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●『チベット仏教の世界 もうひとつの大谷探検隊』
が3つあるというチベットはモンゴル、中国、インドに挟まれた高原で、何となくそれらの国のひとつの州という雰囲気があるのは独立国ではないからだが、「チベット」という名称は「中国」には馴染まない。



●『チベット仏教の世界 もうひとつの大谷探検隊』_d0053294_1321657.jpg中国はチベットを独立させればいいと思うが、一旦手中にした領土は手放せないものだ。先ほどのネット・コラムに沖縄の知事が独立を主張する人物が立候補するとあって、その書き手は沖縄の独立は不可能と結論づけていた。それはいかにも本土の人間の意見で、中国がチベットを確保して手放さないことを思い出させた。また、現在のダライ・ラマ14世はインドに亡命政府を打ち立ててチベットに帰ることが出来ないまま、ノーベル平和賞を受賞したことも誰でも知るが、今日取り上げる展覧会は政治問題を抜きにして大谷探検隊とチベットとの関係を紹介し、筆者はとても興味深く見た。1980年代に大きなチベット仏教展が開催された後も同様の展覧会は何度かあって、筆者は図録を3冊は持っている。そのため、本展のポスターを見た後、またかという思いがしたが、久しぶりでもあったので見に行くことにした。龍谷ミュージアムには4,5回訪れているが、本展が最もよかった。それは展示がよいというのではなく、初めて知ることがあったためだ。チラシの裏面に書かれるように、本展は西本願寺派の第22代法主の大谷光瑞がヨーロッパに遅れと取ってはならじと自ら赴いた大谷探検隊と関係がある。光瑞は大谷探検隊を組織し、また派遣するために若冲の絵画を含む寺宝を競売にかけて費用の一部を捻出したが、当時かなり非難され、失脚してしまうが、今となってはこうした展覧会を開催することが出来、一種無茶をやることの重要さを光瑞は示したと言ってよい。光瑞はロンドンに留学中にヨーロッパが仏教遺跡の探検を始めてたことを知り愕然としたが、それは想像にあまりある。キリスト教圏の国に先を越されてどっさりと発掘品その他を持って帰られると、仏教を信仰する日本としては立つ瀬がない。このあたりの考えは植民地獲得競争と似ていて、早い者勝ちであった。大谷探検隊は何度か実施されたが、毎回光瑞が中心になって出かけたのではない。本展の副題「もうひとつの大谷探検隊」は大谷探検隊がチベットを訪れて発掘したように受け留められかねないが、光瑞がチベット仏教の現在を知るためにふたりを派遣したことを指す。それも広い意味での探検だ。だがふたりは短期間をチベットで過ごしたのではない。ひとりは秋田の寺の子として生まれた多田等観(ただとうかん)で、よほど頭脳明晰で目立ったのだろう、京都に出て光瑞に認められる。明治末期の頃で、ダライ・ラマ13世は日本に留学生を派遣していて、その通訳として光瑞は多田を任命し、多田はチベット語を読み書き出来るようになった。留学生をチベットに送って行くことになった多田はインドからラサに入り、チベット僧として10年ほど過ごす。その間に経典その他多くの資料を集めて日本に持って帰ったが、13世からかわいがられ、13世の死後、今回の展示のメインとなった『釈尊絵伝』25幅が多田に送られて来た。もうひとりは滋賀の高島出身の青木文教で、多田と違って修行生活を送らず、もっぱらカメラマンとしてラサのさまざまな写真を撮り、また鳥瞰図を描くなどして資料集めに4年ほどを過ごした。青木と多田は情報をラサで会わなかったようで、ふたりは自分の役割を認識し、それを徹底した。本展はこのふたりがもたらした文物の紹介で、それを通じて人物像もわかる仕組みだ。もっともそれはふたりの写真が物語る部分が大きい。
 それにしてもさすがの明治人というか、未踏の地のチベットに入り込んでただ過ごすのではなく、しっかり学び、また調べ、成果を日本にもたらすという使命に燃えていた。僧の修行をしなかった青木の方が物見遊山的な生活であったと言えるだろうが、それでも知り合いのない街で4年過ごすのは大変だ。ふたりとも20歳そこそこの若さであったから可能であったという意見があるが、当時は今のように平均寿命が長くなかった。多田は10年以上にわたる僧としての生活を続ける中で帰国後にどういう夢を描いていたのだろう。運が悪ければ修行半ばで死んでしまうことも充分あり得た。だがそんな不運に遭うことはなく、人生の前半でチベット体験を済まし、後半はチベット仏教の経典の研究に勤しみ、勲三等の勲章をもらうまでになった。青木はどうかと思って別のコーナーにあった年譜パネルを確認すると、勲章はもらっていない。やはり10年以上の修行生活をしたこととその半分ほどのカメラマンとしての滞在の差かと思わせられた。若い頃の苦労は買ってでもしておけということは本当ということだ。それはともかく、ふたりがチベットで得た成果のもとをたどれば大谷光瑞の大谷探検隊がきっかけであるし、それは光瑞がロンドンに留学したことがまたきっかけになっているから、洋行はすべきということになる。ただし、それも明治や大正までのことだ。男が一生を賭けるにふさわしい大仕事というものが明治や大正にはまだ多かったのではないか。今でも探検という言葉はあるが、探検すべき場所がもう残っていないも同然で、それを目指すのであれば地球の外に出なければならなくなっている。明治時代のチベット行きは今の月世界旅行とさして変わらないほどの難行であったと思うが、多田を駆り立てたのは仏教への信仰心だろう。チベット仏教はインド仏教の影響を受けている。それは「タンカ」と呼ばれる仏画を見てもわかる。本展を見ながら筆者はジョージ・ハリスンの「ダーク・ホース」というレコード会社のロゴ・マークを思い出していた。それは黒い馬ではあるが、頭と脚をたくさん具えたようにデザインされている。その様子から千手観音を連想するのは正しい。本展にも千手観音像は展示されたが、顔は十一面になっていた。「タンカ」には同じように多面多臂、そして多足の像がよく描かれる。それらの名前はいかにもインド風で、書き留めないことにはとても覚えられないが、とにかくチベットの仏教がインドから影響を受け、今なおその形を留めている。ジョージの「ダーク・ホース」レーベルは、仏教というよりヒンズー教の神像にヒントを得たものだが、インドでは仏教が廃れてヒンズー教が広まるが、仏教に全身を黒くした多面多臂の憤怒の像が登場するのはヒンズー教の影響で、そうした像を盛んに登場させる密教が日本に伝わって、多面多臂の仏像や仏画が製作される。つまり、インドでは残っていない古い仏教の形がチベットにはあって、大谷光瑞はそれを調査しようとしたが、そのことで西本願寺がより栄えるということを考えたかと言えば、そんなケチな考えは持たなかったのではあるまいか。国が違えば風土も歴史が違って、同じ仏教でも変化が見られる。根本の教えが同じであればよいが、その根本が何かと言えば、これまた国が違えば考えが違うだろう。チベットは大乗仏教で日本と共通するが、僧の妻帯がどうなのかと言えば、チベットではそれが許される。ではダライ・ラマには妻がいるのかと言えば紹介されている姿を見たことがない。ダライ・ラマは自分の子に次代を継がせるのではないから、別格の僧として結婚しないことが前提になっているのではないか。多田や青木がチベットから帰国した後に結婚したのはいかにも浄土真宗で、チベット仏教と真宗は馴染みやすい部分があるのだろう。
 チベットの仏画や仏像は独特の形をしていて、そのためにインテリアには向く。インド雑貨店で売られるような小さな仏像の中にはチベット色の濃いものも混じっているので、チベット仏教は身近でまたどことなく安っぽさを感じるが、本展で並べられたのはさすがの貫禄があり、チラシ裏面に写真が載っている多面多臂の乾漆造「十一面大悲観世音菩薩立像」は等身大で、どことなく日本の仏像に似た優しさに溢れ、チベット仏教らしい妖艶さも持ち合わせていた。14世紀の作というから驚くが、そのように古い仏像がなぜ日本にあるのか、また「北村コレクション」という個人が入手し得たのだろうか。「北村コレクション」のキャプションのついた展示物はかなり目についた。多田・青木が持ち帰ったものが日本ではチベット仏教の文物の最初かと思うが、「北村コレクション」は両人のどちらかがかつて所有していたものだろうか。そうでないとすれば、チベットから流出したものを競売その他の方法で買い集めたのだろうが、本展ではそこまでの説明はなかった。多田・青木の業績を伝えるのが主眼で、チベット仏教の歴史やまた特徴は最小限の説明に留めていた。それでも今までの展示にはないチベット仏教への新たな関心を呼び起こすのに充分だ。また今はネットで簡単に興味を抱いたことは調べられるから、本展の目指すところは何よりも実物に間近に接することの重要さだ。展示目録をもらって来るのを忘れたので作品名を書くことが出来ないが、材木が手に入りにくいチベットでは真鍮を打ち出したものをつなぎ合わせて整形した仏像が多く、その造りが表面の文様を含めてとても精細で、また全体的には図太い貫禄を漂わせていた。また、頭髪そのほか部分的に色合いを変えている点は見事な色彩感覚で、そういう造形は「タンカ」や「砂マンダラ」に通じているが、緻密で完璧な様子はつまるところ信仰心のなせる技だろう。今回は『釈尊絵伝』25幅は2階の中央に特別の空間を設けての展示で、1点ずつどういう場面を描くのかが写真パネルで区画分割して説明されていたが、あまりの緻密さに最初に2,3点を見ただけで残りはどれも同じに見える。その製作時間は日本の現代の感覚には全くそぐわないもので、1枚を描き上げるのに数年要するのではないかと思わせられるほどだ。それはほとんど描くためだけにこの世に生まれて来たも同然の人の手になるが、そこに多田や青木の姿を重ねたくなる。彼らは一生チベットにいたのではないが、帰国後はチベットでの経験を活かした。その一生一本の筋が通っていることが尊い。今の日本ではそのような生涯を送る人は稀ではないか。収入の多寡を考え、金に振り回されながら職業を変える。また大金があればあったで遊び暮らすだけで、あっちこっちうろうろするだけの人生だ。限られた人生であるから、楽しそうなことは何でも経験しておきたいというのは人情だが、その欲が昂じると、心が本当に満たされることがない。そこで『釈尊絵伝』を改めて思うと、ほとんどそれを描くためだけの人生であったかもしれない絵師ないし僧は、自分を不幸であるとは考えなかったはずだ。じっくりと心を平安にしたまま描き進んだことがどの部分からも伝わって来る。今での同様の「タンカ」が描き続けられているチベットでは仏教は生きているということだ。あるいは日本でも「この道に生涯を捧げる」という覚悟で邁進出来る人は幸福で、またそういう人はいなくなることはない。
by uuuzen | 2014-05-20 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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