瓶のデザインは筆者が知る半世紀前と基本的には変わっていないサントリーの角瓶だが、それがハイボールにもっぱら使われるのはなぜだろう。たぶん味がそこそこで、炭酸で割って飲む方がおいしいかもと思われたからであろう。
もっと高価なウィスキーならロックで飲むか水割りする。先日松山に行った時、サントリーの
トリス・バー「露口」に行ってハイボールを飲んだ。その店の味は絶品らしく、サントリーが缶入りのハイボールを発売するに際して研究員が何日か通ったそうで、炭酸で割るだけでも味の差が出る奥深さを示す話だ。店内にはサントリーの社長のサイン色紙や
柳原良平のイラスト色紙が飾ってあるとのことで、彼らもハイボールがうまいという評判で店に押しかけたのではないだろうか。サントリーは缶入りハイボールを販売していて、最近またその宣伝に力を入れている。筆者がその缶入りを初めて飲んだのは1年ほど前で、その時はまずいと思った。そのまま缶から口に注ぎ、炭酸の泡立ちが勝ったからだろう。先日の25日は天神さんの縁日に行ったが、西大路四条のバス停に大きな看板があって、サントリーの缶入りハイボールを宣伝していた。そのキャッチ・コピーが「あの店の、味がする」で、「あの店」とはすなわち松山市内の「バー露口」のことを指すのだろう。その連想が働く人がどれほどいるかと言えば、たぶんキャッチ・コピーを読む1000人にひとりもいないだろうが、先の研究員が通ったというエピソードを知ると、誰しも「バー露口」を思い出すに違いない。それにしても「あの店の」と「味がする」は改行され、しかも間に「、」が入っている。この「、」は意味深長だ。「あの店の味がする」とやればどこそこの店のハイボールと同じと限定される。「、」が入ると、必ずしもハイボールとは断っていないことになる。それで「バー露口」とは言い切れないということにもなる。筆者はその「、」をまじまじと見つめながら広告業界の知恵の絞り具合に感心した。それはともかく、一昨日はその缶入りを1本ムーギョで買った。家内に言わせると1リットル入りの牛乳パックと同じ値段でもったいないが、筆者の牛乳は酒とまでは言わないにしても、たまにはいいではないかと反論した。そして、今回はコップに全部注いでから飲んだ。すると、以前に飲んだ時とは確かに味が違うと感じた。「バー露口」ほどではないが、それなりにおいしいではないかと思った。家内は角瓶を買った方が何倍も安いと言うが、ハイボールなら炭酸を別に買わねばならない。またそれを冷やしておく手間もかかる。それでハイボールなど作らず、そのまま飲むことになる。そうなればあまり高い酒ではないので悪酔いしそうで、そう言えば筆者は角瓶を手元に置いて飲んだためしがない。そうそう、これは何年も前に書いたが、筆者が生まれて初めて口にしたウィスキーは角瓶で、小学3年生の時だ。近所にやんちゃな兄弟がいて、両親がいない間に筆者を家に呼びよせ、父親が飲んでいた角瓶を棚から取り出してその蓋を開け、そこに注いだものを飲ませてくれた。蓋すれすれではなく、その半分程度で、わずか数CCだ。それでも口に含んだ途端、舌が燃えるように熱く、その後何とも言えない不思議な味を覚えた。おいしいとまでは言わないが、筆者が今でも酒と言えばウィスキーが一番好きなのはその時の経験の影響が大きい気がする。今日の写真はいつものようにちょうど1年前の4月29日の撮影で、なるべく駅前の工事について書きたいが、以上書いたことからしてそうなるかどうか怪しい。
瓶はガラス製とばかり思っていると、いつの間にはプラスティックやアルミ製が出て来た。ガラスでなければよく冷えないしおいしくないと思うのは筆者のような古い世代で、プラスティック製は割れないし、またよく冷える。アルミ製ならもっとよく冷えるのではないか。さすがウィスキーのペット・ボトル入りは売られていないと思うが、それは清涼飲料と間違って子どもが買う心配があるためで、そうでなければとっくに販売されているだろう。その一方では清涼飲料と間違えそうな缶入りの焼酎カクテルが売られている。それはいいとして、TVでよく見かける光景に、政治家たちの会議の席で全員にお茶のペット・ボトルが置かれていることで、これもいつの間にかそういう時代になって、先日筆者が天龍寺での会合に出た時にも予め座席にはペット・ボトルの茶が1本ずつ用意されていた。それを飲む人はおらず、全員がそのまま持って帰ったはずだが、そのお茶は誰が買ったものだろう。場所を提供した天龍寺とすればサービスがよ過ぎる。お茶程度は大した金額ではないということなのだろうが、これまでの会合では京大の先生を呼んでいたから、そのお礼の費用もかかるはずで、誰が負担しているのか気になる。それはともかく、プラステッィクのペット・ボトルは何本かは家に置いていて、夏場は出かける時にそれに冷えたお茶を詰めることがある。自販機で買う手間が省けるし、何と言っても安くつく。そういうペット・ボトルの空いたものに先日は古くておいしくない米をいっぱい詰め、鳩や雀に与えるために4,5日費やした。1日でペット・ボトル1杯分とし、それを全部与えるのに鳩や雀がなかなかいないために30分以上費やすことが多かったが、ついにもうこれで終わりという時は何となく鳩や雀に申し訳ない気がした。空いたペット・ボトルは家に持って帰っていたのに、最後の日は与えた足で自治会住民に話があってその家に向かい、話し込んで持ち帰るのを忘れた。その家の人はさっさと処分したはずで、筆者も惜しいはずはないが、毎回同じものに米を詰め替え、また鳩の姿を探している間、それをマラカスのようにシャキシャキと音を立てて遊んでいたので、何となく愛着が湧いていたので、それが筆者のうっかりによってなくしてしまったのは何となくそのペット・ボトルに悪い気がする。ところで、古米の処分だけが目的で桜の林やその向こうの中ノ島公園に行ったのではない。桜の林では確か4月下旬から自転車道路の延長工事が始まると告知されていて、その予備工事として桜の木を4本ほど切株状態にしてしまった。その写真は3,4日通って撮ったが、そのまま工事を続行しなかったのは、桜の林の桜が開花前であったからで、花が散ってから本格的な工事をしようということであった。4月下旬はもう新緑で、それはそれでまた大勢の人が嵐山に押し寄せるが、花見客とは違って桜の下で弁当を広げる人は少ない。それで桜の林の北辺にアスファルトを敷いて自転車道路とする工事はやりやすくなる。その本格的な工事の始まりを撮影したい考えがあったので、古い米を雀や鳩にやることにした。どちらがついでであったかわかならいようなものだが、手元にあった古い米が全部なくなってからも毎日桜の林に出かけているので、米やりの方がついでと言えるかもしれない。それはともかく、昨日出かけると、また新たに石灰で自転車道路の幅を記してあって、業者は工事に取りかかる段取りを始めている。だが、今日は祝日で、また終日雨であったので、工事はしていないはずで、告知にあった4月下旬を信じるのであれば、明日からブルドーザーが入って工事を始めるはずだ。その工事予告の文書が手元にないので確認出来ないが、ひょっとすれば工事は5月中旬から下旬であったかもしれない。ゴールデン・ウィークを避けるのが普通と思うが、それならばなぜ昨日新たに道路幅に石灰の線を2本引いたのかがわからない。どうせ雨ですぐに消えるものなら、工事直前に引くべきではないか。やはり今月下旬から始めるという予告であったか。
この桜の林内の自転車道路の写真をいつこのカテゴリーに載せようかと考えている。前述のようにもう3,4回撮ったので、撮った当日の投稿はもう無理だ。ならばまた撮影後ちょうど1年目ということになりそうだ。そう言えばこの「駅前の変化」シリーズはその自転車道路以外には写真を撮っていない。「電柱地下化」や「マンション」の題名で載せるべき写真は、現場の変化がないためにもう数か月は撮っていない。ということは来年の今頃はこのカテゴリーは投稿がかなり途切れる。そうなっても投稿のネタに困らないが、始まる予定であった工事が何の音沙汰もないことは気を揉ませる。それでも駅前と言える範囲において工事がもうないという事態になることはあり得ないから、筆者の観察の方が早く終わるし、またこのブログはそれよりもっと早く終わる。そう思えば工事中の写真を撮って1年後にブログで紹介することを続けていると、撮影しなくなって少なくても1年はブログは続くから、これはブログを終える機会がなかなかないことになる。おそらく工事中の様子を撮った写真を全部紹介せずにブログが終わるはずで、そうなればせっかく撮って投稿用に加工したことが無駄になるが、人生にはそういう無駄はつきものだ。「使い切れない」ことが人生で、それをもったいないと思うのは人情でも、誰もが使い切れない何かを残して死ぬので、もったいないと思うのはちょっと違うだろう。人間を瓶にたとえると、人生の長さはその中身で、死ぬことはそれを使い切ってしまうことかと言えば、そうではなく、ほとんどの人は中身を少し残した状態であの世に行く。その中身がウィスキーの残りであれば、他人が飲むことは出来るが、人生の残った時間は他者に譲れない。高齢化時代になって瓶の中身を目いっぱい使って死ぬ人が多くなって来ているが、一方では人間は食べ物や運動その他に気を最大限配ると200歳くらいは生きるという意見があり、そうなれば平均寿命が50年と言われていた昔はウィスキーの瓶の4分の1しか飲まずに死んだようなもので、これはもったいない。だが、200歳まで普通に生きるという時代が来るだろうか。それは時代が変わって生命の瓶がも大きくなったと考えるしかないが、瓶の大きさがそのように変化するのはルール違反で、それが可能ならば中身を他者に譲ることも可能になるのではないかと人は考えるだろう。実際それに似た、あるいは同じことは臓器移植という形で行なわれていて、金持ちほど長生出来る世の中にますますなりつつある。サントリーの缶入りハイボールを1本買って来てコップに注ぐと、ビールのように泡が立たないので、コップの縁から3センチほど下がったところで缶の中が空っぽになった。それを全部飲み干すと、もう少しほしい気がしたが、ほんのりと酔いが回ったのが気持ちよく、2本目があっても飲まなかったろう。それはともかく、コップから飲みながら、初め、中ほど、最後と、どの瞬間もそれなりにおいしく感じ、人生もいつもそのように感じられればと思った。人生に「もう一瓶」はないのだ。