出始めた。それに春には東京で1日だけの公演があった。1971年だったか、最初の来日公演は知っていながら行かなかった。2度目には行って、その夜のことは今でもよく覚えている。チケットの半券も手元にある。そして、その後、たくさんのタルのライヴ録音が発売されているので、今どういう音をステージで披露するかは大体想像出来る。そのためにわざわざ春の東京公演には行かなかった。ファンではあるが、遠方にまで行って観るほどの熱心さはない。新譜CDが出ればすぐに買う程度のファンで、それで充分だと思っている。新譜CDを入手し続けるだけでも、ほぼ毎年のことであるから、タルを忘れずに追い続けていることになる。それでさきほどアマゾンで調べると、『アクアラング』の全曲をライヴ演奏した新譜が出ていることを知った。これは驚いた。いつもタルの新譜のニュースを見ると心が踊る。『ああ、やってるな』という旧知に会ったような気分になり、そして何だか勇気づけられる。『アクアラング』のほかにインア・アンダースンの2枚組ソロ・アルムも出ていて、これも同時に注文しておいたが、今年の11、12月は楽しいことになりそうだ。71年に発売され、当時すぐにLPを買って何度聴いたかわからない『アクアラング』が趣向を変えてまた登場するのであるから、この30数年を思い返さないわけには行かないが、タルの古いレパートリーを演奏する態度は、ただ単に過去を振り返るものではない。常に今という時を問うている点がいいのだ。確かに『アクアラング』のライヴ盤が届いても、昔のように毎日聴くことはないだろう。ひょっとすれば数回しか聴かないかもしれない。だが、タルが健在であることが確認出来れば充分なのだ。
 このライヴ盤『アクアラング』はジャケットが面白い。71年のジャケットの一部をトリミングして使用している。そのアイデアがよい。トリミングされたのは、中央に描かれる、クリスマス・シーズンの街角にたたずむホームレスの姿だ。最初の5000枚は番号が刻印され、しかも全売り上げはイギリスのホームレスに寄付されるとのことだ。有名ミュージシャンがチャリティをするのは珍しくはないが、このアルバムの場合はホームレスに寄付する意味がある。それは『アクアラング』に収録される同名タイトル曲の歌詞がホームレスに言及していて、そのホームレスの発する声がまるでアクアラングをつけて話しているような感じと歌っているからだ。これは想像してみると、悲しい、残酷な光景だが、イアンはそういうホームレスを嘲笑しているのではない。むしろその反対だ。ジャケット裏面は地べたに坐ったホームレスと、そのそばに犬が描かれている。当時のイアンはよほどホームレスのことが気になっていたのだろう。『アクアラング・ライヴ』とは、つまりホームレスは今も生きているとの意味でもあり、そんなホームレスに今も元気なタルが多少の援助をするというから、やることがずっとつながっていて面白い。タルの最初のアルバム『THIS WAS』のジャケットは、メンバー全員が老人のメーキャップをし、しかもたくさんの犬に囲まれている。自分たちを老人に見立て、しかもその数年後の『アクアラング』では同じ格好のホームレスを大きく登場させていることは、何やら自分たちの将来をホームレスと予想しているような、芸人としてちょっとした覚悟が垣間見えているようでもあって、イアンの内面を推し計るネタになりそうだ。ならず者、無頼漢、ヤクザ者、どんな表現でもいいが、ロック・ミュージシャンなど、結局その程度といった自覚がイアンにはあるようで、人を楽しませてなんぼのその芸人根性は実に見上げたものだ。だが、イアンは下品ではない。その歌詞を読めば、どれほど清洌で香り高いかが誰にでもよくわかる。わざわざ悪ぶったりすることもないし、また衒学ぶることはさらにない。心底真面目な人柄がうかがえる。だが堅物ではない。ユーモアたっぷりで、人生に悲観した経験がないような印象を受ける。そんなタルは、メンバーが次々と入れ代わって来たが、イアンとギタリストのマーティン・バレだけはずっととどまり、偉大な歴史を誇るバンドを支えて続けている。ソロ活動も目立つイアンだが、ジェスロ・タルという輝かしい名前だけは汚さないという思いはよく伝わるし、その矜持がファンにははっきりとわかる。イアンもマーティンも、今ではほとんど『THIS WAS』で写っていた老人に近くなってしまった。それでいいのだ。誰しも老人になるし、老人になってもなお30年前の曲を鮮やかに演奏してみせるという技術に拍手を送る。
 3日前、東京のUさんからメールが来て、タルの紙ジャケットCD3点をもらってくれないかとあった。Uさんはザッパの紙ジャケをデザインしたが、タルのCDを発売する日本の会社に知り合いがあってサンプル盤が届けられたようだ。今日こそ届くと思っていたが、まだ来ないので、こうして待ちわびてタルの音楽を採り上げることにした。Uさんが送ってくれるCDは『ブロードススウォード・アンド・ザ・ビースト』(太い刀と獣性)、『アンダー・ラップス』、『クレスト・オブ・ア・ネイヴ』(ゴロツキの紋章)で、本当を言えばこれら3枚より数年前に出た『ソングス・フロム・ザ・ウッズ』(森からの歌)『ヘヴィー・ホーシィズ』(悲しき馬)『ストームウォッチ』(嵐の監視)の3枚であればよかったが、これら70年代終わりから80年代初めにかけての3枚は人気があるようで、サンプル盤のあまりもなかったのだろう。タルの神髄は『アクアラング』やデビュー当時の作にあるという批評が多いが、筆者は今では前述の3枚の時期を最も好む。それらはイギリスの伝統音楽のメロディやリズムを意欲的に取り入れたもので、日本の演歌に似た感じの曲が少なくない。ロックとトラッドの融合の点が何とも楽しいのだ。タルがイギリスの国民的グループと言われるのは当然な気がするが、そうしたあたりまえの自国の古い民間音楽をロックに取り入れる行為をさして面白くないと見るイギリス人もきっといるだろう。ザッパのフランクフルトでの『イエロー・シャーク』公演に行った時、サイモンさんとジェスロ・タルのことをほんの少し話した。彼は「ブーレ」程度を知るだけで、タルにはほとんど興味も知識もなかった。イギリス人でも評価はさまざまなことが改めてわかる。そんなタルを日本の、TVによく出て来るようなロック・バンドと同じように考えることが出来るかどうか。つまり、ヨナ抜きのメロディを激しいロックのリズムで演奏すれば、日本のトラッドとロックの融合になるかどうかだが、どうも事情が違うように思う。タルの場合は木に竹を継いだような印象は何らないが、日本ではそういうわけには行かない気がする。ヨナ抜きが日本古来からのものであるというのも間違いで、それは明治になって作られたものだ。それ以前の日本の音楽のロック化を模索するとどうなるか、そんなことをしても儲からないだろうから誰もやらないが。
 2年前にタルは『クリスマス・アルバム』と題するアルバムを出した。すぐに買い、その年と去年の冬はずっと聴いていた。新曲は少ないが、旧曲も新しく録音し直されていて、これが以前のヴァージョンよりよかったりする。そのため、前の録音をまた引っ張り出して聴き比べる。たとえば、ここで取り上げようかと迷った曲に「WEATHERCOCK」(風見鶏)や「JACK FROST AND THE FOODED CROW」(霜と頭巾烏)がある。後者のタイトルはいかにも『アクアラング』のジャケットのホームレスを連想させる。実際これはクリスマス頃の路上のホームレスを指している。1981年の録音で、アルバムで言えば、Uさんが送ってくれる1枚の『ブロードススウォード・アンド・ザ・ビースト』に収録されるべきであった。この曲を初めて聴いたのは、88年に出たタルの結成20周年を記念する3枚組ボックス・セット(上掲の写真)においてだ。だが、前述の『クリスマス・アルバム』の新録音の方がよい。それはさておき、この曲の歌詞の大意を書いておこう。「12月の夜、自分たちは悪態をついて話している。けれど、クリスマスだというのにほんの少しも暖を取れない人のためになぜ節約しないのか。ほら、外には厳しい霜と頭巾を被って黒く汚れた人がいる。七面鳥やワイン、それに贈り物や、子どもたちの笑いがある家庭のない人に暖かい援助の手を貸そうよ。刺ある柊や絡み合った蔦のように、人生なんてわからないもの。神様も人の幸運を消し去って、いつ何時厳しい霜と頭巾を被った人と一緒に暮らすようなことをさせるかわからない」。これでイアンが『アクアラング・ライヴ』のロイヤリティをホームレスに寄付する理由がわかるだろう。
 さて、今夜取り上げる曲はスコットランドの伝説に登場するケルピーという妖精の題名を持つ曲だ。辞書によれば、「水死を予告する馬型の水の精」とある。スコットランドは泥炭地が多く、湿った地方なので、こうした水の妖精の話が伝わっているのはよくわかる。この曲も88年に出た前述のボックス・セットで初めて耳にした。だが、録音は古く、79年だ。つまり本来は『ストームウォッチ』に収録されるべきだった。同アルバムの初CD化にはボーナス・トラックはなかったが、今では紙ジャケ盤も含めてこの曲のほかに数曲がボーナスとして最後に入っている。アップ・テンポのいかにもタルらしい軽快で楽しい曲で、気分がよい時はよく思い浮かぶ。歌詞には若い女性が登場する。80年代以降のタルの曲には同じように女性を歌ったものがいくつかある。見方によれば中年男のいやらしい目つきを感じる向きもあるかもしれない。だが、純粋に女性の美を讃えていると見たい。男が女性を見て心動くのは自然なことだ。LOVEといった手垢にまみれた言葉を使わずに、スマートにそしてストレートに恋心を歌うのは、なかなか情緒があってよい。歌詞にはtideやashore、loch(湖)が出て来るので、ケルピーとは釣り合っている。ケルピーは女の妖精として登場するのではなく、男が若い女性を誘い、ケルピーに一緒に乗って魂を深い水底に連れて行こうと歌っている。恋に夢中になることを深みにはまって溺れると言うが、それと同じような比喩でケルピーを登場させているわけだ。大意はこうだ。高潮に暖かい風が吹いていて、丘の南に若い女性が歩いている。それを見つけて着いて行き、女性の魅力をほめ讃える。そしてケルピーに乗ろうと誘う。「君の心を深いところに連れ去って行ってあげる。もしいやなら別の誰かを誘うから。ぼくは君を魅惑するけれど、驚かせはしない。素敵なことをたくさん話してあげる。だから、親類にさよならを言いなさい。でもみんなは君がその若さで逝ってしまうのは悲しむだろうな。静かな湖の、底深いぼくの居場所に行くなんてね…」。ざっとこのような他愛ない内容で、水死という不幸をもたらすケルピーなのに、曲調はどこまでも明るい。ロ短調でファの音が抜けた音階で歌われ、途中のフルート・ソロではホ短調やト短調に鮮やかに転調する。フルート・ソロは特筆に値する出来ばえで、この曲の魅力をさらに増している。また、転調の妙がタルの音楽の大きな魅力でもある。結局この曲はちょっとしたラヴ・ソングであって、タルの多くの曲の中ではほとんど目立たず、繰り返し録音し直される他のタルの名曲に比べると、ほとんど取るに足りないと言ってよい。だが、こうした小品でもまるで小さな宝石のように輝いている。そしてタルにはそんな曲がとても多い。決して手抜きをせず、どのフレーズも磨きに磨いて完成度を高めようとする職人魂がイアンの作詞作曲には常にある。タルの本当の味は歌詞をつぶさに読み取って、その情景を思い浮かべなければ獲得出来ないと言ってよい。どの曲も情景描写が巧みで映像的だが、スコットランドの自然の美しさをこよなく愛しているイアンの思いがそこからは伝わる。ラファエル前派や童話の挿絵など、イギリス特有の美術の遺産とつながった視覚的要素をジャケットにいつも趣向を凝らして登場させる点でも、他のロック・ミュージシャンとは大きく隔たったものがある。それは『クリスマス・アルバム』のジャケットひとつでもよくわかる。12月に同アルバムを聴いて深みにはまるのもいいですよ。溺れさせようというのではないけれど。
by uuuzen | 2005-10-27 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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