褒章は勲章より格が落ちるのだろうが、どちらも毎年数千人がもらえるもののようで、昔道頓堀の趣味の切手やコインを売る店でたくさん勲章が売られていたことに納得する。その店は今も同じ場所で営業しているのだろうか。

今月の3日に道頓堀を横切った時はあまりのたくさんの人に、そして以前は古びた工場跡のような煉瓦の壁であった建物がすっかり新しいビルに建て変わっていることに気づいたが、ちょうどその頃、家内が「わたしらみたいな年配者はひとりも歩いてないね」と言い、見回してみると実際そのとおりで、心斎橋、戎橋を歩くのは場違いな気がした。では筆者のような還暦過ぎの世代は休日はどこを歩くのかと言えば、郊外をハイキングするのではないだろうか。筆者はその趣味がなく、相変わらずあちこち展覧会巡りをしているが、最近はぜひとも見たいというものがない。歩くついでに見るといった方がいいくらいで、今日取り上げるのもそうだ。だが、せっかく見たので何か書いておこう。今滋賀の佐川美術館ではウルトラマンの展覧会をしている、あるいはもう終わったかもしれないが、方針を変えたのか、えらく毛並みの変わったものを取り上げる。たぶん連休中に親子で来てほしかったのだろう。その思惑がどれほど当たったか外れたか知らないが、普段は芸術を展示するところがたまには娯楽に傾いてもいい。また娯楽と芸術をはっきりと分けることが出来るかどうかだ。昨日のニュースで『ドラえもん』がアメリカで放送されることを知ったが、『鉄腕アトム』の時代からすれば格段に日本のアニメが世界中で歓迎される時代になった。手塚治虫は『白雪姫』など戦前から1950年代にかけてのディズニーのアニメ映画の影響を受け、アニメの世界に進出したが、当初の日本製アニメは秒当たりのコマ数が少なく、動きがぎこちなくてディズニーの比ではなかった。それを子ども心ながらに日本の国力のなさを自覚し、恥ずかしい思いがしたものだ。それから日本は世界に冠たる裕福な国へと発展し、アニメも精緻な動きのものが作られるようになったのは当然だ。つまり、何でも金次第ということだ。したがって『ドラえもん』がアメリカで放送されると聞いてもあまり驚かない。アメリカは昔のような圧倒的な経済力を誇らなくなり、創造性を減じて来ているのは疑いのないところだろう。次の時代は中国が世界一の経済大国になれば、アニメも日本に学びながらそれを超えるものを生み出すだろう。それはともかく、美術館が漫画家を取り上げて展覧会をする動きは20年ほど前から増えて来たと思う。その延長上に今日取り上げる円谷英二展を位置づけてよい。それに佐川美術館との連携はしていないと思うが、連休に親子でたくさん見に来てほしいという狙いはあったはずで、その目論見どおり、会場は幼ない子を連れた若い夫婦が目立ち、次にいかにもおたくといった風情の男性が多かった。前に書いたことがあるように、筆者は『ウルトラマン』には全く関心がなかった。東京オリンピックで「ウルトラC」という言葉がはやり、その「ウルトラ」を早速頂戴した安易な題名に思え、これまた恥ずかしかったが、そういう恥ずかしさを見て見ぬふりをし続けると、やがてそれは確固たるものになって行く。世の中とはそういうものであることを少年の筆者は知っていたが、恥ずかしがり屋の筆者はどうしても恥ずかしいと思うことを堂々とは出来ないたちで、また恥ずかしいと思う対象には近づかなかった。つまり、『ウルトラマン』は筆者にとっては恥ずかしい対象で、それはいかにもチープな作りということのほかに、もはやそのドラマを楽しがる年齢はとっくに過ぎてもいたためだ。だが、いかにも安っぽい仕上がりを笑いながら楽しむという手はある。それは嘲笑のみとは限らない。人間が低予算でやることはどうせそのようなことだとわかっていて、いわば同類を見るような哀愁味を覚える鑑賞の仕方だ。
それをしていたのがザッパだ。ザッパは日本の怪獣映画を楽しみ、「CHEEPNIS」と題する曲を書いて歌った。怪獣の着ぐるみの背中にチャックが見える安っぽさを映像で確認して笑っていたザッパの姿が想像出来るが、ザッパは手作りということに大いに興味のある人間で、うまく完璧に仕上げることに執念を燃やしながら、一方では予算との兼ね合いで望みの完璧性が劣ってしまうことに同情もした。つまり、金のかけ具合如何で安っぽさが滲み出てしまうことを知っていたが、金をかけるとしてもそれは際限がなく、結局は技術を磨くしかないとも思っていた。怪獣の背中にファスナーが見えてしまうのは撮影のミスで、それは本来ならば防ぐことが出来たことだが、低予算であれば撮影に要する日数は限られ、また撮り直しは利かない。いかに技術を磨いても安っぽさがどこかに露呈する。それと同じことはあらゆる仕事に見られ、ザッパの演奏においても同じであった。それでザッパのバンドは「CHEEPNIS」を完璧に演奏しはするが、それは大管弦楽団のように大がかりなものではなく、最初から安っぽさを認め、そのことを笑う。自分をそのように笑える態度は物作りする者を同類と見ることであって、それは大きく言えば人間はしょせんみな同じという人類への愛につながっている。ザッパが怪獣映画を好んだのはそういうところにある。それはいいとして、『ゴジラ』がアメリカに持ち込まれる以前にアメリカは『キング・コング』を生んでいて、特撮技術にかけては世界のトップを走っていた。それはやはり経済力であって、日本はそれを追いかける立場にあり、また次第に追い着いて行くが、その過程で特撮技術が進歩して行くのは当然で、その代表者が円谷であった。その円谷は『キング・コング』に衝撃を受け、それをつぶさに分析して特撮技術を磨いて行くが、同じことはあらゆる日本の文化にも同時に起こったと言ってよい。そして最初はメイド・イン・ジャパンを安っぽさの代表と侮っていたアメリカは気づけば日本の脅威にさらされることになる。確かに当初は安っぽかった。それはたとえば怪獣の背中のファスナーが見えることだ。ところがアメリカにはないさまざまな工夫が凝らされるようになり、何でもアメリカが一番とは言えなくなる。ディズニーの古いアニメは動きが滑らかで芸術的香りが強いが、それよりはるかに安価でそこそこ面白い量産アニメが日本からもたらされると、次第に子どもたちはそっちの方に目が向くようになって行った。同じ傾向は韓国ドラマが日本や中国で人気を得たことと似ている。そうなると、本場が流入ものを模倣するという逆転現象が起こる。自動車がいい例だ。デザインの個性が乏しい小型の日本車が燃費のよさもあってあっと言う間にアメリカを席巻した。『ドラえもん』がアメリカで放送されるのも同じようなことと思えばよい。昔の芸術的と言ってよいディズニーのアニメよりはるかに動きはぎこちないはずだが、すでにそういうアニメに、つまりぎりぎり合理的に作られたアニメにすっかり馴染んでしまったアメリカの子どもたちは違和感なく『ドラえもん』を楽しむだろう。それは安っぽさを最初からわかってのことで、恥ずかしいことをそう思わなくなったことと言える。つまり、人間的に優しくなって来たとも言える。また、安っぽいからこそ心から楽しめるのであって、またザッパを持ち出せば、ザッパもそのように考えて音楽をやっていたはずだ。
特撮はフィルムやカメラ、照明のことをよく知らねばならない。フィルムに写るものがすべてであって、どのような方法によろうが写し込んだものが面白ければそれでよい。これは音楽で言えばどのように録音するかだ。つまり、機械についてよく知らねばならない。このハード面に強いことについて円谷とザッパは共通するが、ザッパはソフト面にも同じように強かった、というより自分で作詞作曲して演奏したことに対し、円谷は脚本にしたがってある場面を特撮したのであって、その技術で才能を示し、映画全体として見れば部分、ひとつの歯車であった。そこが筆者には物足りない。だが円谷にソフト面がなかったとは言えない。その才能が開花したのが独立してプロダクションをかまえ、たとえば『ウルトラマン』を撮ったことだろう。そこには毎回怪獣が登場したが、それらのデザインは直接には円谷が携わっていないにしても最終的に許可をしたのは円谷であるから彼の名前とともに今後も記憶されるのではないか。また、円谷ならではの特撮技術と呼ぶべきものは撮影の技術のみではなく、怪獣が破壊する街並みの模型や背景画、それに怪獣の気ぐるみなど、全体としての効率のよいシステムを築いたことであろう。それは日本のアニメと似ているし、車産業にも通じている。各分野に専門家がいて、それらを統率する才能があるということで、それはザッパのバンドと同じと言える。ザッパが怪獣の着ぐるみに安っぽさを見出して笑ったことが円谷にすれば心外であったかと言えば、案外そうではなく、そうしたことも含めて娯楽映画と考えていたであろう。何しろ大勢の人に映画を見てもらうことが成功であり、それはザッパの音楽への態度と同じだ。喜ばせてナンボの精神で、怪獣の安っぽさが笑えるのであればそれも娯楽なのだ。また怪獣の背中のチャックが画面上で見えなくても、作り物であるからにはどこかにチープさは現われる。観客は映画を作り物として見る。怪獣が街を破壊しながら進むということ自体、完全な嘘であり作り事であるから、それをわかったうえでの本物らしさに感心する。その本物らしく見せることは優れた技術であり、それがあっても主に経済的な要因のために写ってはならない裏側の仕組みが露わになるが、技術につきもののそうしたことを含めてザッパは人間技を愛し、また円谷もそうであった。たとえば『キング・コング』では巨大なゴリラが掌に美女を包み込むが、それをどのようにリアルに映像化するとなると、予算のかけ具合の問題である一方でフィルム上のことであるから、撮影の工夫に負う点も大きい。つまり、予算はどのような場合にでも限りはあるから、大事なことは優れた技術やアイデアということになる。そこがザッパと円谷の共通点で、工夫のし具合が個性で、両人ともその努力を惜しまなかった。ところでザッパは『キング・コング』といった超有名なモンスター映画よりもB級、C級を好んだ。宇宙から飛来した謎の生物を扱ったようなSFホラーが好みで、純粋にそうした映画を楽しむことのほかに、そうした映画が量産された50年代アメリカの事情ということに次第に注目し、やがては政府批判というところに行き着く。その態度から『ゴジラ』を喜んで見たことが理解される。『ゴジラ』は映像は怪獣が街を破壊するストレス解消には持って来いのものだが、そういう怪獣が出現した原因は放射能であるという社会風刺的な前提があり、娯楽に風刺を重ねる態度をザッパは学んだ。そこが円谷はどうであったのだろう。『ゴジラ』を初め、脚本は円谷のものではない。円谷は求められる映像を特殊撮影で仕上げただけで、社会風刺、国家批判的な態度はなかったのではないか。『ウルトラマン』は今でも子どもが歓迎するものらしいが、そこに『ゴジラ』並みの風刺がどれほど盛られているのかは知らない。正義対悪の戦いであれば、それはアメリカ映画が60年代初めまでにさんざん描いて来たカウボーイ対インディアンの対立とさして変わらないのではないか。

だがそうとも言えないものがある。筆者は京都に出て来て一間のアパートに住み始めた時、親類の子どもから1枚の名刺サイズのカードをもらった。そこにはカラーでカネゴンが印刷されていた。『ウルトラマン』に興味はなかったが、カネゴンやバルタン星人の名前くらいは知っていた。そのカードをもらったのは、これから金を貯めようと思ったからでもあったが、ともかくカレンダーすらない部屋に何かピンで留めて飾っておくのもよいと考え、カネゴンのカードに遭遇した。その後何年も経って息子が出来て数歳になった頃、カネゴンをかたどった貯金箱を百貨店で見つけて買った。他にバルタン星人とウルトラマンがあったが、迷わずにカネゴンにした。それが2等身にデザインされ、カードの写真に漂っていた不気味さが消え、かわらしくなっている。1万円近かったと思うが、それが一時独立した息子の移住先にあったが、なかなか金は貯まらず、結局わが家に持って帰って来て今は1階の波動スピーカーの真横に置いている。いつの間にかその小型もどこかで入手し、親子カネゴンとなって並んでいる。それはさておき、カネゴンは確か金に執着のある青年がある日カネゴンになってしまったという話で、それが貯金箱になるのは理にかなっているが、貯金する一方では本物のカネゴンになりかねない。この怪獣の面白いところは、口がチャックで開閉することだ。ザッパが怪獣の背中に人が出入りするチャックを見つけてその安っぽさに笑ったことが、カネゴンでは最初から笑いを取るような怪獣としてデザインされている。口がチャックとは漫画そのものだが、チープさきわまりないことを逆手に取って個性としてしまう度量が円谷にあったということで、これもザッパと通じる。話を戻して、金に執着する子どもがカネゴンになるという設定は考えようによっては恐ろしく現実的で、社会風刺ということを知らない間に子どもは学習する。おそらく『ウルトラマン』にはそういう面が少なくないだろう。さて、本展は映像をたくさん見せてくれるかと思いきや、さほどでもなく、最大の展示は野球場の模型の中に等身大のウルトラマンと怪獣を置いたセットで、大人から子どもまで楽しめる展示にしてあるとはいえ、面積的には大人が楽しむ分は少ない。最初の方に何枚かのパネル説明があり、波瀾万丈と言ってよい人生が簡単に紹介された。円谷は福島県生まれで、子どもの頃に飛行機に興味を持ってパイロットになるために学ぶが、それが頓挫して映画界に入ってカメラマンになる。関東大震災後は京都に来て撮影し、特撮専門の道は戦前から歩み始める。『新しい土』という日独合作の山岳映画を、アーノルト・ファンク監督、レニ・リーフェンスタール主演の
『死の銀嶺』を見た時以来気にかけているが、円谷は来日したファンク監督と会い、特撮技術に関して誉められている。つまり、戦前にすでに円谷の技術は国際的な水準に達していたと言える。
後はその道をまっしぐらだが、戦時中は国からの要請にしたがって国威ものを撮り、戦後は公職を追放される。それを一気に挽回したのは『ゴジラ』で、筆者と同世代では『モスラ』が一番馴染んだであろう。その後も同様の怪獣映画が作られたが、筆者は『モスラ』以降はほとんど関心はなかった。だが『マタンゴ』という、今までの大怪獣が登場するものとは違う不気味な映画も円谷の特撮が使われていることを本展で知り、なるほどと思った。説明パネルに混じって真冬の京都で撮った2枚の写真があった。どちらも3人が並んで写っていて、1枚は知恩院の山門前で、今はない露店が写っていた。もう1枚はどこかわからないが、山道のようで、円山公園を上がって行く途中かもしれない。ともかく、戦後の一時期は京都で撮り、相変わらず特撮の場面を担当した。本展の会場には昭和の安酒場を再現したコーナーがあって、全体にチープな雰囲気に満ちていた。それはコンピュータ・グラフィックスの映像に馴れた目からすればいかにも泥臭いが、大型の模型や怪獣の着ぐるみにしろ、どれも手作り感があって円谷の生きた時代を表現していた。そういう歴史を知った上でコンピュータ時代を考えてみるのもよい。つまり、何を得て何を失ったかだ。現実と区別がつかないほどのリアルな映像が得られる時代になったのはいいが、いい意味での、つまり人間味溢れる安っぽさは消え、作品全体が嘘っぽくなった。これは想像力を奪うからだろう。どのように工夫したかその痕跡が見えず、また問えないからだ。その危機感があって手作り感溢れる「ゆるキャラ」ブームが続いているのかもしれない。本展の会場に数分の白黒映像を映すモニターが2,3あって、そのうちのひとつが何の映画か知らないが、ゴジラのような怪獣がトンネルやその際の小屋を尻尾で破壊する場面を流していた。その破壊場面は本物と思えるほどに迫力があり、改めて当時、おそらく60年代半ばの特撮技術に感心したが、それは撮影技術よりも模型作りの才能と、怪獣の中に入った人間の巧みな動きの賜物で、それらを統率した円谷はさすがの才能であったと言うべきだ。最初の説明パネルの下のガラス・ケースに勲四等瑞宝章の賞状が飾ってあった。それがどの程度の位なのかわからず、先ほど調べると、文化勲章より上らしい。円谷は文化勲章をもらった人たちより偉いと見なされた。『ウルトラマン』人気が今に続いていることを思えば当然か。また娯楽が芸術より上のようで面白い。