叩きつけられた場所が柔らかい泥の中であれば割れなかったかもしれないが、石畳では全く無理だ。昨夜満月の写真を載せたこともあって、今月3日に東洋陶磁美術館で見た「満月壺」を思い出した。
この壺はもう何度も見ているが、当日は家内と改めて感心しながら眺め、割れた跡を補修した箇所を初めて確認した。志賀直哉はこの満月のように胴体が丸くて大きな李朝の白磁壺を大切にした。それを東大寺の管長に譲ったのはいつか知らないが、今調べると管長は志賀より4年遅れて1975年に亡くなっているので、志賀が亡くなる直前もしくは数年前ではないだろうか。これは間違いかもしれないが、志賀はこの壺を傍らに置いて中に金平糖を入れ、少しずつ取り出して食べていたと思う。そして自分が死んだ後、骨壺に使うのも面白いと考えたのではなかったか。そのような文章を読んだことがある。その文章から想像したのは高さ20センチほどの小さな壺であった。ところがこの満月壺はその3倍の高さがあるのではないだろうか。それを東大寺は塔頭に飾っていたが、管長が亡くなって20年後に泥棒が塔頭から奪おうとした。胸に抱くとしてもかなり大きな壺で大変だったと思う。追い詰められた泥棒は壺を素直に差し出せばいいものを、石畳に叩きつけた。泥棒は換金目当てで、この壺を一生そばに置いておきたくはなかったはずだ。だが、有名な壺であるから換金は難しかったろう。壺で言えば先日古美術商が殺されたが、先ほどのニュースでは殺した男は60代前半の陶芸家で壺を美術商に売ったはいいが、その壺が高値で転売されたことに逆上し、100万円を請求しようと思ったという。美術商は転売で生活している。安く買って高く売る者が誉められる世界だ。それをけしからんと思った陶芸家がどんな作品を作っていたかは見るまでもない。それはともかく、志賀の満月壺は粉々になった。だが、この「粉々」は説明が必要だ。全部粉々になればもう復元は不可能だ。粉になったのはほんの少しで、大部分は破片になった。それがいくつほどかと言えば、この満月壺のそばに小さなパネルが立てかけてあって、そこに破片をきれいに並べた写真が含まれている。ざっと30から40ほどだと思う。その破片とは別に砂糖か塩のように見える粉が一か所にまとめられている。塔頭の住職は粉まで全部きれいに拾い上げ、破片とともに東洋当時美術館に寄贈した。同館は早速修復を手がけ、半年後に元の姿を取り戻した。誰がどういう方法で修復したかは当時の新聞や雑誌に報告されたであろう。破片をつなぎ合わせるのは発掘品では普通に行なわれるので、そういう分野の人に依頼したのだろう。じっくり腰を据えれば手先の器用な人ならたいていはつなぎ合わせられると思うが、「粉々」をどこにどう使うかは難しい。復元された壺はぱっと見しても全くつなぎ跡は見えず、かつて「粉々」になったとは到底思えない。だが前述のように今回は初めてほんのわずかだが、幅2センチほど、高さ0.3ミリ程度だろうか、破片をつないだ箇所が盛り上がった線状として確認出来た。艶はほぼ同じなので、樹脂系の接着剤でつないだ箇所の上部を幅2センチほどの線状に補強したのだろう。だが、それがわかったのはわずかで、ガラス越しに鑑賞するのであれば全く問題はない。また同館に今後も保管され続けるのであればほとんど移動はないから、同じような目に遭うことはない。ようやく安泰の地を得たということだ。
この満月壺の修復で思うことは、日本がいかに李朝の美術を愛好しているかだ。もっとも、高麗時代の絵画なども日本のもたらされて大切にされ続け、日本の文化に大きな影響を与えて来た。そういうことが今の若者にはあまり伝わっていないのではないか。京都の高麗美術館が先年の寅年に、絵画など虎に因む美術品を展示することにした。石峰寺には若冲が描いた虎の墨画があって、同館はそれを借りたいと打診したが、住職は貸さなかった。その話を住職から耳にした時、朝鮮美術は若冲と大いに関係があるし、せっかくの機会であるから貸せばどうかと意見した。ところが住職は同館の存在を知らなかったようで、朝鮮美術が若冲と何の関係があるのかと思ったようだ。それはさておき、満月壺を愛した志賀の思いは泥棒の愛情なき行為によって壊された形となったが、塔頭の住職の愛が修復家に伝わり、見事に元の姿を取り戻したことに筆者は感動する。これがたとえば、今の日韓関係の悪化を理由に、美術を理解しない人が介在すると、「そんなもの、棄ててしまえ」とでも言うかもしれない。政治家ならそうだろう。割れた陶磁器など何の意味もないと考え、代わりに日本の現代の陶芸家の作品でも買えばいいと薦める。東洋陶磁美術館には執念があったのだろう。破片になってしまいはしたが、その元の材料は粉まですべて手元にある。それを元どおりに出来ないはずがない。そう考えたことは正しかった。元の姿を取り戻したことだけに意味があるのではない。修復したという行為が価値に加わった。そのことを韓国の人たちは知るべきだ。先頃の大型船の転覆事故の後、日本のTV局が模型を作って転覆した原因を報じたことに対して韓国は非常に驚き、また感心したという。そのことと同じように、満月壺の復元はきめ細やかな日本人の精神を証明している。これは壺の価値がわかっていることのほかに、物を大切にするという心がまだまだ残っていることであり、また修復技術が世界のトップ・レベルであることも示しているだろう。朝鮮半島はいくつかの国に分かれた時代が長く、中国と同じように国が交代すると元の文化は残されなかった。そのことが日本に比べて古いものを大切にする思いが育まれにくかったと言えるだろう。そして李朝の優品の値打ちを知るのは日本がそれを認め、保存に努めたことがきっかけになってもいる。そのため、満月壺にしても日本に来なければ韓国ではどうなっていたかわからない。今でこそ韓国はその価値を知っているが、李朝末期、日韓併合期はとても美術どころではなく、また陶磁器を美術品とみなしていたかどうかは疑わしい。東洋陶磁美術館に並ぶ高麗や李朝の陶磁器は官窯と民窯が混じっているが、中国の陶磁器に比べると李朝は特に模様や作りが簡素ないし歪で、悪く言えばとてもいい加減なものに見える。実際いい加減に作ったのかもしれない。手抜きと言えば当たっていない。真面目に作ったのであろう。だが、生活が苦しかったのか、手間をかける余裕がなく、慣れた手つきで量産した。それは民藝品の特徴で、素朴な味わいが出た。頭を動かすより先に手が動いたのであって、そこにいやらしさが入り込まなかった。筆者はこの館が出来た当初から毎年数回ずつ通っているので、たぶんもう100回は所蔵品を見ている。ところが今回は改めて朝鮮の陶磁が面白いと思った。その理由は蓮の写真など、陶磁器に表現された蓮の文様を再確認させるための工夫があったからだ。もうとっくの昔に知っていると思うことでも、切り口が変わると新鮮に見える。そういうことがわかっての今日取り上げる展覧会で、どの美術館でも言えることだが、同じ所蔵品をどのようにして新しく見せ、新たな来場者を獲得するかを考えている。
写真展が増えたのはいつからであろうか。土門拳など、大家の写真展は70年代に入って多くなったが、80年代以降は写真ブームが到来し、それが今につながって若手の写真家、海外の有名写真家の展覧会が常にどこかで開催されていると言ってよい。本展は写真展ではなく、いつものように陶磁器を展示しながら写真も見せるものだ。もっと言えば陶磁器の魅力をよりわかりやすく伝えるために写真が利用されている。写真家の六田知弘の名前は今回初めて知ったが、会場には10冊前後か、写真集が並べられていた。それが多彩で、何でも撮る人のようだ。本展では蓮の写真だけを展示したが、チラシによれば何年も撮り続けているという。写真はカラーと白黒で、また陶磁器を展示したガラス・ケースの背後に主に飾られ、近年よく見かける薄手の印刷垂れ幕としても使われていた。写真のほかに大阪の自然博物館から借りて来た蓮の植物標本が2点ほど、それに大きな壺に蓮を活けてもいて、その様子はチラシやチケットにあるとおりだが、その写真も六田氏が撮影した。ただし、今よく見ると、李朝の「青花辰砂蓮花文壺」の上に赤い蓮の花は見えているが、両者はつながっていない。つまり、実際に活けて撮ったのではないようだ。だが、会場ではこの壺に蓮が活けてあったと記憶する。そう書きながら疑問に思うのは、蓮が咲くのはまだ早いことだ。とすれば造花か。今は本物そっくりの造花がある。また、壺に水を入れて本物の花を活けると、会期中に何度も花を取り変えねばならず、その際に水をこぼしたり、またうっかりして壺を倒すこともあり得る。本展の目玉はこの「青花辰砂蓮花文壺」に蓮が活けられていることで、同じように花を差し込んだ壺はほかになかった。それでなおさら「青花辰砂蓮花文壺」を注目したが、活けられている花との相性がとてもよく、また花には目が行かず、壺そのものがこれほど素晴らしいものであったかと認識を新たにした。この壺は胴体の中央に辰砂で蓮の花がひとつ描かれている。辰砂は赤であるから、赤い蓮を思って絵づけしたものだ。それと同じように赤い蓮の花を活けたかのようにチラシやチケットの写真は作られている。だが、壺に蓮の絵があるからには本物の蓮は必要ないではないか。壺の蓮が文様的な表現であればまだしも、この壺の蓮はかなり写実的だ。それは空間の取り方でなおそのように感じさせる。蓮の花はどちらかと言えば小さ目に描かれている。そのため、空間が広く感じられ、そのことが壺を大きく見せている。つまり、花の大きさはちょうどよい。そんな調和を保った壺に本物の蓮を活けることが許されるか。これが先の真っ白は満月壺ならまだよい。だが、「青花辰砂蓮花文壺」は完璧でありながら、風通しがよく、何をも受け入れる用意を持っている。そのため、蓮のみならず、何をどう活けても調和するように思わせる。これが中国のそれこそ完璧という言葉がふさわしい陶磁器では事情が少し違う。李朝の陶磁器の味わいは受け入れを拒まないのに、それ自体で充足しているところにある。本展が企画されたのは、朝鮮や中国の陶磁器に蓮を文様に使ったものが多いことを知らせるためでもあるだろう。蓮は仏教につながるほか、吉祥画題でもあって、東アジアの人々の生活に馴染んで来た。この東アジアに日本も当然含まれるが、蓮は水がなければ育たず、普通の庭では大きな鉢が必要だ。またその抹香臭さから中国や朝鮮ほどには愛好されていないのではないだろうか。蓮をかたどった菓子がお盆のお供え用としてスーパーで見かける以外、本物の蓮を1年の間に一度も見ないという人は多いのでないか。そう言えば天龍寺には蓮池がある。無料で見られる境内にそれがあるので、今年はその開花を見に行こう。