枇杷の木がわが家の近くに10年ほど前まであって、毎年今頃になるとオレンジ色の実が地面に落ちて車に踏みつぶされ、ぺしゃんこになっていたことを今日は思い出した。そう言えば枇杷の実をあまり見かけなくなって、口に入る機会はめったにない。
枇杷は実が成るのに13年かかると言われるから、柿の1.5倍も年月を要し、それだけ貴重としてよい。小さな頃に母が市場で買って来た枇杷を食べさせてくれたことを思い出すが、種子が大きく、実はあまり食べる部分がないことが不満であった。そうかと言ってタネなしの枇杷ではまた何となくつまらない。ともかく、薄味の枇杷は今の若者には人気がないのだろう。わが家の近くにあった木も、実は全く収穫されていなかった。背の届かないところに成っていたからでもあるが、たぶんその木は植えられたものではなく、勝手に生えて来たものだ。それもあって家の人は無関心であったように思う。枇杷の花は白くて小さいのであまり目立たないが、毎年花を咲かせていた記憶がある。なぜ枇杷の実のことを思い出したかと言えば、筆者の記憶違いかもしれないが、ちょうど今頃が枇杷の実がよく出回るように思うからだ。つまり枇杷の実は梅雨入り前のむっとした空気によく似合っていて、人間の記憶は季節に大きく関係していると思う。そしてこれから雨が多い日が続き、それが終わると今度は猛烈に暑い日に2か月ほど耐えなければならないが、その真夏の暑さを想像しただけでもうげんなりして来る。真夜中になっても3階のベランダは30度を越えているから、このブログを夏場に続けるのは1年のうちで最も苦労する。そうでなくてもここ1週間ほどは目がしょぼしょぼしてパソコンの画面を長時間見つめることが出来ず、ブログの熱度はかなり下がっていることを自覚する。ま、そういう言い訳をしても仕方がないので本論に入るとして、枇杷から始めた理由がさて何であったかと思うと、薔薇の実から枇杷の実を連想したのだ。色も形も少しも似ていないが、実ということでは共通している。その薔薇の実が早くも散歩中に見ることが出来る。先ほどネットで調べると、薔薇の実から種子を取り出し、それを育てて開花させる方法を見つけた。面白いと思ったのは、種子から育てると、花は先祖返りするのか、咲いていた花とは全然違うものが咲くそうだ。これは品種改良によって無理やり形や色を作り出して来ているからで、種子は正直で、その薔薇が本来持っていた姿に戻ろうと準備している。となると、筆者が散歩中に見かける薔薇の実をこっそりともぎ取って持ち帰り、種子から育てても、同じ花は咲かず、誰も筆者がこっそりと実を盗んだとは思えない。筆者が今気にかけているのは、赤い大きな薔薇の実で、それが数個収穫されてよいほどの大きさと色艶に育っている。てっきりその実から同じ形と色の薔薇が得られると思っていたのだ、実際はそうではなく、たぶん形も色もかなり悪いものが育つのだろう。これはまるで整形美人から不細工な顔の子が生まれることに似るが、その不細工こそが真実であり、整形が異様であることを認めねばならない。ところが世間ではその反対がまかり通っていて、不細工はいくらあがいても不細工で、整形美人はぎょっとするほどの美しさであれば、誰もそれを責めない。品種改良で形は大きく、色は鮮明に改良されて来ている薔薇はみな整形美女のようなもので、それらの種子を育てて不細工が出現するのは自然の摂理、真実であって、歓迎すべきことだ。そしてどの程度に不細工な花が咲くのかという怖いもの見たさがあるので、やはり散歩中に素知らぬ顔をして薔薇の実を2,3個もぎ取って来ようかと思う。
今日は大阪で撮った薔薇の花を20種紹介するが、天王寺公園内の薔薇苑だけで撮ったものばかりではない。次回の20種と合わせてそのうちの4,5種は、梅田スカイビルを訪れた後、その南隣りに建つウェスティンホテルの西側道路際で見つけたものだ。さすがホテルと言うべきか、玄関付近の目立つ箇所に薔薇をたくさん植えていて、その近辺の植え込みの手入れを作業服姿の2,3人の男性が携わっていた。薔薇は100メートルほどにわたって断続的に植えられているが、品種はごく限られ、4,5種であった。それでもみな大輪で、また陽当たりがよく、見事に咲いていた。これが大阪駅より南であれば道行く人は勝手に切り取るかもしれず、用のない人は歩かないホテル区域であるために、人が見ていなくても薔薇は自ら花弁を散らすまで咲き誇ることが出来る。そこで思い出したので書いておくと、筆者の母が長年住んでいた八尾の小さな家には赤い薔薇の木があった。毎年花をいくつか咲かせるのを母は楽しみにしていたが、ある日充分開いた花が午後に見当たらない。近所の誰かが切り取ったのだろうと思って母は憤慨した。花の泥棒は泥棒と言えないと言われるが、それでも開花を楽しみに水やりを続けていた花が、咲いた当日に切り取られるのは頭に来る。その日母は斜め向かいの知り合いの家にお邪魔した。すると、朝に咲いていた薔薇が一輪差しに収まっている。母はそれを見て相手の問いただすと、あまりにきれいなので黙って切り取ったとのこと。その話に母は常識知らずとまた憤慨していた。黙ってでなければ許されたかと言えばそうではないから、その人は勝手に切り取ったのだろう。だが、薔薇の花はすぐ近くの市場でいくらでも切り花が売られている。100や200も咲いていれば多少持ち去られても仕方ないと諦めもつくが、ひとつだけ咲いたものをいきなり切り取られると腹は立つ。ところが黙って花を切り取る人は案外少なくない。わが家の近くに2年ほど前に紫がかった大きな薔薇がいくつか咲いていた。それを通りがかる人が切り取っていた。そしてその薔薇はその年の冬にすっかり枯れてしまった。切り取った人が無事に育てているならまだいいが、自分が切り取った後、元の薔薇がどうなってもかまわないという態度はやはり許せない。そう考えると、散歩中に毎回見つめる薔薇の実を筆者が勝手にもぎ取ることも許されない行為で、持ち主に断るべきだ。また話しかければいろいろと栽培についての注意も教えてもらえるかもしれない。あるいは薔薇の種子は通販で売っていますよとやんわりと断られるかだが、後味のよさを思えば黙って持ち去るのはよくない。ついでに思い出したことを書く。これは一昨日ムーギョでのことだ。夕方家内と自転車で訪れた。家内がレジに立っている時、筆者は出入り口のすぐ外に立っていた。店内はレジの女性ふたりと客は3、4人だ。急に若い男が胸に半ダースの缶ビールかそれに似たようなものを両手で押さえて飛び出して来た。筆者と目があったが、男はおかまいなしに4,5メートルほど離れて停まっている車の扉を開けてそれを放り込んだ。男が飛び出して来た時に思ったのは万引きだ。筆者はそれまで店内にしばらくいたし、またレジの方を見ていたから、その男がレジを通さなかったのは明らかだ。車の運手席には若い女がいた。男は助手席に商品を放り込んだ後、20秒ほど車から離れて筆者の視界から消えたが、戻って来るや助手席のドアを開けて中に入り、車はすぐに出て行った。家内にそのことを言うと、新車に乗っていたからまさかそんなことはしないだろうとのことであったが、金があってもわずか1000円の商品を万引きする者はいる。しかも堂々とだ。ムーギョはいつも店員が少なく、ほとんどの時間帯はレジの人しかおらず、そこに人が2,3人でも並んでいれば、店内は全く万引きから無防備だ。おそらく万引きの被害はかなり大きい。それに味をしめた者が定期的に車でやって来るのだろう。さっと盗んで車に乗るまで10秒ほどで済む。ムーギョは出入り口の外にもたくさん商品を並べているため、たとえレジを通さずに商品を外に持ち出しても、外に置かれている商品を吟味していますと言えばよい。薔薇は盗まれたくないので全身に棘を持っているのかもしれない。先日ある家の薔薇をしげしげと見ていると、花以外全身棘だらけに感じされた。実際は葉にも棘がないが、花と葉をつなぐ茎には必ず棘があるから、薔薇は棘とは無縁でいられない。花泥棒もその棘に注意して切り取らねば指を血だらけにしてしまう。
万引きする人、認知症になった人、人間はさまざまに変わり、その肖像は定まらないが、薔薇はどうか。薔薇の仲間から嫌われる薔薇があるだろうか。またさまざまな人間をどう思っているだろうか。薔薇をきれいと思った人が認知症になってもならなくてもいつかは薔薇ともこの世ともおさらばしなければならないが、薔薇は薔薇のままでまた別の人をある時期に楽しませる。偉いと自惚れる人間は薔薇を多様に品種改良し、また絶滅させることも出来ると思っているが、雑草ひとつ絶滅させることは不可能だ。それで、薔薇ともお互い別々に生きて行くが、たまに強く関心を持つ人があって、薔薇に寄せて何かを表現する。筆者のこの文章もその例の末端に連なるが、もっと積極的な表現として大作を考え始めている。そのことは先日少し書いた。筆者はまだ一度も六曲一双屏風を作ったことはないが、そのための木枠と呼ぶか、土台となるべき素材は手元に置いている。それは江戸時代のつまらない画家の古い屏風で、現在2点の六曲一双屏風を所有していて、その本紙を剥がして内部の木枠を使うつもりでいる。そのことを数年前に表具屋に伝えると、本紙を剥がした後、木枠をきれにする手間が大変で、またそこに和紙を貼り詰めなければならないから、最初から木枠も職人に作らせるのとさほど費用は変わらないと言われた。屏風は周囲の桟を本漆塗りにすると、表具代は別として2枚折り屏風でもそれだけで10万や20万はする。それも四半世紀前の話だ。六曲一双となるとその数倍はかかるし、また友禅屏風の場合、生地代でまた10万円は必要で、筆者の手間を無料としてもかなりの出費になる。そんなに経費をかけても六曲一双の屏風を並べ得る家は今はとても少ないし、また筆者の作品では無料でもほしいと言う人はない。それを承知しながらも、生きている間に1,2点は六曲一双の友禅屏風を染めたいと思う。先日書いたように、ぼんやりと構図は浮かんでいる。花だけではなしに、ベンチに座る男性を描く。その周囲に雀が飛び交うが、男は筆者だ。つまり、筆者は自分の肖像を薔薇とともに描いておきたいのだが、薔薇が最も好きな花というのではなく、今年天王寺公園内の薔薇苑でホームレスではないが、筆者とさほど年齢のちがわない男性が薔薇を背後にベンチにひとり座り、雀を掌に載せてパンを与えている姿に遭遇し、それが絵になると瞬間に思った。また、その男性は時と場所が異なっていれば筆者の姿かもしれないと感じられ、何かの形で留めておきたい。こんなことを書きながら、結局手がけないままになるかもしれないが、人生の残りの年月や自分の体力を思えば、もう今から本腰を入れなければ悔いが残る気がしている。それで頭の中でどのような構図や配色がいいかをふと考えることがここ数日はよくある。実際に小下絵を描く前に、自分が何か月も費やしても現前させたいものをまず頭の中で思い浮かべる。それはひとつに定まらないから、そこそこのところで紙と鉛筆で小下絵を作ってみる。すると頭の中のイメージはさらに鮮明になるから、それを小下絵でさらに煮つめる。思うことと手を動かすことが連動して作品が出来上がって行くが、まずは思い浮かべることだ。
人間が薔薇を育てるのは美しいと思うからだが、薔薇は自分をどう思っているか。やはり美しくありたいと思っているだろう。では勝手に薔薇は咲くかと言えば、そういう強いものもあるだろうが、ほとんどは手間をかけてやらねばならないはずだ。水やりをせず、また陽当たりのよくないところではやがては枯れるだろう。それを筆者は20年ほど前にわが家で経験した。2,3種の薔薇があったのに、いつの間にか枯れてしまった。それは育てるのに興味がなかったからだ。つまり無視したからだ。先日5歳の子を無視して餓死に追いやった父親が逮捕された。痩せ細った息子はパパ、パパと小さく叫んでいたというが、それを見て恐れをなして父親は子どもを家にひとり放置した。薔薇も同じではないか。気に留めなければやがて枯れる。雑草はそうでないが、その分薔薇のように美しくはない。となると、美しさは気に留め、手間暇をかけてこそのものだ。薔薇は人間の手入れに応じて見事に咲いてくれるだろう。それは薔薇の気持ちを理解するからで、薔薇は人間を見つめている。薔薇に関心のない人には薔薇はただ咲いているだけで、近寄って眺めることはない。ましてや手入れには全く無関心だ。人生は関心を持つと切りがないほどにたくさんのことに取り囲まれている。何に関心を寄せ、何に無関心になるかは人の自由だが、興味を抱いて没入すれば何事でも奥は深いだろう。そして深入りしながら、その真実の核心がいつか把握出来るかと言えばそんなことは稀かもしれない。たいていは飽きるかして別の何かに興味の対象を移す。嵯峨にある「ラビアンローズ」という喫茶店はその名のとおり、薔薇に捧げた薔薇色の人生を店主は過ごして来たと言ってよいが、薔薇に一途であり得ていることは見事なものだ。そういう人生を誰もが羨ましいと思っているのではないだろうか。その点、筆者は何が専門なのかわからない人生で、ただ気ままに時を過ごしている。そういう反省めいたことを思うのも薔薇の写真をたくさん撮り、それをこうして投稿しているからで、薔薇に教えられていると言ってよいかもしれない。薔薇は気ままに咲いては散っているだけか。そうではない。薔薇は薔薇でしかあり得ず、一途だ。自分も一途にひたむきに美しくありたいと思うが、それは本当に望むことを実現化させる以外に術はない。薔薇が薔薇であるのは薔薇の花を咲かせるからだ。人間も同じではないか。もちろん枇杷もそうで、グミもザクロもイチジクも柿もそうだ。