鋼鉄で出来た豆本を武井武雄は作らなかったと思うが、筆者が知らないだけで、あるのかもしれない。武井は「刊本」と称して会員向けに限定して豆本を頒布した。全部で140点弱と思うが今回の展覧会ではその大半が並べられた。

豆本とはいえ、はがき大ほどで、また毎回趣向を凝らして髪や印刷の方法、造本、装丁を中身に合わせて変えた。凝り過ぎたものは価格が高くなるのは当然だが、会場には「実費」と書いてあったので、武井の儲けはあまりなかったのだろう。武井武雄の名前は昔からそれなりに知っていたが、前に書いたことがあるように、筆者は子どもの頃に子ども向きの絵本類を買ってもらったことがなく、武井の絵に親しむ機会がなかった。『コドモノクニ』や『キンダーブック』は近所の子どもの家で手に取ったことはあるものの、高そうなその色刷りの表紙に自分には無縁と思った。そしてその頃筆者が馴染んだのは毎月8のつく日の夜に開かれる近所の商店街の夜店で漁る漫画だ。今もよく覚えているが、ゴザに古本を並べた店主に向かって左端に置かれたリンゴの木の箱に入った漫画本で、それは古い月刊誌の付録であった。3冊程度で10円だったと思うが、母はそれをよく買ってくれた。筆者が小学1,2年生の頃だ。その付録の漫画本が200冊から300冊は集めたが、それが筆者の収集の原点になっている。切手や展覧会図録、レコードやCD、伏見人形、今は絵画など、集めるものの対象は変わって来たが、何かを集める癖は治らない。それでも収集家と呼べるほどに重いは徹底せず、そのうち好きな対象を変える。それはともかく、古い付録の漫画本は本体の月刊誌より消耗品と見られていたから、今ではとても高価になっている。それどころかもはや存在しないものもあるのではないか。また質の悪い紙を使っていたので、半世紀以上も経て今は劣化が激しいだろう。それらは有名な漫画家のものに限り、後に単行本となったと思うが、大多数は付録本の形で消えて行った。当時そういう本を読む子はだいたいが貧しい下町暮らしで、少し上品で母親が教育に関心があれば『コドモノクニ』や『キンダーブック』を買い与えたのではないか。筆者の母親は子ども3人を抱え、とても教育に気を配る余裕はなく、放ったらかしであった。筆者がいい成績を取っても無関心で、むしろ近所の大人たちが学校で目だった成績を取る筆者を眩しく見つめていた。そして自分の子に対し、いい成績を取ると何か買ってやろうと餌をぶら下げるのであったが、そういう家庭の子がいい成績を取ったためしはない。それをわかっているので親たちは褒美で釣ろうとしたのだろう。話を戻して、『コドモノクニ』や『キンダーブック』に関心を示さないどころか、そういった高尚な子ども向きの本を筆者は避けた。自分の家では絶対に買えないという理由のせいで、子どもの情操教育にはお金がかかるのだという現実を感じ、大人社会のいやらしさを思った。そのことは筆者が今も塾が嫌いであることにつながっている。筆者は塾とは全く無縁の人生を送って来たが、息子にも一切通わせなかった。塾が嫌いということは塾の先生もそうだということだが、学校の先生は今も尊敬している。だが、塾産業はますます盛況で、先日は面白いニュースがあった。大阪北部の有名なふたつの塾が北野高校を受かった人数を毎年告知しているが、双方の数字を合わせると、それらの塾に通わずに合格した人数が数名ということになった。それはどう考えてもおかしく、どちらかの塾がかなり人数を水増ししていることを意味し、片方の塾がもう片方を訴えた。訴えられた方は受けて立つと言っているが、これも醜い大人社会の典型で、教育を金儲けの道具にしている。そしてそのような塾に通って有名高校から一流大学を出た連中がさらに醜い社会を作って行く。塾に多額の金をかけたのであるから、将来何倍もの金銭の見返りがあって当然と親たちも子どもたちも思っている。
話を戻す。武井武雄を意識したのはここ10年ほどだ。郷土玩具ないし伏見人形に関心を抱いたからだ。武井は郷土玩具に関する本を何冊も出している。中にはとても高価なものもあって、上下で数万円もする。今回京都高島屋で展覧会が開かれることを知り、心待ちにした。先週家内と見て、よほど図録を買おうかと思いながら、家に足の踏み場がないほどに本が山積みになっていることを思い出してやめた。そう言いながら今日また4冊届いた。図録は武井の全貌が手短にわかるもので、武井ファンには必携ものだ。筆者は本展を見て武井のファンになったかと言えば、今流行りの言葉を使えば「微妙」だ。武井は大正14年だったか、個展を開いた時に「童画」という言葉を冠した。それが日本で「童画」という言葉が用いられた最初とのことだ。展覧会を訪れた人がてっきり子どもが描いた絵かと思うとそうではないので武井に食ってかかったらしい。すると武井は「童謡」は大人が子どものために作るもので、「童画」も同じであると返し、相手は納得したと言う。ともかく、「童画」という新たな言葉を作り出しただけでも大したものだ。その後の武井の運命が定まったも同然で、この言葉から連想される仕事を生涯し続けた。1894年生まれで1983年に亡くなっているので、長命であった。それに死ぬ寸前まで仕事をし続けたので、多作だ。だが、会場の作品を見て思ったのは50歳くらいで画風が定まり、それ以降はどちらかと言えば時代遅れを感じさせる仕事に思えた。これは仕方がない。どのような作家もそうだ。長生きしても最も脂の乗り切った頃というものがある。それ以降はまた別の油の乗り切った人が目立つ仕事をする。武井はそのことを知っていたであろう。だが、研究意欲は並外れて大きく、自己表現に飽きることがなかったかのような多作ぶりで、今で言うグラフィック・デザイナーであるものの、画風や作風の固定化にあまり関心がなかったかのようで、むしろ一見して武井とわかる絵を描くことを拒否したようなところがある。その点が名前を売ることに関しては損をしているが、武井はそのことにも頓着しなかったのではないか。子どもに自分の強烈な個性を押しつけるのではなく、子どもが自由に想像を羽ばたかせることの方が大切と思ったと言えばよいだろう。それは別の言葉で言えばどんな画風でもこなす職人で、よき仕事の前提として職人の技術が欠かせないと考えていた。武井のような世代の表現者はだいたいみなそうではないだろうか。だが武井独特の表現がないわけではなく、たとえば樹木の葉のまとまりは独特の様式化が見られ、それは他のどの画家にもないものだ。人物や乗り物などにも様式化は見られるが、武井とわかるほどのものはない。いくつかの表現方法すなわち様式を持っていて、いつでもそれらを引き出せる、また組み合わせる用意があった。それをどこから学んだかだが、郷土玩具の収集が大きいのではないか。
今回写真が数点展示され、そのうちの1枚は自宅に郷土玩具をたくさん並べている様子を捉えたものであった。日本各地から1万点ほど集めたが、戦争で全部焼けてしまった。その後は収集にこだわらず、また自宅のインテリアにこだわることもなくなったとあった。インテリアにこだわったというのは、たとえば郷土玩具を自分の好みで配置して飾ったことだ。「飾る」という意識が強かったのだが、そのことは絵本の仕事にもそのまま表れている。郷土玩具は各地によって形や色が違う。それで味わいが違うが、郷土玩具ならではの共通した雰囲気はある。武井が興味を持ったのはそこだろう。自分の仕事もそのようにありたいと思ったのではないか。そのため、これが最も得意といった特定の様式を完成させず、無限に引き出しがあるかのように自在に絵の題材の様式を変化し得た。これは大変なことで、様式を絶えずぶち壊して先に進もうとしても、以前と似た何かが出て来る。武井もそうであったが、救われたのは表現の道具を変えたからでもあろう。ペンを使うかと思えばクレヨンで描き、また水彩絵具で彩色すれば木版画を用いるなど、同じ人物の作とは思えないように工夫を凝らし続けた。それでもなお、個性が露わになって行くのは避け難い。前述のように50代以降は画風が固定化し、古き時代を感じさせるものとなった。郷土玩具の収集と分析によって自己の画風を確立して行った面が大きいとすれば、その郷土玩具が新しいものを生み出せなくなった時には武井の仕事も限界があったことになる。だが、郷土玩具は武井にとって表現材料のすべてでなかったのはあたりまえで、たとえば恩地孝四郎に誘われて創作版画を手がけ、一時は恩地張りの作品を作るから、表現の手のうちの充実には余念がなかった。クレーやピカソの影響を思わせる絵もあり、関心のあるものすべてに学んで描き続けた。その態度も郷土玩具の収集と同じく、「収集」の思いによるだろう。これは戦前だったろうか、武井は郷土の菓子に関心を持ち、遠方のものは郵送で買った。食べる前にまず紙に描き、包装紙を貼りつけ、問い合わせた製造法を記しもした。そのような質問項目を書いたはがきを送ったそうで、製法を明かしてもらえないものも当然あった。武井は甘党であったのだろうが、それよりも全国の和菓子の形地や色の美しさに収集心が働いたのだ。菓子も造形であり、とにかく美しい造形に関心があった。
そうした思いが何から何まで自分で考えた本に行き着くのは必然ではないか。最初に書いたように武井は豆本を300部程度、会員を募って頒布することを始める。それがまた徹底して凝ったもので、たとえばパピルスの種子を蒔いてパピルスを育て、それから得たパピルス紙にエジプト風のイラストを交えたパピルスの物語を描いた本があった。一番高価についたのは、名前は忘れたが自分の絵を特殊なカラー印刷で刷った後、細く切り裂いて緯糸とし、それに経糸を通して西陣の職工に織らせ、それを束ねて本としたものだ。4人が半年がかりで織ったそうだが、そこまですれば1冊いくらで売ったのか気になるが、どれほど高価になっても予約者はいつもいっぱいで、その空を待つ人、さらにその空を待つ人もいたという。そうして武井の「刊本」を心待ちにした人はみな本好きと武井のファンであったはずで、武井は幸福な人生を送った。300部は限定本としては多い方と思うが、ネットの『日本の古本屋』で調べると、武井の「刊本」は1冊8000円ほどで買えるものがある。全巻を所有する人がいるのかどうか知らないが、入手しにくい巻もあって全巻では数百万はするだろう。自分の本をたくさん世に出す行為は『コドモノクニ』や『キンダーブック』の仕事からすれば自然な流れで、300部の大半は消えてなくなっても1冊でも残れば自分の仕事が後世の人にわかるという思いがあったのではないか。つまり、本という形で自分を残しておきたかった。それは郷土玩具に関する本を出したことからも言える。武井は郷土玩具の収集の一方で独自の玩具を作ったが、その数は多くはなかったろう。量産して頒布するものではなく、こういうものも作れますということを示したかったのではないか。それは、郷土玩具はおおむね無名もしくはしいて作家名を主張しないものだが、武井の「刊本」は多様な才能を持っていることを示そうとするものであることからもわかる。だが、「刊本」をたくさん見ると、それらは郷土玩具の集まりにどこか似て、武井の名前が奥に隠れ、自体が美しい豆本の集合に思える。郷土玩具を単なる職人の手仕事と言えば武井は怒るかもしれない。そこには学歴で乗り越えられない美がある。現在で言えば東京芸大を卒業した武井は職人に徹するには学があり過ぎたし、知識欲が旺盛であった。それで郷土玩具の侵しようのない風格に魅せられながら、それに比肩する造形力、また郷土玩具にはない知的な仕事を目指した。その結果、郷土ではなく日本のと言うにふさわしい仕事をした。それは芹沢銈介のように民藝の持ち味に染まったものではなく、西洋に多くの眼を配ったもので、そのことは『キンダーブック』という題名からもわかるだろう。近年ドイツのTASCHENから出たアンデルセンの絵本を紹介する画集に、日本では唯一武井が選ばれたことが本展で紹介された。その絵は武井が戦前に描いたものと思うが、ドイツ人が見ても驚嘆するほどの出来で、それほど武井の西洋を見つめた絵は普遍性があったということだ。その一方で日本の昔話にも関心はあって、それらの登場人物をたくさん乗せた汽車の絵は本展では最も印象に残った。その遊び心、自在な組合せと創造力は他の絵本作家には真似が出来ないだろう。
武井はトランプや犬棒かるたにも関心を持ち、いくつかデザインし、また自分でも作っている。この和洋双方に強いところが武井の特徴で、それには膨大な資料が必要であったことを想像させる。おそらく郷土玩具を1万点集めたことのように、入手出来る絵入りの本を片っ端から買い集めたのだろう。それが「刊本」の仕事につながると同時に、その参考資料にもなったはずだ。金属の板を表紙に貼りつけた戦前の小説を武井は知らなかったはずがないので、最初に書いたように金属製の「刊本」を考えたであろう。それが実現したのかどうか知らないが、今なら可能だろう。今回の展示で筆者が最もほしくなったのは銅版画の絵本『地上の祭』だ。これは1938年に出ている。部数は100であったか。贅の限りを尽くした本で、銅版画を刷った紙は透かし入りの特注であった。本の厚さは2センチに満たないほどで、版画は10点ほどであったと思う。この銅版画が武井の個性の集大成と言ってよく、また武井の芸術の基本が線であることがわかる。武井はカラリストでもあるが、線の見事さの方が印象に強い。だが銅版画だけに集中せず、それはあくまでも数多い表現法のひとつであった。「刊本」の実物が100ほど展示されたのはいいが、中身がほとんど示されず、どのような絵や文字かはわからなかった。そこで思ったのは、武井が水墨画の技法を用いて「刊本」を作ったかどうかだ。筆者の予想ではそれはなかったはずで、日本の筆で一気に描くということを武井は好まなかったように思う。筆よりペンや鉛筆で、また水彩画の場合はあくまでも輪郭をしっかりと描き、その内部をていねいに色で埋めることをした。ただし、背景は水墨で言うたらし込みを用いていて、線表現にこだわらない自在さがある。

武井の絵のことばかり書いたが、絵本であるからには文章も欠かせない。「刊本」もそうで、絵と同じほどに文章も重要であった。武井は宮沢賢治の童話に挿絵を描いたが、宮沢に武井の文章の手本のひとつがあるだろう。それに、「武井武雄」という、まるで冗談かと思う名前からして、武井が言葉遊びに熱心であったことが想像出来る。実際そのとおりで、武井の造語がいくつも紹介されていた。その最も早いものは「ラムラム王」こと「ROI RAM RAM」で、頭文字のRRRを作品のどこかに忍ばせてサイン代わりにした。また夢見がちな少年でひとりで遊ぶことが多かったらしく、自分で作り上げた特定の人物を初期にはよく登場させた。塾など通わさず、子どもは出来るだけぼんやりと過ごさせる方がいいことの見本が武井だろう。70年代初頭の絵に、数人の子どもたちがひとりの大人に対して怒っている様子を描いたものがあった。大人は環境を破壊し、それに子どもたちは抗議しているのだが、その作から武井の良心がよく伝わる。反戦を唱えたりしたかどうか知らないが、子どもの側に立って物事を見、子どもに夢を与えることを本分とした。その代表作と言ってよいものが会場の最後に写真と拓本で展示された。武井は長野県岡谷の出身で、その地の小学校に設置された記念碑の銘文だ。その記念碑の台座は六面体で、各面に横長の金属のプレートが嵌め込んである。横長の長方形だが、正確に言えば透視遠近法を採用した台形で、小さな画面を少しでも遠近を感じさせるようにしてある。六枚全部に子どもを描き、また短い言葉が書かれている。その言葉は六枚でひとつの文章になっていて、子どもの将来は夢多きもので、希望の灯を絶やすなと言っている。「童画」の名を生んだ人物にふさわしい言葉で、感動した。会場には自由に写真を撮ってよいコーナー「おもちゃ箱」があった。そこに立って家内に撮影してもらってもよかったが、絵を全部見せる方がよいと判断し、客が途切れるのをしばし待った。上右に満月が見えているのがいい。