武烈王の墓は慶州になり、昔見たことがある。日が沈む少し前で、斜めになった陽射しが草の生えた墳墓を逆光の中にたたずませていた。慶州にあるから新羅の王であったことくらいはわかるが、それ以上に関心は湧かない。
だが韓国ではTVの時代劇でよく取り上げられるようで、韓国も日本と同じように歴史好きであるらしい。もっとも、このカテゴリーで何度も書くように、韓国は日本のTVドラマではまず取り上げない古代を扱うものが多い。日本も日本武尊を主人公にした映画があったから、古代史に関心がない国民ではないのだが、日本の古代となるとわからないことがまだまだ多く、また当時の朝鮮半島との関係が無視出来ないから、どのような物語にするかは国際問題ともなりかねないところがあって、二の足を踏むのだろう。それに時代考証や衣裳や建物の問題もある。そこまで時間と金を費やして面白いドラマが出来るかと言えばその保障はない。それでついつい江戸時代が時代劇が扱う代表的な時代となる。どの時代を扱おうと、たくさんの客に見てもらうことこそ一番で、無理して古代を扱う必要はないという製作者側の考えだ。面白ければよいというわけだ。韓国ではそこが少し違っていて、むしろ江戸時代に相当する李氏の王朝内部の問題を取り上げるドラマは少ないように思う。あるいはそれは筆者がまだあまり時代劇を見ていないからかもしれない。それはともかく、日本で言えば奈良時代に相当する朝鮮の歴史は日本では深く教えられない。外国の歴史であるという理由と、朝鮮半島よりも中国の方が重要という考えからだ。それに最近に日韓の政治における軋轢が一時の韓国ブームを急速に冷やしたと盛んにネットで喧伝され、それに同調する人は少なくないはずで、ブームなるものがいつか下火になるとしても、韓国についてはどこか恣意的な操作が働いているようにも感じる。政治がどうであれ、文化は文化として交流すればよいし、またそれは政治がぎくしゃくした時には却って求められるべきだ。坊主憎けりゃ袈裟まで憎しの諺があるが、今の日本の嫌韓の態度にはそれを思い出す。それはさておき、先日韓国では大型フェリーが沈没して大きな騒ぎになっているが、それを見ていると、国民の為政者に対する態度の激しさが日本とは比べものにならないくらい大きく強いことを思う。日本は江戸時代に徹底して庶民はお上にしたがうように教育され、それは今もほとんど変わらずに続いている。先日自治会の高齢者と話をした中でそのことが話題に上った。ちょんまげとキモノはなくなったが、自民党の政治に盲目的に服従している人たちが大半を占める様子を見ていると、人々の考えは江戸時代と全く同じだとその人は言った。中国人は日本に来て街がきれいで人々がやさしいと驚嘆したことをよくブログに書くようだが、それは江戸時代にお上に楯突くなと徹底して教育されたことが遺伝子レベルで刻印されているからかもしれない。それで日本では政治家が一番偉く、勲章の等級も彼らが決めるが、政治家がいわば武士ということなのだろう。だが、武士は何となく格好がいいように思われているが、筆者にはやくざとどこが違うのかよくわからない。武士の刀は人斬り包丁と言われたが、全くそのとおりで、あれで豚や牛を殺すことはない。人斬り包丁をいつもぶら提げて人を脅しているのはやくざとさして変わらないではないか。で、現代の武士が自民党の政治家ならば、彼らはみなやくざで首相は親分ということだ。さてそれと同じことが朝鮮の歴史で言えるのかどうかだが、武烈王は「武」が入っているから刀を持って人を殺すことを厭わなかったから、やはりやくざと変わらないと見ることは出来る。当時も家柄というものが幅を利かせ、武人の家に生まれれば武人になったであろうし、武人は刀で人を斬ることで将軍に出世し、大きな屋敷に住んだから、出世の道として人斬りは認められていたが、彼らは田畑を耕す大部分の人たちをどう思っていたかという疑問が湧く。刀で人を脅しながらいい暮らしをするというのはやくざな商売だ。もちろんその刀は敵に対して向けるもので、自分の領地の農民を殺すためのものではないが、それでも帯刀していることは威嚇になったはずだ。農民に生まれると、いくら頭がよくても農民から脱することが出来ないのは朝鮮も日本も同じで、そこで腕っぷしの強い農民が戦争時に駆り出され、農具で敵を殺して手柄を立て、武人の仲間入りをするということもあったろうが、そう考えると人間は野蛮なもので、王様はその代表で、決して誉められた存在ではないように思えて来る。
さて、今日取り上げるドラマは題名が『大王の夢』で、「大王」とは武烈王のことで、彼が描いた夢が物語化されている。それはこのドラマに毎回唱えられるが、「三韓統一」だ。そしてその大義は中国に国土を脅かされずに独立を守り、人々が食うに困らない国を建てることだ。それを武烈王がどのように成し遂げたかをわかっている歴史に沿って全70回で描く。正直に書くと、筆者はあまり熱が入らなかった。他のドラマで顔を知っている俳優がたくさん出て来るし、毎回見所を設けているのはわかるが、全70話は前半と後半でがらりと話が変わり、後半だけで充分という気がした。後半がすなわち三韓統一への直接的な動きを描き、7世紀の朝鮮半島の歴史がよくわかる。前半は以前見た『善徳女王』の焼き直しで、善徳女王やピダムを別の俳優が演じ、また『善徳女王』とはそうとう色合いも違うが、それは古い歴史であるのでどうにでも空想を交えることが出来るからで、『善徳女王』と本作を見ると、古い時代劇は史実に対する忠実さはほとんどどうでもよく、いかに現代人の琴線に触れるドラマを紡ぎ出せるかどうかが問題であることに気づく。それはあまりにもあたりまえのことで、であるからこそ、今後も武烈王を主人公とする映画やドラマが何度も作り直される。で、2012年に韓国で本作が放送されたのは、武烈王が思い描いた夢を改めて確認したい気分が韓国にあったからと考えることはある程度は許されるはずで、「三韓統一」というからには、やはり北朝鮮問題が相変わらず膠着状態にあり、政治家がそのことに対して何らかの解決策を見つけて南北統一問題がわずかでも先に進むことを国民が期待していると見てよい。あるいは国民の大半は北には無関心で、南の人間され豊かに暮らせれば言うことなしと考えているのが現実であるかもしれないが、そうであればなおのこと、北の脅威を時折り国民に目覚めさせる必要がある。そういう場合に最適なのは、かつては南北がひとつの国になっていた時代があることや、現在の中国の一部までも領土としていたことを国民に再確認させることだ。そう考えると、日本が建国時代のことを描く映画やTVドラマをほとんど製作しないのは、そんな古い時代のことを思い出す必要がないからと言える。今は世界に冠たる経済大国だ。そうであれば大国の中国に使者を派遣していたような時代のことをわざわざ思い出す必要はない。つまり、日本が日本武尊を主人公にした映画やTVドラマを盛んに作り始めると、それは右傾化がはなはだしく、また国力の衰えを強く自覚して来たからと言えるかもしれない。となると、今の韓国はまだまだ発展途上国であることを自覚していることになる。経済が豊かにはなったが、それは張りぼて的で、土台がしっかりしておらず、いつどういう事情で大打撃を受けるやわからない。そういう不安をおそらく国民全員がかすかに感じていて、それが時代劇ブームを作り出しているのかもしれない。また、これは以前に書いたが、時代劇は現代劇では言いにくいことをオブラートに包んだかのように主張することが出来るし、現代劇よりは自然を多く映し込む必要があり、その自然やまたセットにしても寺や王宮を見た人が韓国に関心を抱き、観光に訪れてくれるという思惑も働いているはずで、一石数鳥を狙っているのは言うまでもない。本作は200億ウォンの製作費というが、日本円で約20億円として、それが俳優の出演料とセットやロケ代にどのように配分されているのか気になるところで、また20億円が多いのか少ないのか筆者にはさっぱりわからない。金をかけていると思わせるのは、日本の時代劇で言えばチャンバラ場面だ。これが毎回必ずと言ってよいほど出て来る。また日本の武士と違って韓国の武人は最初から最後まで「動」で、曲芸さながらに体を駆使する。宙返りはあたりまえで、そうした場面はスタントが演じているはずで、そうなれば製作費が嵩むのもわかる。
筆者が本作をあまり面白くないと思ったのは、主役の武烈王ことキム・チュンチュを演じるチェ・スジョンが少し老け過ぎで、もうひとりの主役を演じるチュンチュの友人のキム・ユシンことキム・ユソクがチュンチュより背が高く、また恰幅もよいのはいいとしても、時代劇向きの顔ではないように終始思えたことだ。またチェ・スジョンは後半は回を重ねるごとに頬がこけて来て、ついには病死してしまうが、役作りのためにあえて痩せたのかどうか、そうであればさすがと言うべきだが、痛々しく見えた。それはユシンが老人になりはするものの、相変わらずふっくらといた顔つきで、いかにも対照的であったからで、ふたりはどちらも名優としても、どちらかは別人が演じた方がよかったように思う。それは筆者がチェ・スジョンと言えば何と言っても『初恋』を思い出し、またキム・ユソクは『がんばれクムスン!』でのスーツ姿が頭から離れないからでもある。つまり、どちらも時代劇には向かない気がするのだが、前者は時代劇専門と認識されるほどに数々の時代劇に出演しているらしい。それで本作の主役にも抜擢されたのだろう。女っ気は前半はトンマン女王が出ることもあって、かなり華やかで、また毒婦も登場するが、後半はチュンチュとユシンの「三韓統一」に対する方法の考えの違いが浮き彫りになり、女の出番はほとんどなくなる。また、本作は新羅から見た当時の物語であるから、百済と高句麗は出番がぐんと少なく、また敵として描かれるが、憎らしい敵として描くと三韓を統一する際にいろいろと差し障りがあるだろうと視聴者から思われるから、百済と高句麗を単純に悪役とは描いていない。それは中国も同じで、中国は隙あれば朝鮮を領土にしようともくろんでいるが、大国らしき圧倒的な貫禄を持った存在として描写される。では日本はどうかと言えば、一時チュンチュは日本に飛鳥にやって来て過ごすという場面もあり、当時の日本と朝鮮、特に百済の関係はそこそこ場面があって面白い。ただし、日本から見れば不満も多い服装や室内で、そこはいかにも韓国の勉強不足を感じさせ、日本の場面は日本の助言を求めてもよかったのではないか。それは現代劇でも同様で、韓国における日本食レストランの場面がよく登場するのはいいとして、浮世絵のちゃちなプリントの壁掛けや安っぽい人形など、韓国から見た日本のイメージはまだまだ皮相的なものであることを感じさせる。だが、日本もどっこいどっこいだろう。それに日本のドラマはまず韓国を描かない。
ふたりの対立は現代の韓国の政治にも当てはまるような朝鮮の地理的な弱みと言うべき問題を含んでいる。朝鮮は中国大陸に盲腸のようにくっついている半島で、その形からして橋のように機能し、中国からは日本という島国にわたるのにちょうどつごうがよく、またその逆に日本が中国を侵略した時にも朝鮮を通過した。そのように往来の激しい土地であるから、人々の生活が日本のように安定しにくいのは誰しも想像出来る。これは半島全体を安定な政治に保つことが困難であることを示してもいる。日本国民が優しく、お上に対して従順であるとすれば、それは島国である理由が大きいだろう。もっとも、島がたくさんあって、それぞれが独立の気概を持って対立しかねない風土を生むとも言えるが、朝鮮や中国を含めて考えると、日本は日本としてまとまりがつき、安定しやすい。朝鮮は民族移動の道筋に当たるような形で、そのためにいくつかの国に分かれて内戦を繰り返したと言うことが出来る。現在は北と南に分かれるが、本作を見ればそれが不思議でなくなる。「三韓統一」は常に理想であるかもしれないが、分裂していても各国がそれなりに安泰であればそれでよい。現在の北と南がちょうどそういう状態にある。では、北と南が統一するのはどういうことが生じた場合か。それはたとえば北を脅かす大国が現われ、その国が北を飲み込んだ次に南もほしがるという場合だ。それには北と南は団結して敵と戦わねばならない。本作で描かれるのはそういう図式と言ってよい。だが、三つ巴状態では事は単純ではない。どの国も疑心暗鬼になり、あわよくば自国が他の二国を併合出来ればと考える。その難しい状態を本作は後半で描く。またチュンチュとユシンの考えの相違から新羅王朝そのものが内部崩壊しかねない綱わたり状態になり、それをいかにしてチュンチュが丸く収め、しかも百済と高句麗を併合するかというなかなか見物の場面が続く。チュンチュは大きな賭けに出るが、それは三韓だけの話し合いないし戦いではなく、常に中国と日本を見つめ、交渉を重ねたことだ。その点においてチュンチュはユシンの器の比でなく、ユシンはどちらかと言えば頑迷な武人に描かれる。そしてふたりの昔からの三韓統一に対する夢は何度も疑われ、そのたびにまたユシンはチュンチュを信じることにするが、お互いの子どもの時代が到来していて、親子の問題も絡んで来てややこしくなる。結局は初心を忘れず、統一のためにはどんな難儀なことが生じても乗り越えるという覚悟がチュンチュにあったという話だ。だがユシンはユシンで百済の将軍とは腹を割って話し合える関係を築き、また百済の武将は悪役ではなく、潔い武者として描かれ、後半の数回は彼が主役となるほどだ。一番こけにされたように描かれるのはやはり中国で、チュンチュは統一のために唐の皇帝と密約を結び、それが次代の皇帝にも引き継がれるように画策する。新羅が唐と手を結んだのは、まず百済を滅ぼすためで、百済は日本と友好を結んでいたから、日本は百済を応援するために大勢の兵を送って来る。そこで繰り広げられるのが、有名な白村江の戦いで、これは最終回からふたつほど前に回にたっぷりと描かれるが、製作費のかなりの部分を使ったと思わせるに足る迫力ある場面が続く。唐と新羅の連合軍は百済と倭国の連合軍を撃退し、新羅は三韓統一の大きな足がかりを得るが、協力して勝った唐は新羅と百済を一緒にほしがる。そこに唐に接している高句麗の出番もあって、史実は本作で描かれるよりもっと複雑だが、最後は簡単に新羅によって半島が統一されたことで締めくくる。日本が大いに関係している歴史であるから、日中韓共同でドラマ化すればもっと面白いものになると思うが、どの国がどれほど負担し、またどれほど儲かるかを考えるから、まず無理か。ともかく、このドラマで描かれる時代からもわかるように、朝鮮半島の歴史は中国という大国を無視しては考えられず、絶えずその目の色をうかがう必要があった。それは現在も言えるだろう。そうであるからこそ、本作が撮られた。大国に蹂躙されないように、いかに知恵を働かせるか。日本も同じとはいえ、韓国では中国と陸続きで、大国に対峙する恐怖感は比較にならないだろう。