醤油のことを紫と呼ぶが、紫色の薔薇を見ても醤油を思い出さない。ではソースを思い出すかと言えばそうでもない。醤油もソースも日本のものと言ってよい。では薔薇が日本のものでないかと言えばそんなことはないが、大輪の花が似合うのは洋風の家という気がする。
![●薔薇の肖像、その3_d0053294_0353221.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201406/03/94/d0053294_0353221.jpg)
さて、今日は嵯峨で撮影した薔薇の前半を紹介するが、その1と2とは違って、大半をとある喫茶店の前庭で撮った。その店の薔薇だけでも40種が撮影出来たが、帰りは違うところを走ることにした。すると喫茶店から100メートルかそこらのところで薔薇をそれなりにまとめて植えている家を見つけた。三条通りと桂川に挟まれたところで、そうそう、昔は冨田渓仙が住んでいた家のすぐ近くだ。そこで数枚撮った。とにかく撮影したすべてから40種に絞り、それをその1、2の4枚組を構成した時と同じ方法で10の写真にしたので、どこで撮ったものか場所がわからなくなっている。あえてそのようにしたかった。嵯峨をもっとこまえに歩き回ると、さらにたくさんの薔薇に遭遇出来たはずだが、あまり多くなっても結局40枚にするつもりであったから、喫茶店とその近くの家の2か所で充分だ。喫茶店が間近に見える別の家にも立派な薔薇が咲いていて、自転車から下りずに間近で撮影することが出来たのに、そのこれぞ1枚という写真は写っていなかった。実はその薔薇は自転車で20メートルほど通り過ぎてから撮ることに決めた。ところが振り返ると、その家の70代の奥さんがまだ庭先で誰かと話している。そのすぐ近くに薔薇があった。通りすがりにちらりと見てこれはいいと思ったが、家の住民がいてしかも話中では撮影出来ない。それでも諦め切れずに20メートルほど走って自転車を停めた。なぜ諦めなかったかと言えば、その薔薇は喫茶店でたくさん咲いている中にはない色合いであったからだ。20秒ほど振り返りながら待っていると、話は終わって、奥さんは家の中に入ったようだ。それでその場所に戻った。自転車に乗ったまま、少しせわしなく撮った。また奥さんが出て来ると言い訳に困る気がしたからだ。美しい花であっても、他人の家に咲いている花を無断で撮影されるのはいい気分ではないはずだ。そういう理由もあって、撮影した薔薇を正方形に切り取る際、どの花弁も欠けることなく、しかも上下左右に5ピクセル程度の隙間を作り、なるべくどこで撮ったのかわからないようにした。「薔薇の肖像」であって、「薔薇が咲いている庭の肖像」ではない。では薔薇はどこで咲いても同じかと言えば、それは見る人の気持ち次第であって、見る人は薔薇だけを見るのではなく、その周囲も一緒に見るから、どうしても同じ品種の同じように立派に咲いている薔薇でも違うように感じるだろう。「福島に咲いていました」と聞くと、何となく放射能が多いかもと思ってしまいがちなことと同じだ。そういう心理を巧みに使っているのが昨日書いたような百貨店だ。同じ商品が下町のうらぶれた店に置かれていても、まず同じ価格では売れない。これは人間が愚かというより、どんな人間でもそのように出来ていて、いわば常識だ。そこをよく知らないと、知らない間に嫌われたりする。
![●薔薇の肖像、その3_d0053294_0353313.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201406/03/94/d0053294_0353313.jpg)
そういうことを書きながら、筆者は案外常識外れのことをしている。自覚があればまだいいが、そうでない場合はもう他人が注意してくれる年齢ではないから、恥をかきながら、それを知らないままという本当に恥ずかしいことになる。それでも何が恥かとなれば、人によって違う。薔薇の花の名前を知らなくても少しも困らないし、薔薇の花などこの世になくてもかまわないと思う人はたくさんいる。そういう人を恥ずかしいと思っても本人はそう思っていないのであればどうしようもない。中村真一郎が木村蒹葭堂についての分厚い本を書いたのは、晩年になって気の合う人が少なくなったからだろう。多くの知り合いはいても、興味がだいたい同じという人は少ないものだ。それで友人と話をするとしても、どこまでも話が弾むということにはなりにくい。筆者は長年Nと酒を飲んだが、筆者の興味のある話はほとんどしなかった。Nにその関心や知識がなかったからだ。20年ほど前、東洋陶磁美術館に息子を連れて行った時、上新庄から淀屋橋の中央公会堂前までNに自動車で送ってもらったことがある。いい機会なのでNに一緒に展覧会を見ようと誘うと、興味がないので外で待っていると言われた。それで30分ほどもかからずにさっさと見終え、合流して公会堂下の食堂で3人で食事した。Nにすれば見てもわからないという気持ちであったのだろう。だが、見てもわからないのではなく、興味を持つとは思えないと思い込んでいるだけだ。そういう態度は世間を狭くする。だが、逆にNが頻繁に出入りした場所は筆者に関心がなかったことがある。たとえば飲み屋だ。筆者がひとりで展覧会にせっせと言っている間にNは同じようにひとりであちこちの飲み屋に足を運んでいた。そしてその話を筆者と飲んだ時に聞くのだが、筆者は美術に関してNに一度もしゃべったことがない。好きな音楽もそうだ。だが、筆者と話題があまり合わないNを人間的に恥ずかしいとは思ったことがない。その理由は簡単だ。Nは筆者が興味を抱いていることで知らない、あるいは関心がないことについて侮ったり、また否定的なことを言わなかった。知らないことは知らないであって、それはつまらないではない。ところが世間にはそう思わない人も多い。自分の関心のないことを否定的に言う。たとえば一代で数十億稼いだというような人がいるが、読書はもとより、美術や音楽の鑑賞に興味がなく、そういうものにうつつを抜かしているから金儲けが出来ないのだと嘲る。そういう人は誰に対しても「自分のことがうらやましいだろう」と自惚れているから、顔や態度にそれがありありと出ているが、筆者に言わせれば屁とも思わない。むしろ憐れな人だ。だが、本人がよければそれでよい。そういう人からは黙って距離を取ればいいだけのことだ。筆者のような年齢になってわかるが、60や70になって馬鹿面をしている人がいる。洒落た服に身を包み、外車に乗っていても、顔は知性のかけらもない。中村真一郎もきっとそういう人をたくさん見ていたのだろう。そして自分の好きな世界に入り込むとなると、現在はどこにもそれがない。それでも文学者は自在に時空を飛び越えて想像を羽ばたかせるからかまわない。そして文学者でなくても、1冊の本の中に作者の思いが詰め込まれていることを知っているだけでよい。これは1枚の絵、ひとつの楽曲も同じことだ。あるいは薔薇の花を愛でることもそうだ。
![●薔薇の肖像、その3_d0053294_03639.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201406/03/94/d0053294_03639.jpg)
人間がどう生きても薔薇から見れば差はないだろう。人間は薔薇を咲いている場所でよしあしを判断しがちだが、薔薇にすれば虫の方が歓迎で、人間はいてもいなくてもいい存在だろう。あるいは迷惑しているかもしれない。青色がないから無理やり青色の花を造り出そうとするのであるから、人間を拷問する存在と思っているのではないか。そんな薔薇も人間も老いるとみな茶色になってしまうのは、自然ではあっても、人間の方は受け入れ難いと思う。少しでも花は長持ちするのがよいと思うのは、それがきれいであるからで、茶色になってしまうともう捨てるしかない。筆者が撮影して回った頃はまだそんな茶色になった花は目立たなかった。だが、この連日の暑さではもうそろそろ花はくたびれて来る。今日はムーギョへの往復、垣根の緑を見ながら金木犀の花が咲いているのかと一瞬思った。葉に混じってところどころに茶色の粒がたくさん見えたからだ。だが金木犀はもっと派手なオレンジ色で、茶色ではない。その茶色の小さな花に見えたのはツツジの枯れた花であった。あれほど鮮やかに咲き誇っていたのに、どれも茶色でしかも著しく萎んでしまって元の花の形はどこにもない。薔薇はその点まだ貫禄がある。まず先に開花した外側の花弁の先端が少し茶色を帯びる。そして内側の花弁の先端もそのようになり始めると、もう全体が幾分小さく固まったように見え、道を歩く人の目にも留まらなくなる。そういう状態の花ばかり撮影するのも面白いかと考えた。画家のホルスト・ヤンセンがそのような花をよく描いたが、美しいものを美しく描くことに関心がなく、美しいものはすぐに死に行くことを凝視し、その残酷な過程に美の本質を見ようとした。筆者は茶色に枯れた薔薇の写真を撮ればどうかと考えた瞬間にそれを消し去った。そのような写真を40枚撮ってもどれも同じように見えて退屈であろうと思ったからだ。だが、その想像が当たっているかどうかはわからない。今日の5枚の写真は、最初の1枚を加工した時、種苗会社の宣伝によいと思った。花の種子の入った袋に印刷されている写真を思わせる。つまり、退屈だ。目のつけどころがさほどよくない。それでまた枯れた薔薇の写真はどうかと考えたが、枯れた花はさっさと切り取られるか、あるいは花弁がぱらぱらと落ちて行くので、2時間程度で50枚も撮影することは難しいに違いない。これは用済みなものはすぐに姿を消すことを示している。一方の人間は薔薇で言う茶色に変化してもそれから死ぬまでが長い。人間の本当の花の盛りは人によって思いが違うとしても、女なら20そこそこだろう。それから数年経てば姥桜と呼ばれる。薔薇の花と同じように、ほんの一瞬だけがきれいな花の状態だ。男はどうか。男も同じではないか。金をたくさん儲けて偉そうぶっても、腹がでっぷりと出ては醜いことこのうえない。本人がそれを自覚していないのでなおさら恥ずかしい。
![●薔薇の肖像、その3_d0053294_036287.jpg](https://pds.exblog.jp/pds/1/201406/03/94/d0053294_036287.jpg)
さて、醤油であった。今日の薔薇は紫色が目立つ。これは嵯峨地域に紫色が多いということではない。大半はある喫茶店で撮影したから、その店の主の好みが反映している。たくさんの人に関心を持ってもらうには、なるべく珍しい品種を多く育てるに限る。「あ、それならわたしの家にもあるわ」と思われるようでは、喫茶店の営業にも差し支えがある。だが、99パーセントの客は薔薇を育てていないから、花を見て何の品種か名前を当てられない。ならば月並みな、育てやすい品種でいいではないかと、素人は思う。それこそがまさに素人考えで、薔薇を何十年も育てている人はこだわりがある。それは99パーセントの人にはよくわからないが、何となく感じは把握出来る。そして1パーセントの人は専門的にその感じを噛みしめるが、いずれにしても薔薇を育てる主の思惑は伝わるということだ。そして今日の写真を先日のその1と2に比べてわかるように、紫系統が多く、これは店主がそれを望んでいるからだ。筆者は深紅と白で充分と思うが、育てる専門家になればまた思いが違って来るのだろう。そう言えば一時筆者は洋蘭を盛んに写生し、その月日の中で紫色のバンダに関心を抱いた。それは蘭にすればとても珍しい色で、そのためにめったに見ることもなかった。そういう希少性が何となく価値があるように思えていた部分もあるが、大きな紫色の花はいかにも洋蘭の怪しさを代表しているように思えた。それから四半世紀経ってバンダはさほど珍しい花ではなくなったのかもしれないが、花屋で見かける洋蘭は常に白の胡蝶蘭で、かなり退屈だ。それは長持ちすると同時に高価な印象があって贈る場合に歓迎されるのだろう。筆者なら薔薇をもらう方が嬉しい。ま、そんな慶事はないから、せいぜい散歩中に立ち止まって他人の庭に咲くのを眺める程度だ。そう言えばここ10日ほど、薔薇を題材に友禅屏風を作ろうかと思い始めている。いっそのこと6曲1双だ。そのための広幅の紬地は昔買ったものがあるはずだ。どのような構図がいいかと頭の中であれこれ描きながら、人物を配するのはいいかと思っている。それはベンチに座って雀にパン屑を与える男だ。ただしホームレスのような貧しい身なりではない。ボーラーハットを被った筆者の後ろ姿でもよい。そうなると、全体に写実的になりそうで、薔薇の方は退屈なものになる可能性が大きい。それで人物を含めず。薔薇のみでいいかと思い直す。棘をたくさん描き、また少々誇張して大きくする。花は当然どす黒い深紅で、醤油がしたたり落ちそうだ。はははは、
昔作った切り絵を思い出した。