以前は京都のドイツ文化センターからはよく催し物の案内封筒が届いていたが、電子メールの方が安価でしかも早いので、2、3年前から希望者にはそれで情報が届くようになった。

筆者はチラシを美術館や画廊で入手して展覧会情報を得ているが、この展覧会についてはチラシが作られず、ドイツ文化センターを訪れる人や、そこから定期的に情報メールを送信してもらわない限り、開催については知ることは出来なかったと思う。あるいは知らないのは筆者だけで、雑誌などで紹介されていたのかもしれない。というのは、たくさんの若者が訪れていたからだ。だが、そうした人々も目的はこの展覧会ではなく、建仁寺が目的で訪れたところ、たまたま開催中であったというのが実情とも考えられる。いい展覧会でも宣伝が行き届かなければ、なかなか人は集まらない。主催する側の労苦や経費を考えれば、なるべく多くの人に観てもらうことこそが一番なのだが、観るべき人が観て、しかるべきところで意見を公表することがもっと重要と言えるかもしれず、この展覧会もどちらかと言えば、そうした玄人筋が観るべきものであった。この作家の名前は全く知らなかった。そのため、展覧会が開催される建仁寺に行くことを何日もためらったが、一昨日の最終日につごうがついたこともあって、曇天の中を出かけた。それに、建仁寺では2年ほど前だったか、法堂(はっとう)の天井に龍の絵が描かれ、当時NHK-TVで特集番組を観ていたので、ついでにそれも観られるかと思った。どうせ出かけるならば、ついでにほかのものもというのが、合理主義的な大阪人の考えで、筆者にはその根性が染みついている。ただのケチ根性かもしれないが。また、合理精神ばかりでいても、どこかで必ず無駄なことをするもので、それで結局辻褄もあっているのだろう。
建仁寺は1970年頃に一度訪れた記憶がある。あまりに古いことなのでほとんど何も覚えていないが、俵屋宗達の『風神雷神図屏風』を観た記憶だけはある。だが、それが本物であったかどうかは記憶にない。というのも、今回も拝観料を支払ってすぐに上がった本坊に『風神雷神図屏風』は展示されていたが、複製であったし、その隣の方丈のうす暗い一部屋にも陶板製の原寸大の複製が重々しく展示されていた。本物は京都国立博物館に保管されているはずだが、せっかく建仁寺を訪れても本物に出会えないのはさびしい。今の複製技術は本物とほとんど違わないものが作れるとはいえ、複製という文字を見ただけでありがたみが減少するところが人間のドライかつ悲しいところだ。複製でもそれなりの費用はかかっているし、特に『風神雷神図屏風』のような金箔をふんだんに使用した大きなサイズの作品となれば、手軽にコピーの機械で印刷する複製感覚とは大いに違う。だが、こんなことも思ってみた。複製を2点も展示するのであれば、1点は現状複製ではなく、制作当時の色に戻しての状態であれば意義も大きいのではないだろうか。修復にはふた通りの考えがあって、現状をそのまま保つ方法と、制作当初の姿に限りなく近づけるという方法がある。日本では前者が主流を占めていて、それは朽ちているものでもそのままの状態が美しいという考えが根底に少なからずある。作品は制作が終わった瞬間から風化は始まるが、同時に補修のための他人の手が入る可能性も起きる。そうした元の作者とは違う別の手が加わることを一切拒否することが、原作保存にとっては最も意味があるという考えもわかる。だが、自然風化のままに長年置かれて、絵具の劣化が明らかにひどい場合、ある程度元の状態を想定して絵具を加えることは許されないだろうか。確かに絵具を塗る場合、その人の癖などが加わる可能性はある。だが、そうしたことを断ったうえで復元修復したり、あるいはそのような復元状態を複製することがそれほど悪いことだろうか。もし宗達が生きていたとして、今の『風神雷神図屏風』を見た場合、きっと劣化した部分に手を加えたと思う。朽ちたままがよいという考えばかりがよいとは限らない。韓国の寺院を見ると、華麗な色彩で宝相華文が柱や梁にびっしりと描かれている。絵具が褪色すればまた同じように復元することを繰り返すが、それもまたひとつの美意識だ。宇治の平等院鳳凰堂の天井も建立された当初はそうした宝相華文で埋まっていた。だが今は茶色が支配するくすんだ状態に変化していて、極楽浄土のイメージは全く減少している。ごく一部の箇所で遠慮気味に復元しているが、全体を派手な色合いで復元することがなぜ許されないのだろう。それだけ仏教が過去のものとなり、信仰が生きていないこの証かもしれない。朽ちたままがいいという考えはもっと後世のもので、その考え自体を認識し直す必要もあるのではないか。
前置きが長くなった。そうそう、法堂の「双龍図」だが、あまり感心しなかった。これを描いた画家の画集も置いてあったが、銅版画のような小さな作品には力を感じたが、日本画の牡丹図など、形も構図もよくなくて、平凡にも届かないように思えた。その延長で「双龍図」を見れば、全く月並みで、この程度ならば描く画家はいくらでもいるだろう。さて、ディター・ラムス(Dieter Rams)だ。もちろんドイツ人で、今年と来年における『日本のおけるドイツ』の例のフェアの一貫として企画された。なぜ建仁寺の本坊や東陽坊の空間を借りて作品を展示することになったかだが、それはラムスのデザイン思想が、シンプルなものがよいという、禅の境地に通ずるところがあるからだ。ラムスの自宅を写す何枚かの写真が展示されていて、そこにはまるで日本庭園と思わせるような庭があった。小さな黒い布袋座像も置かれていたりするなど、明らかに東洋を意識した雰囲気に満ち、少なからず日本の禅寺に関心があることは理解出来た。実際に日本を何度も訪れているのかどうかは知らないが、日本での展覧会を建仁寺でのみ開催したことは、その作品と思想を考えるうえで意味を持つのは言うまでもない。そこには一種のアイロニーもあるだろう。というのは、ラムスがデザインした機能美に重点を置いた工業製品を日本で展示する場合、無機的な美術館ではあまりに味気ないし、わざわざ日本で展示する積極的な意義もないし、また日本の国籍不明となったような住居では、あまりにちぐはぐな状態になるからだ。今の日本人の平均的な住まいは和洋折衷を越えて、しかも和洋が渾然一体にならず、不調和のまま安っぽいデザインと普請で成り立っていると言えるが、そんな空間にラムスは自作を展示することを拒否したに違いない。日本のシンプルで理想的な住空間の見本がたとえば禅寺であり、そうなれば建仁寺が最適というイメージ連鎖はよく理解出来る。また日本最古の禅寺の歴史を持つ建仁寺の空間に、ここ半世紀ほどの間に生み出された自分がデザインした種々の電気製品を置いて見せることで、いかに自社商品が時空を越えて普遍的なたたずまいを持っているかの自己主張が出来る。つまり、展示会場にわざわざ建仁寺を採用しているところにラムスの自信のほどがうかがえる。そこがいかにもドイツ人らしいし、自国のバウハウスやウルムのデザインの歴史につながりつつ、しかも東洋の空間にも馴染むものとの自負が見える。
ラムスは1932年5月にヴィースバーデンに生まれている。この地はフランクフルトから西30キロほどに位置する。眼鏡をかけて四角い顔はカール・ベームそっくりだ。そのことからも厳格で無駄を削ぎ落とした造形感覚を持ち合わせていることが想像出来るだろう。祖父が指物師でラムスも若い時から家具を制作していた。25歳でヴィースバーデン製作技術学校で建築とインテリアを学び、33歳になって、日本でも髭剃り器のTVコマーシャルで有名なブラウン社に建築、インテリア・デザイナーとして入社する。その6年後の1961年、プロダクトデザインの課長に、68年に同ディレクター、そして80年にベルリンで展覧会を開いている。88年にブラウン社の総代理人に選任され、97年、65歳でブラウン社を退き、ハンブルク造形大学をも退官している。2002年にダルムシュタットの新技術フォルム研究所で「ディーター・ラムス・デザイン-簡潔さの魅力」展、それを皮切りに以後各地で展覧会を開催し、今回のもその一連のひとつとみなしてよい。この簡単な経歴の記述だけでも大体どのような内容の展覧会か想像出来ると思う。ラムスの好む言葉として「less but better」があって、これは建築家のミース・ファン・デル・ローエが言った「less is more」を意識したそうだが、ラムスのデザイン哲学を示すものとして最適だ。だが、もっと具体的なイメージを思う時、ラムスが若い頃に指物師としての経験を持ったことは大きな助けになる。その経験があったからこそ、シンプルな造形感覚を身につけることが出来たであろうし、また自分の手で直接何かを生み出す精神は、工場製品といえども、しっかりとした手作りの味わいのあるものを目指すことになった。自宅におけるラムスの作業写真が何点かあって、そこにはあたかも日曜大工に楽しく、しかも厳しく興ずるおじさんの風貌が表われていた。また、ただちに連想したことは昨日書いた高松伸のアトリエでの仕事風景だ。高松もまた自らの手で図面を描いていて、決してコンピュータ画面に対峙してマウスで図面を描いてはいなかった。それは、自分の手を動かすことの中から作品を生み出す以外には、本当の芸術は生まれ得ないという信念を示しているようでもあり、逞しい職人的な気概と言い換えてもよいが、見ていて好ましいものであった。ラムスもその点は全く高松と同様であり、建築にしろ、インテリア・デザインにしろ、まずは自分の筋肉を動かすことが基本という思想だ。これは重要な何かを突きつけている。高松にしてもラムスにしてもパソコンを自在に扱う世代の生まれではないが、扱おうと思えば出来るはずであるし、決して時代遅れの人間であるとは言えない。むしろ、パソコンなどなくても、もっと迫力あるものを作り出せるという自信がみなぎっており、ここはパソコンを万能と思う若い世代はよくよく考えおいた方がよい。自分で鉛筆の芯を削り、紙に消しゴムを使用ながら何度も描き直しをするということは、小手先で何でもパソコン画面上に出来てしまうと勘違いすることとは全く違うのだ。
高松の話になったついでに書くと、ラムスは当然のことながら、ポスト・モダンの思想を嫌悪している。ラムスが機能主義に立脚して、よけいな装飾を排除した製品を作り続けて来たことは、モダニズムの歴史の中で見ると、実にすっきりと時代を体現していたと言える。特に建仁寺のような重厚でシンプルな、縦横が強調された空間、たとえば畳のうえ、床の間、窓の下といった場所にモノトーンの配色の製品をさり気なく置くと、そのまま色合いといい、形といい、違和感なく調和して見える。また、あえてそのように見える製品をしかるべき場所を選んで置いていると言えなくもない。つまり、ラムスがデザインしたどの製品も建仁寺のどの場所に置いてもすんなり当てはまって見えるかと言えば、多少の疑問はある。そのため、今回の展示は、自作製品を用いた合理的なインスタレーション芸術であって、建仁寺という空間をじっくり舐め回した後、どの場所に何を置くかを厳密にラムスは指定したに違いない。そこにある種の策略めいた作為が感じられるが、古いままに保存される空間と、ここ数十年の間に生み出され、そしてある意味では歴史的産物となったブラウン社の商品をぶつけ合わせることで、そこに静かな火花のようなものが散る姿をラムスは目的としたに違いない。(下の写真は床の間に置かれたラムスの作品。ガラスが嵌め込まれていないにもかかわらず、どういうわけか背後の壁に出入り側の光景が写り込んでいる。)

そこでまた高松伸の木材による建築構想を想起するのだが、高松の場合は明らかにポスト・モダン的で、ラムスの目指すものとはかなり違っている。あるいはそう見える。高松の場合も、自作を古い空間に置くことで、両者のぶつかり合いのドラマを想定演出しているが、どちらが違和感があるかとなれば一概に言い切れない問題がある。ラムスのはいかにも古くてしかもいつまでも新しいようなデザインだが、突飛で個性的な印象を旨とする高松のデザインにも古いものにつながる普遍性の眼差しはあるからだ。ラムスはポスト・モダンのデザインはゴテゴテとしてすぐに飽きられ、時代遅れになるものだと、唾棄するような口調で言うが、ポスト・モダンもいろいろだろう。ラムスのデザインしたTVやラジカセ、ステレオなどが、今後もずっとモデル・チェンジをする必要のないものかどうかは大いに疑問があるように思えるし、実際、それらは高級そうには見えているが、いかにも民芸的、あるいは昭和レトロ感覚そのもので、恒久的に今後も歓迎されるものばかりとは思えなかった。悪く言えば建仁寺の黒や白、茶色を基調とした空間には似合っていたが、刻々と変わる現代の住居においては、他の次々と登場する商品のデザインとの調和が取れなっている。ここには現在の個としてのデザイナーの根本的な悩みがある。自作をある信念でデザインしても、生活空間の中には他に無数の商品があり、それらが混ざれば、決して一デザイナーが理想とする場は生まれ得ない。モダニズムも結局のところ、時代の産物であり、時代が変われば、また新しいデザインの動きがあるだろう。ポスト・モダニズムはモダニズムの厳格な、そしてどこか退屈なデザインを打破するために必然的に生まれて来た側面がある。工場で量産される商品を誰もが比較的安価で使用出来る点にモダニズムの利点はあるが、そこには功罪の罪の面も隠れている。どの国や地域においても画一的な商品が蔓延してしまうのもそうした罪のひとつであるし、もっと手工業時代の、差別化された個性がどこかに表われているものを消費者が歓迎する動きが生じて来て当然であろう。ラムスが否定するポスト・モダニズムのデザインがどのようなものかは大体わかるが、それはポスト・モダンと言うより、元からデザインとしては失格の部類に入るものであって、良質のポスト・モダンのデザインを見ていない気がする。あるいはそうしたものがあっても、それはラムスに言わせればモダニズムの延長上にあってそれに包含されるデザインということになるのであろう。ここには簡単に片づかない問題がある。
現在をどう捉えるかという点においても、デザイナーの考えは一致していない。確かにポスト・モダンの流行が喧伝されると、作り手は一斉にその空気を敏感に感じとって、そうした流行に便乗しようとするが、少し時間が経てば、駄目なものは自然と廃れてしまう。そのため、あまり目くじら立てて新奇なデザインのものを罵らない方がよい。つい10日ほど前、荒川修作が三鷹市だったか、奇抜な3階建ての住居をデザインして、それが売りに出された。TVで少しそれらの内部が映っているのを見たが、床が撓んでいたり、トイレに行くのにとても狭い通路を潜り抜けたり、まるで建仁寺の渋いわびさび空間とは正反対の馬鹿派手で支離滅裂的なトンデモ住宅であったが、老人たちにけっこう人気があると言っていた。そうした不便を強いる住居の方が、かえってボケ防止にもいいとのことで、あちこち障害めいた仕組みがある方が注意力も増して生活していて楽しいらしい。これは何となくわかる。あまりにも便利過ぎて、ボタンひとつ押せば何でも自由になるというのでは、体を動かさず、しまいには脳も働かない。モダニズムの合理的デザインの行き着くところにはそうした陥穽も隠れていることを知っておいた方がよい。荒川修作の超ポスト・モダニズム住宅には住みたきとは思わないが、そういうものがデザインされるということは、明らかにそういうものを好む人もあるわけで、モダニズムばかりが普遍的であると信じていると、それはどこかでファシズムの思想にも連なって行く気もする。ラムスは「すべてを本質的なものに限定せよ。しかし、趣を取り去ってはならない」ということが「わび、さび」の意味であると解釈しているが、この「趣」というのが厄介だ。荒川修作にとってはそれは建仁寺の建物や空間にあるものではないのだろう。人によって考えは違うから、いろんなものが生まれ、それでいて何となく調和しているような世界が本当は理想と思うが、それはいつの時代でも個人がライフ・スタイルを選ぶことで厳然と存在していたのではないかと思う。つまり、自分の好きなもので周りを埋めればいいし、そうでしか人間は快適に生きられない。