像が庭の高台に建てられていて、飯田某という名前が見えた。石か銅かわからなかったが、色合いと細かい彫りからして銅像だろう。昨日取り上げた川井さんがコンサートを開いた「大坂町や このむら」という古い民家の裏庭に建つ蔵の脇に建つ。
蔵は川井さんらメンバーが演奏終了後にその内部に入って行ったが、改装されてカフェに使われているようだ。ただし、毎日オープンしているのではなく、予約が必要なようだ。「このむら」は南北に細長い上町台地の東端に位置し、道路を隔てて数十メートルでぐんと土地は低くなっている。低い土地は浸水しやすく、昔から下々の人たちが住んでいたと考えてよい。「大坂町や このむら」は「大阪町家 木野村」と書くべきだが、そこをあえて平仮名および「大坂」としているところに、歴史の古さを示したい思いと、若い世代に知ってほしいという願いが表われている。川井さんのコンサートのチラシ裏面にこの建物についての説明があって、それを引用する。「旧木野村の庄屋屋敷として江戸時代に建てられ、その後増築を重ねてきました。大阪冬の陣では徳川秀忠の前線基地となったと言われます。現役の民家ですが、平成の改修後、イヴェントのさいにはホールとして開放され、木野村の昔のたたずまいを伝えています」。平成の改修がいつ行なわれたのか知らないが、川井さんは10年前にもここでコンサートを開いたので、10年以上前であることは確かだ。今ネットで調べると、1997年にオープンしたようだ。大阪は空襲でほとんど焼けたと思っていたから、こうした古い木造住宅が残っていることを筆者は知らなかった。また、上町台地の寺町にはたくさんの古い寺があるので、こういう町家が残っていることは不思議ではないが、JR環状線の桃谷駅から北へ10分ほどのところにあるのは意外であった。鶴橋からの方が近い気もするが、ま、桃谷と鶴橋の中間といった場所だ。東はすぐに坂があって、疎開道路が南北に走っている。それを東にわたると御幸森神社だ。筆者はこの神社は子どもの頃によく行ったのでよく知っている。御幸森神社以東には「大坂町や このむら」のように歴史ある古い木造の建物はなく、道路1本を挟んで環境が異なる。川井さんのチラシには桃谷駅からの簡単な地図が印刷され、それにしたがって歩いたが、面白いのは目印になる曲がり角で、「からあげ・やきとり 金ちゃん」や「ちよちゃん」という、およそバロック音楽とは縁のない大衆向きの店となっていることだ。それが大阪と言うべきかもしれない。この雑多な空気を嫌う山手の人は多いだろうし、東京では特にそうではないだろうか。昨日も書いたように、大阪をほとんど知らない京都の人は大阪に対しての先入観が強過ぎて、とてもひとりでは歩けないほどの町と思い込んでいるふしがある。川井さんも筆者もそういう大阪で生まれ育ったから、雑多な外観をした街並みは平気で、それはそれ、自分の思想は思想という割り切りをしていると思う。ともかく、「このむら」の前に着いた時は正直な気持ち、これが大阪かと目を疑った。平野辺りにはありそうな家だが、桃谷にも歴史的な建築があることを知って大阪の懐の深さを思い知った。
GOOGLE EARTHのストリート・ヴューで調べると、「このむら」の前の道は車が通れないため、建物は全くと言ってよいほど見ることが出来ない。この袋小路的な場所に建つことが保存によかったのかどうか、それはいろんな考えがある。筆者が真っ先に思ったのは、玄関前を車が通過出来ないことは、火事になった時が恐いことだ。長年火を出さずに家を守って来たことは見上げたもので、家訓にそういう注意が書かれているかもしれない。前述の銅像の人物は何代目か知らないが、よほどこの建物の保存に貢献したのであろう。コンサートに来ていたシルバー世代の夫婦としばしそんなことを話し合った。固定資産税が大変だろうとか、相続時にどうしているのだろうなどと、もっぱら経済的なことに終始した。普通の人の感覚ではそうだろう。大きな家や土地を持っていても、日本の法律では三代でそれがほとんど消えることになっている。そう考えると、この屋敷は昔はもっと敷地が広かったのかもしれない。それが少しずつ手放して現在の姿になったとも考えられる。筆者が学生時代から懇意にしていただいている教授は泉大津のかなり古い旧家だが、やはりどんどん土地を手放し、現在はリンゴの芯のような痩せ細った分だけ残ったと昔聞いた。そのリンゴの芯状態の土地ですらかなり広く、また屋敷も築100年以上はあたりまえで、そう考えると「このむら」もさほど驚くに当たらないかと思う。銅像の人物が飯田姓であるのは、高島屋と何らかの関係があるかもしれないが、建物は居住に使われているようには見えず、どういう商売で建物を維持しているかもさっぱりわからなかった。普段は喫茶店として一般人に開放することは奈良市内の町屋でもよく行なわれているが、桃谷駅を下りてわざわざ10分も歩いてこの「このむら」に行こうとする人はまずいないだろう。よほど珍しい何かがあれば別だが、そういうものは見当たらなかった。唯一あったと思うのが銅像だ。それは少し高めの土地に据え置かれ、こちらを見下ろしているので、あまり気分のいいものではない。その人物についての説明パネルでもあればよいのに、それがないところ、家人にとっての偉人で、大坂にとってというほどではないのだろうか。「このむら」の内部は撮影が自由で、その点からも普段は誰も住んでいない気がするが、実際はわからない。筆者は展示会に使えるかと思ったが、1日7万円では繁華な場所にある画廊を借りた方がいい。コンサートのほかにどんなイヴェントに使われているのか、貸し会場としてのパンフレットなりが置かれていたよかったのに、それがないところ、あまり積極的に宣伝はしていないのかもしれない。
10年前に川井さんが「このむら」でコンサートを開いた理由を彼の奥さんに訊くと、奥さんがキモノの着付けでよく利用していたらしい。玄関を入って左に広がる庭の奥には新しい茶室があって、お茶も教えているのだろう。桃谷商店街の中にクラシック音楽の教室があることは、茶道や華道を教える場所があって当然で、「このむら」は理想的な場所と言える。母屋の内部を多少改装すればちょっとしてコンサートに充分使えると考えたのだろう。酒蔵を改装してコンサートにも利用出来る空間にすることは京都伏見でもあるから、和の古い空間を保存がてらにイヴェントに使うことは平成に入ってひとつの流行のようになった。真新しいコンクリートの空間もいいが、「昭和レトロ」のブームもあって、ようやく人々は日本の古い住宅の落ち着いた趣を味わうようになって来た。そういう場所でチェンバロを初めとしたバロック・アンサンブルの演奏というもの乙なものだ。川井さんが説明していたように、バロック音楽は日本で言えば江戸時代のもので、「このむら」での演奏は違和感がない。「このむら」の玄関は昨日の投稿の最初に載せた写真からわかるように、石段を10ほど上がったところにあって、なるべく高いところに家を建てたことがわかる。田畑を見下ろす位置で、小作農家への目配りにもつごうがよかったであろう。すぐ南に弥栄神社があって、帰りにその境内に入ったが、小さな神社ながら参道は趣があってしかも古い歴史を感じさせた。今はどこにも田畑はなく、高台にある「このむら」も全く目立たない。そして車が入れない、いわば聖域とたとえていいような区画となって、そこだけが歴史の時間が止まったままのように感じさせる。こういう歴史的建築は大阪市が多少の援助をしてでも残して行くべきと思うが、市長は自助努力主義を掲げ、儲からない施設はどんどん閉鎖して行く方向にある。「このむら」は公式のホームページを作っていないようだ。そういう状態で運営が成り立っているのが不思議だが、それはともかくとして、もっと多くの人が知って大阪の文化発信に拠点になってもらいものだ。