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饒舌」と「おしゃべり」は同義とされているが、「喋る」ことと「書く」ことは違うのかどうか。先ほどネット・ニュースで「おしゃべりは国を滅ぼす」と題した記事を見かけてクリックすると、有名な哲学者の文章らしく、有料であった。料金の支払い方がわからないし、わかってもすぐに手続きは完了しないだろう。

こっちはすぐに読みたい。それでその題名で検索すると、別のサイトで全文が読めた。1000字程度だ。そこでよくわからなかったのは、その若き哲学者は書くことについては自己を省みることになって薦めているが、ブログやツイッターなど、ネットで文章を投稿することを「おしゃべり」としていることだ。ブログも書くことであり、それは「喋り」とはいささか違う。その哲学者の書いていることは昔どこかで読んだことをつぎはぎした内容で、ブログやSNSなどを「おしゃべり」と断定している箇所のみいわば独創と言えるが、それも誰しも言ったり書いたりしていることで、筆者としては面白くも何ともない。そういう文章が肩書きつきの有名人となれば、有料で、しかも「おしゃべり」とはみなされない。以前に書いたが、筆者は文章は無料であるべきと思っている。練りに練られた詩は金を払ってもいいが、前述の哲学者の文章程度に金を出す気はなく、むしろ読んだ時間を返せと言いたい。話は変わって、筆者は自分のブログを長文と思っているが、次に調べたのがブログで長文は何字程度かということだ。1万字を越えると長文で読む気がしないとあった。筆者は長い場合は7000字近いが、だいたい4000から5000字の間に収めている。これは半長文ということで、どうにか読んでもらえる長さだろう。その半長文を毎日続けているとネタに困りそうなものだが、むしろ書かないことの方が多い。毎日4000から5000字も書く行為は、最初に書いた「饒舌」の形容がふさわしいとして、伝えたい相手を思い浮かべていないので、「おしゃべり」よりもむしろ「ひとりごと」という言葉がふさわしい。実際コメントはごくたまにある程度で、これも今調べると、172と表示されている。この半分は筆者の返答であるから、約3300の投稿に対して90程度となって、3パーセント弱の確率だ。つまり筆者はほとんど毎日半長文のひとりごとを書いていて、自省の訓練をじっくりと続けて来ている。あるいは先の哲学者に言わせれば、無駄なおしゃべりで身を滅ぼしかけている。ま、筆者が言いたいことは、自分が売文で飯を食っているくせに、他人のブログなどの文章を非難するなということだ。ブログもいろいろだ。そして有料でネット上で読ませる文章も同じで、人は金を払うからさも貴重なことが書かれていると錯覚するだけのことだ。本当に大切なことは空気や水と同じようにただであるはずだ。と書きながら、筆者は自分の半長文を価値あるものとは思っていない。出来れば有料にしたいが、方法がわからない。たぶん有料で読んでもらうには、前述の若い哲学者のように、肩書きが必要で、また自分は価値あることを書いているという自惚れが欠かせない。そうでなければブログやSNS、その他ネットを使う文章公表手段を「おしゃべり」でしかも国を滅ぼすなどとは言えないだろう。

さて、今日は薔薇つながりで2か月以上前どころかもうすぐ3か月になる展覧会を取り上げる。薔薇つながりと言うのは、百貨店の高島屋のキャラクターが「ローズちゃん」と呼ばれる人形で、それが四条通りの大きなショー・ウィンドウ内部の雛段に勢揃いしていた。展覧会の期間中は誰でもそれらの人形の展示だけは見ることが出来た。言い代えれば、それらの人形はいつもの7階の展示ホールに並べるには場所が足りなかった。それほどに多い、すなわち「饒」の状態の作品数で、何を見たのか詳細には思い出せない。また、本展は1階の中央玄関を入った正面にも何枚かの大きな写真の展示があって、ローズちゃんとその写真が一番の目玉と言ってよかった。写真はチケットやチラシに印刷された旧高島屋の建物や従業員が勢揃いした集合写真で、同館が最初から四条河原町にあったのではないことがわかった。ではどこにあったか。それは烏丸四条下がる、松原当たりの西側で、蕪村の住まいがあった近くだ。江戸時代はもちろん平屋の木造で、それが黒壁の土蔵造りの3階建てになり、そして鉄筋コンクリートになった。最初にあった場所は今は京都銀行の本店が建っている。その前はよく通りがかるが、あまり印象に残らない場所だ。そこに現在も高島屋があったならば、四条河原町の繁栄はなかったであろう。あるいは大丸百貨店がそこに別館を設置したかもしれない。ともかく、高島屋が南座に近い四条河原町に移転したことでさらなる発展が出来た。烏丸店が鉄筋コンクリートになったのは明治45年という。これは欧米の博覧会の影響を受けてのことだ。京都はそうした博覧会で工芸品を海外にたくさん売ったが、そのデザインを画家がする場合も多く、高島屋は美術のつながりを最初から持った。もちろんそれは江戸時代に呉服を販売していたことが関係している。大丸百貨店も同じで、百貨店は呉服屋から始まった。これはファッションが一番金になることを示している。今はキモノをほとんどの人が着なくなったが、高島屋も大丸も最も高価な商品を売る場所に呉服を置いている。それは貴金属を売るコーナーの奥で、やはりたいていの人は腕時計や宝石は見ても、その奥の静まり返った場所には踏み込まない。そうであれば百貨店としては売り上げが悪いということで呉服販売をやめてしまってもいいようなものだが、館全体として儲かればよいという考えだ。また、最初に手がけた商品を売らなくしてしまうことはさすがに出来ない。そして、数百万円するキモノは外商で売れるはずで、ごく普通の市民が売れるかどうかを気にする必要はない。
それはともかく、本展では第3章「継承と創生の出会い」と題して会場の最後のコーナーに「上品回と百選会」に出品されたキモノや帯が天井近くまで数多く展示された。どれも時代を感じさせ、キモノが洋服と同じように流行の商品であることを納得させた。「上品会」は「じょうぼんかい」と読むが、これを筆者がこれを知ったのは友禅の師匠に就いてからだ。毎年か年2回か知らないが、カラー印刷されたキモノや帯が和綴じ本となって出回っているのを目にした。その会が今も健在であることは2か月ほど前のNHKのTV番組で知った。若手のデザイナーや染織家が3名ほど取材されていた。彼らの作品を着用したモデルが舞台に順に上がり、居並ぶ全国の高島屋の呉服販売員によって仕入られるのだが、人気のない商品はどうなるのだろう。またこの会は決まった作家や職人に発注していて、誰もが入り込めるものではない。「百選会」もそうで、呉服の世界は世襲や人脈が欠かせない。ところで、先日自治会内の大志万から招待券をもらったので高島屋で日本伝統工芸展会の近畿展を見に行った。以前は無料であったのが、今年からか、有料になった。これはおそらく見たい人は金を出しても見るし、見ない人は無料でも見ないからだ。昔筆者は毎年のように見ていたが、いつも同じような作品が並ぶで、次第に足が向かなくなった。それはいいとして、今回はわざわざ注意書きがあって、作品の名札の裏に販売価格が記されていることがわかった。それで適当にそれをつかんで裏返しところ、キモノは非売品が目立った。そして価格がついているものは、総絵羽の堰出し技法の友禅キモノで150万ほどだった。高島屋が半分取るとして、作家はどうにか損しない程度の取り分か。あるいはかなりの損かもしれない。会場を出てすぐ隣りの囲いの臨時コーナーは畳敷きとなっていて、呉服が売られていた。その出入り口に「上品会」の縁袖が1点衣桁にかかっていて、それが360万円だったと思う。それは作家が作ったものではないから、かなり古典的な文様で、半世紀経っても同じような図柄で作られているはずだ。作家物の倍かそれ以上の価格で「上品会」の「作品」は売られている。これを知ると、作家は個性のあるものを作らずに、昔と同じものを作り続けようという気になるだろう。だが、そんなことをしても「上品会」が扱ってくれはしない。キモノの世界は作品の質よりもどこが売るかで価値が決まる。言い代えれば、国宝級の技術で作っても高島屋屋や大丸、その他の有名呉服店が扱わない限り、それは少しも値打ちがない。なぜなら、その作り手の経験より何倍もの歴史を百貨店や有名呉服店は誇っている。つまり、本展はそういう高島屋の偉大なる商品販売の歴史を見せるもので、そこに展示されたものが美術的価値があるかどうかは関係がない。どんな安物でも高島屋が売れば高価に値がつけられるということで、そういう暗黙の了解を日本は百貨店が100年以上かけて作り上げて来た。それで人々は他人にリッチなところを見せたいのであれば百貨店で購入するし、百貨店は他者では売らない商品を独占販売しようとする。それが「上品会」であり、「百選会」だ。
本展の第1章は「美術との出会い-美術染織・日本画・洋画・工芸」とあって、美術染織が最初に挙げられていることは嬉しい。だが、それを今の画家は認めない。染織など職人がすることであって、頭のよい画家がすることではない。手でする仕事は手先ではなく、むしろ頭が大事で、頭さえあれば他人を動かすことも出来る。そうして器用さということが侮蔑され、誰も真似の出来ない完璧と呼ぶにふさわしい技術を認める目がなくなった。技術は必要ではなく、それは機械に任せればよい。今はすっかりそのような世の中になったが、本展では染織が明治時代にいかに日本の名を世界に轟かせたかを見せ、その陰に著名な画家たちがいたことを明かす。その代表は竹内栖鳳で、呉服や染織技術による調度の下絵のために週の半分ほどは作業場に通った。今は栖鳳ほどの腕の立つ画家はいないし、またキモノの下絵を侮っているが、描けるはずがない。それほどキモノの知識がなく、また絵を描いている方が自慢出来るし、金も儲かる。たまに有名人がキモノのデザインを手がけるが、その有名人の名前で売ろうとするものだ。さて第1章は「万博と高島屋」の関係について紹介する作品や資料に続いて、「現代名家百幅画会から美術部創設へ」と題し、高島屋が今に至るまで現存の画家とつながりを保って来ていることを示していた。「現代名家百幅画会」は明治42年に100名の画家に同じ寸法で新作を依頼し、一堂に展示したものだ。絵は通常の色紙の倍ほどの大きさで、それらが厚さ20センチ近い画本として仕立てられたものが展示された。上下2冊かあるいは3冊か知らないが、会場では当然全部広げられない。今も有名な画家がほとんどで、速水御舟は2点目についたが、どの作家も力作と言うほどではない。これは画料のせいだろう。この百幅会を契機として「高島屋美術部」が明治44年に設置され、さまざまな美術品を今に至るまで販売して来ている。大阪店も京都店も美術画廊があるが、そこで展示会を開くには、必ず多少は作品が売れる必要があると聞く。街中の貸し画廊とは違い、何と言っても物を売ってナンボの百貨店、高島屋であるから、金だけ出して場所を借りるということは出来ないのだろう。それは同美術部の品格にかかわるからでもある。「上品会」も同じで、歴史のあるところはみなそうだ。とはいえ、金を儲けることが第一主義であるから、そこは適当に流行に同調し、下品な作家であっても有名であればその名を借りることはいくらでも行なわれる。百貨店は金持ちの顧客とは別にまず大衆に目を向けねばならず、大衆が喜ぶものをいち早く察知して売る。

第2章は「暮らしとの出会い―百貨店建築・装飾・広告宣伝・出版」で、ポスターやチラシ類がこれも天井に届くほど大量に展示された。百貨店のポスターは美術館での「ポスター展」でしばしば見るので珍しくない。呉服と同じく流行を体現していて、昔のものは懐かしさを覚える。このコーナーに「ローズちゃん」を展示するのがふさわしいはずで、実際いくつか展示されていたようにも思うが、最初に作られたのがいつか、またどんな形をしていたかは図録を買っていないのでわからない。「ローズちゃん」はデザイン的には伏見人形の延長にあるものと言ってもよい。顔は少しずつ変化して来ていると思うが、基本は変わらない。この人形は市販されていないが、市販されて売れるだろうか。かわいさを念頭に置いて造られてはいるが、百貨店のイメージがまとわりつき、自宅に飾れば落ち着かない気がする。それはいいとして、同じキャラクターにさまざまな格好をさせ、また異なる衣裳を着せ、今なお新作を生んでいるのは好感が持てる。高島屋が海外も含めて全部で何店舗あるのか知らないが、1店舗10体としてもかなり量産せねばならない。そしてそれ専門の人を確保しているのはさすがに大きな商売をしている。最後に書いておくと、本展のチケットは見開きになっていて、内部はスタンプを4個押すようになっている。これは4つの場所を訪れて全部のスタンプを揃えると記念品がもらえる仕組みで、筆者は当日中に3個を揃えたかったが、本展と5階の呉服売り場を回っただけに終わった。スタンプは竹内栖鳳の「アレ夕立に」の絵と同じ姿、そして天使の格好をした「ローズちゃん」だ。3個目は三条烏丸の「千總」ビルの2階で開催中であった「岸竹堂と今尾景年―明治の千總と京都画壇―」を見なければならない。そこまで歩くにはもう遅い時間帯であったが、後日出かけ直すこともしなかった。千總ビルの前はよく通りがかるのに、その内部には入ったことがない。そのためにも行きたかったが、竹堂と景年の絵はだいたいわかっている。4個目のスタンプは大阪の高島屋史料館にあった。そこでは「京都ゆかりの美術家たち」展が開催されていた。この館は昔訪れたことがあるが、よく入場無料で美術展を開催している。少々行きにくい場所にあって、難波に出ても足が向かない。そうそう、本展の第4章は「明日との出会い―高島屋の文化活動」で、これは椅子を並べて対談の映像を見せるコーナーであった。誰も入っておらず、人気がなかったのかもしれない。対談はセゾン文化財団の辻井喬と高島屋の会長で、百貨店が担うべき文化とはどういうものかを話したのであろう。これはだいたい想像出来る。ちょうど6000字ほどになったが、饒舌の癖が治らない。