態度が悪いと言われたことはあまりないないので、たまに注意されることがあるとカチンと来る。人生修行が足りない。仁和寺で「御室桜」を見た後は仁王門を出てそのまま嵐電の仁和寺駅に向かい、途中で木製玩具の店に立ち寄った。
そのことは先日書いたので省くとして、嵐電の1日乗車券を買ったので、北野白梅町まで出ることにし、駅横のイズミヤで買い物をして帰った。それはどうでもいい。態度の話だ。北野白梅町方面の電車を待ちながら、電車が視界に入って来る時にその写真を撮ろうとカメラを取り出した。ちょうどその時、若い駅員が筆者の方に向けてやって来て、白線から外に出るように注意した。そう言われたこととシャッターを切ったのは同時で、すぐに足元を見ると片足が白線を踏んでいた。それくらいなら危険ではないと思うが、駅員にすれば筆者の行動は目立ったのだろう。つまり態度が悪いということだ。注意された時に撮った写真は今日の最後に掲げる。そう言えば今日のネット・ニュースに40歳の女性が電車に両足を切断されたというのがあった。線路上に落ちたのだ。眩暈がしたのか気を失ったのだろう。40と言えばまだ若いのにそういう事故に巻き込まれるとは、やはり電車を待つ時は白線よりずっと下がっていた方がよさそうだ。それなら座席に座れる確率が減ると誰しも考えがちだが、何時間も立つわけではなし、多少は立ったままの方がいい。態度の話はもうひとつある。「御室桜」を見終え、中門から出る際に眼鏡をかけた僧侶が笑顔で全員にお辞儀をしていた。袈裟が多少豪華に見えたので、住持かもしれない。そうでなくても重要な地位にいるのだろう。そういうお坊さんが直々にお客さんにお辞儀するとは、なかなかいい態度ではないか。もっともそれは1年で最も拝観客がたくさん押し寄せる頃であるためで、いい印象を持ってもらってまたいつか来てほしいというサービス心だ。それにしても京都の有名寺院で同じような例に接したことがない。それどころか、僧は拝観客に姿を見せないことの方が圧倒的に多い。それを態度が悪いとは誰も思わないほどあたりまえになっている。であるから仁和寺でお辞儀されたことがやけに印象に強い。姿を見せなければ態度もへちまもないが、姿を見せるとなると、無愛想とか愛想がよいとか人は感じるから、変に勘ぐられないためには僧は拝観客に姿をあまり曝さない方がよいのだろう。同じことは自治会の住民でも言える。奥さんがもっぱら応対する場合が多いが、そういう家庭ではまず御主人は仮に定年退職して終日家にいてもまず姿を見せない。夫婦のどちらかが家の顔になればよいという考えだ。それでわが家では筆者が自治会のことにこの5年は積極的になってみんなから顔を知られるようになったが、その分家内は顔を見せるのをいやがり、今では家内の顔を知らない人の方が圧倒的に多くなっている。確かに夫婦で愛想を振り撒きながら自治会のあれこれの仕事に精を出すと、たぶんみんなから「アホとちゃうか」と内心思われるはずだ。それでどちらか片方は態度が悪いと思われるほどに家に引っ込んでいる方がよい。筆者は別にみんなに愛想を振り撒いている気はなく、また偉そうな顔をする必要もないので、淡々と役割をこなすだけだが、それでも人と会うことは相手があることであって、その相手は筆者をどう思うかはわからない。実際筆者のことを嫌う人もいるようで、それはその人にとっては筆者の態度が悪いということなのだろうが、その思いを突き詰めると虫が好かないということで、こればかりはどうしようもない。人間とはそういうもので、誰からも好かれるということは絶対にない。誰からも好かれるような人はいるが、そういう人気に対して嫌悪してやろうと思う人は必ずいる。話せばわかるとよく言われるが、話しても理解し合えないことはある。そんなことを筆者はこの5年で学んだ。そう決めてかかるところが筆者の態度の悪さなのかもしれない。
仁和寺でそれなりにたくさんの写真を撮って来たので、今日の「その3」まで続けることにしたが、没にする写真は2枚で、筆者はあまりシャッターをたくさん切らない。一発で決めることが好きで、そのことは以前に書いたことがある。ただし、一発で決めたと思っていても、肝心のカメラの電池の反応が遅く、写っていない場合がままある。加工の際にそれに気づき、せっかくあると思っていた写真がないことにがっかりするが、取り返しのつかないことにはいつまでもくよくよしない。仕方のないことは思い悩んでも仕方がなく、手元にある材料だけで我慢する。写真はそのようにすでに撮ったものを使うから、撮ったものの中から選ぶしかないが、こうして書く文章はどうにでもなるから気が楽だ。つまり、文章は必ずしも写真の説明でなくてよいと思っている。写真の説明が主であれば、文章は少ない方がよいだろう。ブログはそういうものの方が多い気がするが、その多いはずのものと同じことをしても意味がない。それで筆者のブログは少ない部類に入ると思うが、それは不人気の理由にもなるだろう。文章は写真以上に書き手の思いを伝える。それはいいのだが、そのことで面倒なことが生じかねない。誉めるのであればよいが、筆者は態度があまりよくないのか、けなすことの方が多いような気がするし、そうなれば筆者の文章で誰かが傷つく。そういうことが先日ある場所に話題になった。宿を経営していた人が、宿泊した若者からネットで酷評を書き込まれたらしい。そのことで大いに落ち込んだようで、そういう書き込みをする神経が理解出来ないと話していた。筆者もネットでいろいろと酷評されたことがあるのでその人の気持ちは理解出来る。表現の自由はあるが、よほど理不尽な思いをさせられない限り、相手の商売に差し支える酷評はやめておいた方がよい。自分が同じ目に遭わされて初めてわかるかと言えば、案外そうでもない。ともかく、客相手の商売は難しい。仁和寺もそう思っているので、わざわざ位が高そうな僧侶が帰り客全員に笑顔を振り撒く。こう書くと、意地の悪さすなわち態度の悪さが読み手に伝わってしまう。それを知っているのに書いてしまうところがまた筆者の態度の悪さだ。話を少し戻すと、没にした写真は金堂の前に立って内部の金色の仏像を撮ったものだ。それを撮影する時、少し気が咎めた。撮影禁止とは書かれていないが、何となく撮影は憚られた。それでも撮ったのはなぜか。見えたからだ。だが、写真を加工する際に投稿はやめておこうと思い、写真は消去した。これはいい態度ではないか。ともかく、金堂を後にし、その東にある経蔵前辺りで金堂を振り返って1枚撮ったのが今日の最初の写真だ。
2枚目は中門近くで撮ったと思う。工事中の場所を記す境内の配置図で、中門や金堂、「御室桜」の位置を知るにはちょうどよいことと、この立て看板は工事が終わればなくなるもので、訪れた時期を知るにはよいので撮影した。3枚目の写真が階段状につながっているのは、右つまり北が高台になっているからで、左端に見えるのは中門で、右の囲いのある建物は修理中の観音堂だ。間の桜はもちろん「御室桜」で、向こうが見えないほど桜が密集している。そしてその手前は人の密集だ。加工の際に空をかなりカットしたが、「御室桜」の向こうに高層ビルが見えないのがよい。この風景を今後も残してほしいが、さてどうなることやらだ。4枚目は中門を出て仁王門を正面に見た様子だ。立て看板の表示によると、正しくは「二王門」だ。仁王さんが両脇にいるので「仁王門」でいいように思うが、これは何か特別の理由があるのだろう。これをすぐに調べないのが筆者の態度の悪さかもしれない。こう書きながら、少しも反省していない。気になる人はネットで調べればわかるだろう。筆者はそこまで気にならない。気になることとそうでないことがあるのは誰しもだ。さて、中門を出ると左手すなわち東へ続く道があって、10軒ほどのテントを張った臨時店舗が両脇に並んでいた。その突き当りは東門で、そのすぐ手前に休憩所をかねた会館がある。また土産店もあって大勢の人がいた。東門を出ると駐車場があるから、団体客はこの会館で買い物を済ましたりトイレで用を足す。臨時店舗も土産に最適なものを売っている。山椒ちりめんや漬物、和菓子、焼き物などで、食べ物を売る店はだいたいどこも商品を細かくちぎって置いている。それらをつまんで口に運ぶ人は多いが、買うのはその10分の1もないだろう。となれば商売上がったりかと言えば、案外そうでもないほどに土産品は割高に設定しているはずで、試供品の値段を含めた価格と思えばよい。だが、それは商品によりけりかもしれない。山椒ちりめんを売っていた女性店員は人々に小さじ一杯を供していて、筆者が見ていた限り、誰も買わなかった。ひょっとすれば1袋全部を食べさせてよやく1袋売れる程度かもしれない。そうなれば1袋をかなり高めの値段に設定しなければならない。味見をして買わない客は多い。筆者もそのうちで、10回食べて1回買う程度だろう。それは売り手から見れば態度の悪さに映るだろう。そう思われるのは癪なので、たまには見栄を張ってさしてほしくないものを買う。そういうことが当日あった。先に書いたように、仁和寺から北野白梅町に出てイズミヤに行った。その食品売り場を回っていると、70代と思しき長身の男性が魚を使ったハンバーグを販売していた。イズミヤの社員ではなく、出張販売だ。3種あって、値段が違ったが、3枚で500円であったと思う。その前を通っていると、販売員の男性が滑らかに口上を述べながら、1個を8分割した程度の大きさのものを長めの爪楊枝に挿してにゅっと差し出した。家内も筆者もそれを受け取って食べると、食べ終わらないうちに別の種類を同じようにして手わたしてくれる。それで買わなければ悪い気がして6枚買った。「損して得を取れ」をよくわきまえている店員だ。筆者らが買うのを見て、別の客も釣られて買った。態度のいい客になるのは気分が悪いことではない。
もう1段落書かねばならない。30年かもっと前かもしれない。家内と仁和寺に行った時のことだ。桜の季節ではなかった。仁王門から中に入っただけか、あるいはその門の前に立っただけかもしれない。昼食時で、門の斜め前の店に入った。その店は今回気づかなかったところ、取り壊されて別の店が建ったのだろう。店で何を食べたか忘れたが、天丼かカツ丼だろう。筆者らの斜め前に30代半ばと思しき女性がひとりで座っていた。彼女はうな丼を注文し、それが運ばれて来た。女性の顔や姿はよく覚えている。小太りで小柄、首が短く不機嫌そうな顔、態度だ。運んで来たのは40代の女性だ。お盆から丼を下ろし、さっさと奥に引っ込んだ。小太りの客はまじまじと丼を覗き込み、割り箸でうなぎの表面を突っつき始めた。そして数十秒経った頃、運んで来た女性を呼びつけた。「この黒い埃のようなものは何ですか」「それは胡椒です」 客はようやく納得したらしいが、不機嫌な顔はそのままで、相変わらずその埃に見えた山椒は口に運ばなかった。彼女を見て、京都のうな丼を知らない遠方の客かと思った。店にすれば態度の悪い客と映ったかもしれない。また、胡椒も知らない田舎者とも思ったろう。その昔の話を仁王門を出て駅に向かい始める時に筆者は家内に言った。家内も覚えていた。それほど印象深い思い出でもないが、仁和寺と言えばそのことを思い出す。家内は話題を逸らして、うな丼に胡椒の粉を振りかけるのは理由があると言った。そんなものかと思いながら筆者はそれに応えなかった。昔はうな丼はさほど高くなかった。天丼やカツ丼と同じくらいと言ってよかった。それがうなぎの漁獲量が激減し、今ではもう口に入らない。数年前は中国産のうなぎがとても安く、筆者はたまにムーギョで買った。だが、中国産からはホルマリンが検出され、そのニュースの後にはもう買わなくなった。今でも時々安いうなぎを見かけるが、中国産だろう。うなぎについては信用がならない。値段が高ければ安全と思っているとそうでもない。うなぎの老舗が中国産をそうではないと偽って提供していた事件もあったりした。今でも同じことをしている店はあるだろう。去年3月下旬にいわきのTさんを訪れる時、何をお土産にしようかとしばし考えた。昔聞いたところによると、Tさんはうなぎが好物だ。それでいわき駅周辺にうなぎを売る店があるかと調べた。あるにはあったが、いつも店にあるかはわからず、また店に訪れてお土産に詰めてくれとは言いにくい。そのようなサービスをしているかどうかわからないからだ。ともかくうなぎを持参することは諦めた。先の小太りの女性に戻ると、山椒は粉にして温かいうなぎの上にまぶすと匂いが漂うと思うが、山椒を知らなかったのだろうか。それにうなぎにまぶした粉末は完全に取り除くのは無理だ。山椒とわかったからにはそのまま食べればいいものを、そうでなかったのは山椒嫌いであったのかもしれない。となると、店としてはそういう客のために山椒は別に用意して、好みで振りかけるようにすればよかった。七味とうがらしはそうなっている。それとも店とすれば好きなだけ振りかけてよいとばかりに山椒の粉末缶をテーブルに常備しておくと、全部振りかけてしまう態度の悪い客がいないとも限らないと思ったか。