蒔いたところを見ていないので何とも言えないが、たぶん人為だろう。渡月橋から松尾橋に至る桂川両岸の雑草や樹木が一斉に切り取られたことは「駅前の変化」のカテゴリーで今年に入って何度か書いた。そう言えばすっかり変わったその河川敷の様子を写真に撮ったのに、投稿する機会がないままとなっている。
すっかり平らになったその河川敷は夏になればまた葛が生い茂るだろうと自治会の人たちと言い合ったが、予想に反してまず菜の花が満開となった。以前は菜の花が咲いている場所はほとんどなかったはずで、雑草を刈り取った後に京都府は菜の花の種子を全体に蒔いたのではないだろうか。もしそうだとすると、粋なことをする。またその種子の量はトラック1台分では済まなかったはずで、となるとかなりの費用がかかったことになり、行政がそんなことをするはずがないと思えて来る。となるとどこかから自然に種子が飛んで来たのか。自然の仕組みはよくわからない。以前は劣勢出会った菜の花が、雑草が全部刈り取られたとなると俄然活発化したということかもしれない。ともかく、殺風景であった河川敷が見わたす限り黄色で、いかにも春が来たようで楽しい。菜の花はそのまま放置しておくとどんどん背が伸び、人の身丈を越え、しかも黄色が幾分黄緑色に近くなる。今日の最初の写真は今月21日、右京図書館に1日遅れで本とDVDを返却しに行った帰りに撮った。3枚つなぎのパノラマで、写真の左手が下流だ。右手の山裾にわが自治会がある。この写真を「駅前の変化」シリーズに使おうと考えたが、その機会を見つけるのが難しい。それに、駅前の変化に関係がない。どうしたものかと考えたところ、「春の花」という言葉が思い浮かんだ。自分のブログ内を検索すると、
3年前の4月27日に同じ題名で投稿している。「三題」として3つの春の花の写真を載せている。それでそれに倣って今日はその続編といて「アゲイン」を題名の後ろに添える。続編と言いながら、3年前のその文章を読まずに書くから、内容はつながりのないものになる。また、3年前のその投稿を見て桐と牡丹の花の写真を使っていることにぎくりとした。実は今日は菜の花と桐とそして華鬘草の3つの花の写真を使うつもりで書き始めたが、3年前とは桐がだぶることを知って筆者の眼差しは3年では変わらないことを思い知った。これならブログを続ける意味があまりない気がする。だが、いつ辞めてもいいことが明らかであれば、気が楽で、それこそ本当にいつ辞めてもいい気分だ。それはともかく、桜が終わって本格的な花の季節で、3つ選ぶことが難しいほどだ。今日はツツジの写真を含む別の内容で投稿しようかと考え、そのために5枚の写真を加工したが、何となく気が重く、簡単に書けそうなことにしようと思い直した。それで昨日まで3日続けた「おむろ桜満開」と今日は関連させる意味もあって、昨日書かなかったことから始めるが、それはチューリップの花だ。
嵐電のどの駅か知らないが、仁和寺への往復で車中からチューリップが満開になっている花壇を見た。チューリップの花は鮮やかで遠目にも目立つ。花壇には持って来いだ。だが寺には似合わない。仁和寺の境内にチューリップが植えられていればきっと抗議が殺到する。日本庭園にチューリップが入る見込みは今後もないだろう。それで駅舎の際や校庭の片隅にまとめて植えられる。球根を土に埋めると確実に開花するので手間が省ける。このチューリップを今年はざっと500か600ほど花が咲いている様子を何度か見かけた。ムーギョへの途上、松尾橋から徒歩で500歩といったところに大きな畑がある。たぶんわが自治連合会内で一番大きいのではないか。見晴らしがよく、畑の向こうに阪急電車が走る様子が見える。チューリップはその畑の最も手前、道路の下にある。毎年同じ場所で咲くが、今年は10いくつの品種が区画ごとにびっしりと植えつけされ、全体が帯状にきちんと整理されて開花した。冬の間に球根が植えられたのだろう。あくまでも鑑賞用で、道行く人たちに楽しんでほしいという畑の持ち主の思いだ。500個ほどの球根の価格がいくらほどになるのか知らないが、広い土地があるとそういう贅沢が出来る。このチューリップ畑を道路から見下ろしながら、何度か写真を撮ろうとしながら、結局断念した。それは、全種類が同時に開花しなかったからでもある。筆者の理想はどれもが満開である状態で、そうでなければ理想的な写真にはならないと考えた。ところが、ある色は全部蕾であるのに、別のものはすっかり花開いている。そして数日経つと、蕾が開花したのはいいが、以前咲いたものはすでに散り始めていた。つまり、いつ訪れても全種がきれいに満開ということはなかったはずで、これがどうにも不満、残念であった。だが、チューリップにすればあたりまえのことだろう。開花の時期をわずかにずらせることで、どの品種も受粉しやすくなる。虫にすれば1週間や10日ほどの間、次々と開花してくれる方がよい。これがある日一斉となると、蜜を集めるのがてんてこ舞いになって吸い忘れが生じる。そのチューリップ畑は嵐電のどこかの駅で見かけた花壇の数倍は大きく、筆者のカメラでは、筆者が移動しながら4枚に分けて撮らねばならないほどであったが、そのパノラマ写真は壮観であるにしても、花を真上から撮るのでチューリップのよさがあまり出ないはずで、そのことが本当は撮影を諦めた最大の理由と言ってよい。それに赤や黄色、紫など、色さまざまなうえ、形や大きさも違い、写真はかなりうるさくなるはずで、ブログに載せる機会がない気がした。先ほど今日の投稿を「春の花」と題することを思いついた時も、チューリップは思い出さなかった。なのにチューリップについて書いているのは、嵐電の車内からと、ムーギョ途上の畑で相次いで見かけ、その様子を鮮明に覚えているからだ。
3年前の「春の花」の投稿にわが家の裏庭に咲く白い牡丹の写真を載せた。昨日それが満開になり、今日はもう散り始めていた。写真を撮らなかったうえ、まもとに見てもいない。昨日は庭木の、特に合歓木の剪定に忙しく、サーカスのように幹の上に立ったり、座ったりして枝を剪定した。ノコギリが届かないので、隣家から外した2メートルほどの長さのガス管の先端に折り畳み式ノコギリをしっかりとロープで結わえた。ガス管は予想外に重く、枝に食い込んだノコギリは紙のようにへなへなと撓み続けたが、ガスの鉄管の重量がノコギリに加わり、思ったように太目の枝が難なく切り落とせた。それが下の小川に落ちると大変なので、ロープで予め結んでおく必要があったが、その作業を完遂するにはかなり細くなっている幹というか枝まで腹ばいで前進しなければならない。そしてちょっとしたバランスの崩し具合で筆者は川の流れに落ちる。高さは3メートルほどか。骨折するか溺れるはずで、ロープで結ぶことなくノコギリをひいた。切り取られた枝はそのまま小川に落ちることにはならず、筆者に向かって数十センチずれ落ちて止まった。ほかの枝に絡まったせいだ。それでガス管からノコギリを取り外し、今度は身近になったその伐採された枝を幹にしがみつきながら細かく裁断した。毎年この剪定作業は大変になっている。合歓木は1か月ほど前にも剪定したが、家内がそれでは不充分と言った。それで牡丹など庭の草花にもっと陽光が注ぐように合歓木を大がかりに剪定しようと決めた。とはいえ、家内に言わせるとまだまだ少ない。来年は思わぬ方向に枝が伸び、それを切り落とすのにさらに困るだろう。そしていつか筆者は合歓木から落ちて川の中で溺れる。数万円出せば植木屋を呼べるが、もったいない。それを言うと家内はまた「無駄な買い物ばかりしているくせに」と呆れ果てる。それはともかく、牡丹の写真は今年は撮らなかった。3年前と同じように立派に咲いたはずだが、合歓木が光を遮って背丈は大きくならず、盆栽のように成長が止まったように思う。それで思い出すのは今日の2枚目の写真だ。これは駅前の喫茶店にある鉢植えで、園芸種だ。片仮名の名前を記した小さな札が添えてあるが、覚える気がない。桐は桐でも花が群がって咲くその全体形は山で見かける桐とはかなり違う。今年はこの植木を先ほどの畑のチューリップと同じように、何度も立ち止まってしげしげと眺めたが、写真は撮らなかった。これぞという立派な咲き誇りに遭遇しなかったからだ。それで今日の写真は2年前に撮ったものを使う。いつか使おうと保存していたもので、6,7枚撮ったうちの1枚だ。残りは完全に没となる。山桐と違う様子は山桐の花を知っている人にはわかる。この園芸種はもっとずんぐりしりた、どこか怪物じみた花の塊で、美しいというより異様さが先立つ。背後の葉はこの桐のものではない。またその向こうは阪急嵐山駅前広場で、写真右端にはコンビニが見える。またその建物の際に桜の幹が見えているが、桐の花が咲く頃にはもう散っている。この桜の木はコンビニが建てられる時、邪魔になったが、伐採するのはかわいそうということで残された。この木は雀のお気に入りで、いつも10羽近くが集まっている。三題目の花は華鬘草で、これは一昨日撮った。京都府立総合資料館へまた調べものに出かけ、その途中で見かけた。春の光を思い切り浴びて楽しそうだ。比較的珍しい草花なので、見つけると、カメラを持っていればの話だが、いつも撮ってしまう。これほど光がまともに当たる場所はわが家の裏庭にはたぶんないだろう。それは伸び過ぎた八重の椿や合歓木のせいで、草花が育たず、木ばかりが成長する。だが合歓木の種子を拾って来て育て始めた四半世紀前に同じ裏庭に桐を植えていれば、今頃20メートルほどの高さに育ち、枝の伐採に猿のように幹をよじ登らねばならなくなっているはずで、狭い庭に筆者はあまりにも無計画に植物を育て過ぎだ。これを全部なくすと、翌年の春はどこかから種子が運ばれて来て菜の花だらけになるかもしれない。