滑ったではなく、迂闊だったのだろう。家内に一時的に持ってもらおうとしたビニール袋入りの図録が筆者の手を離れた途端、家内に受けわたされずにアスファルトの地面に落下した。それで本の背のてっぺんと小口の天が合わさる箇所が少し凹んだ。

ビニール袋は多少厚めで、それが衝撃を吸収したため、本の何倍も目立つ傷がついた。買ったばかりの図録を傷ものにしてしまったが、それも旅の思い出だ。家に本が溢れ返っているので、家内は図録を買うなと言ったが、松山市に行ったのは今日取り上げる展覧会を見るためだ。おそらくぱらぱらと見るだけで、そのまま埃を被るが、大阪や京都で開催される展覧会ならまだしも、松山となると後で入手するのは難しい。先ほどぱらぱらと拾い読みしたが、サイズが比較的コンパクトで、好感が持てる。それはともかく、今日は滑った内容にならないように、松山行きの最後の投稿として気分を引き締める。本展は洲之内徹の生誕100年記念として開催され、最初は昨年11月から12月にかけて洲之内コレクションをまとめて購入した宮城県美術館で、次は松山、そして最後は洲之内にゆかりの深い新潟を回る。新潟は今月12日から6月8日までが会期だ。近畿で開催されないのが残念だが、巡回があれば筆者は松山まで行くことがなかったから、かえってよかった。筆者は車が運転出来ないから、行動範囲がとても狭く、洲之内が松山が偉人を輩出しないと言ったことが応える。洲之内は絵を車に積んで日本各地を行商した。それが『気まぐれ美術館』の味わいに大きく貢献したと思える。筆者はほとんど家に籠り切りであり、こうして毎日書く文章に広がりを求めることは無理だ。では『気まぐれ』のように月1回とすれば凝縮した文章が書けるかと言えば、そうではないだろう。先日、洲之内が亡くなった後、筆者は自分が毎月長文を書くので後は引き受けたといった気分が湧いたということを書いた。その思いを復活させてこのブログを始めたが、筆者は洲之内のように画廊主ではなく、画家との交際もない。何が共通するかと言えば、洲之内が、若い頃だけだが絵も描き、そして文章もよくしたからで、絵と文学の両輪駆動の点だ。筆者のブログは今日投稿するカテゴリーすなわち展覧会の感想が最も多いと思うが、その文章が洲之内的であるかどうかは気にしたことがないのでよくわからないものの、『気まぐれ』を思い出すと、絵とはあまり関係のないことが最初から書き始められ、最後近くになってようやく本題に入ることがほとんどで、美術評論といった堅苦しい文章ではなく、文学としての読み物であって、筆者のブログもそれに似たものという自覚はある。ただし、文学的に面白いかどうかは知らない。気の赴くまま書き散らしていて、読み返しもしないから、全く無責任もいいところだ。即興で書きながら、どういうことが思い浮かんで来るのか自分でわからず、それを文字にして行くことが楽しい。つまり、関心があるのは自分自身かもしれない。それは自分を知りたいという欲求があってのことではない。また、自分のことは自分が一番よく知っていると思っているからでもない。自分が興味を覚えたものや感動したものを書き留めておきたいと言えばだいたい当たっている。先ほど家内がTVでマイケル・ジャクソンの生涯を紹介する番組を見ていた。マイケルは世界的に有名で、また心優しかったようだが、筆者は関心がない。なのでわざわざ音楽を聴くことはしないし、彼の音楽について何か書く気もない。洲之内もそういうところがあって、彼が画廊で売った画家は評価が定まってほとんどの美術通は名前を知っているという場合はむしろ珍しかった。
自分が気に入った画家の作品だけを商売の道具にするというのは、画廊主としては本来あるべき姿だ。だが、それではたぶん店はすぐに潰れる。世の中に絵好きは多いが、大家と評判のある画家した認めない人は大勢いる。自分の目で見ずに、世間の評価で見るのだ。つまり、自分がない。とはいえ、彼らは自分の目こそが世間の評価と一致し、いっぱしの眼力の持ち主と自惚れている。また、大家の作は高価であるし、それを所有することは自分の社会的地位も高めてくれる。昔から絵はそういうように扱われて来たのも事実で、画廊は売れやすい絵を並べる。経営が成り立たないでは元も子もないからだ。では洲之内が経営していた銀座にあった現代画廊は儲かっていたのだろうか。『気まぐれ』の連載中、筆者は東京に行くことがあって、よほど現代画廊に行ってみようかと思ったこともあったが、洲之内が画廊内にいると極度に緊張するはずで、結局一度も足を運ばなかった。今はそれを残念と思うが、ま、仕方がない。現代画廊があまり儲からないので、暇が出来、そして『気まぐれ』の執筆を始めたのかと当時は思ったものだが、それは違うはずで、画廊の仕事とは別に文章を書き、多忙の中に自分を追い込んで生き甲斐を見出していたのではないかと今は想像する。『気まぐれ』の稿料は知れたものであろうし、絵を売ることにもっと積極的であった方がかえって経済的にはよかったと思うが、『気まぐれ』によって洲之内が有名になり、画廊を訪れて絵を買う人もたまにはあったかもしれない。大家の作品を扱わないのは、高価で手が出ないということもあるが、大家であろうが無名であろうが、自分が気に入る絵でなければならないという決心があった。これは商売人としては正直だ。いや、商売人としては失格かもしれない。洲之内は本当に気に入った絵は自分のものにしてよほどのことがなければ売らなかったようで、それらが没後に残され、宮城県美術館が買った。『気まぐれ』には、自分が文化住宅に保管している絵に1点で2000万ほどするものがあり、それを売れば余生は気楽に暮らせるのにと書かれていたことがある。洲之内はそうはしなかった。そうする者はさっさとそうするはずで、洲之内のその文章がとても恰好よく思えたものだ。つまり、大金の元となる絵をたくさん持っているのに、ごく普通の人の生活に甘んじている。絵を深く味わう人はそうだ。これと逆なことある。ある大きな料亭ではろくな掛軸がない。そうなると、建物がいくら立派でも料理や女将が二三流に見える。絵とはそのように所有者の人格を表わしてしまいもする。雨漏りが多少するみすぼらしい文化住宅に高価な絵をたくさん所有していた洲之内は、ただの金持ちから見れば狂人に映るだろう。だが、ただの金持ちに洲之内がわかるはずがない。とはいえ、それでは洲之内の商売は成り立たない。そこで、ただの金持ちではない金持ちを探さねばならないが、どうにか辻褄が合って商売を続けることが出来たようだ。

本展の愛媛での巡回は、県美術館のみの展示ではなく、町立久万美術館も使われた。作品がどのように分けられたかは図録に載っているのだろう。「バー露口」のママさんからは、町立久万美術館にも行くのかと訊かれたが、否と返事すると、遠方でもあり、行く必要はないだろうと意見された。宮城や新潟の美術館と違って愛媛県美術館は小さいのかと言えばそうではない。とても立派な、そして展示室がたくさんある。であるから、町立久万美術館でも展示したのは別の理由があるのだろう。洲之内に縁のある場所かもしれないが、そういうことは説明パネルに書かれていなかった。筆者が思うに、愛媛県美術館は確かに大きいが、ほかに常設展示や別の企画展もする必要があり、やはり展示面積が足りなかったのではないか。もう一泊すれば町立久万美術館にも足を延ばしたかと言えば、そうしなかった。交通の便が悪く、車でなければ無理なところにある。地方ほど車社会で、筆者は都会にしか住めない。もっとも車で移動せず、終日家の中にいて平気であれば別で、だんだんとそういう年齢になって来ているので、これからは地方暮らしもいいかもしれない。それはいいとして、何度も触れて来た『芸術新潮』1994年11月号に気になる下りがあった。この20年、たまにそのことを思い出し、松山に行くことがあれば、ぜひ県立図書館に行くことを考えた。もちろん今回の松山行きでもそのことを思い出したが、幸いなことに美術館の隣りに図書館がある。それでまず美術館に行き、それから図書館に駆け込むつもりでいた。気になる文章というのは、池内紀が書いている。「…『芸術新潮』に「気まぐれ美術館」の連載をはじめる十年以上も前、昭和三十八年にすでに、地元愛媛新聞に『気まぐれ美術館』を連載していた…」。わずかこれだけだが、愛媛新聞に連載した文章を読みたい思いが募った。『芸術新潮』に連載した文章の元ネタになるものがどのようなものか気になったからで、また『芸術新潮』の文章の完成度は10年以上も前に訓練していたためと納得出来た。嬉しいことにその愛媛新聞での連載は本展会場内のソファにさりげなく置かれていたファイルにコピーがまとめられていた。だが、残念な点を言えばコピーが不鮮明で、コピーをさらにコピーしたもののようであった。よほどそれらのコピーをすべてコピーしてもらえないかと係員に訊ねようとしたが、それが許されれば誰しも願い出るはずで、OKがもらえるはずがない。どうしてもほしければ図書館で新聞の縮刷を閲覧する必要がある。時間があればそうしてもよかったが、図書館に縮刷版が置かれていないかもしれず、またその30数回の連載は不定期で、毎週や毎月決まった日に載ったのではなかった。それでは縮刷版を前にしてもすべてコピーし終わるのに数時間は要するだろう。それでソファに座って萬鉄五郎の回だけを読んだ。それは字数の制限もあって、初めて知るようなことが書かれてはおらず、それで連載すべてが見通せた気がした。連載すべてを読みたいのは今も山々だが、生誕100年を迎えたので、今後それらが本としてまとめられる可能性があるような気もする。あるいは愛媛在住の洲之内ファンがコピーしてブログなどに載せるかもしれない。

展示作品は『気まぐれ』をよく知っている人には馴染みのものばかりだが、雑誌の小さな図版と実物とでは印象がまた違う。筆者が特にじっくりと作品の前にたたずんだのは、佐藤哲三の作品で、「みぞれ」は図版からでも異様な迫力が伝わるが、実物は絵具の盛り上がりや画面の大きさから、凄味が一段と大きく感じた。この絵は新潟の寒い平原を描き、そういうところで暮らす人々を洲之内が愛したことが何となくだがわかるような気にさせる。小さく点在する人物は家路に急いでいると思うが、それらの人物は苛酷な自然に対して無力でありながら、強い意志を持っているようにも見える。また、この絵は中国に従軍した洲之内が現地で見たような光景にも思える。洲之内は戦前生まれであるし、左翼運動をして退学にもなっているほどであるから、絵の見方の中にそういう経験が大なり小なり影響しているはずで、言い方を変えれば何を信じるかということを真っ先に考えながら絵の好悪を決めていたであろう。絵は自分ではない他者が描くものであるから、ある絵を好きになることは絵そのものもそうだが、その作者の人柄にも惚れることだろう。そして、絵を好きになることは絵に共感することで、それは自分に感動することでもある。つまり、自分が好きでなければならないし、また他者も信じる必要がある。そういう幸福な出会いはそうあるものではないだろう。上手な絵はたくさんあっても、自己の内部に染みわたって来る絵、そしてその作者に惚れるという絵はめったにない。洲之内が手元に置いた絵のすべてがそういう幸運な出会いを秘めたものかと言えばそれはわからない。商売であるから、売れないものがたまたま手元に残ったという場合もまた多いはずで、どれも絶対に手放したくはなかったということはないと思う。だが、一時でも興味を強く抱いたのは確かで、洲之内の目と思いを通過したものだ。筆者も多少絵を買っていて、手放したくないものとそうでもないものとがあることは理解出来る。買った当初はずっと手元に置きたい一心だが、年月を経るとそうでもないものが出て来る。それで絵を買うことがやめられない。洲之内の場合は商売であったから、好きになる一方で手放さねばならず、その断念行為は女と別れることに似て、なかなか慣れないものではなかったと思う。それでも売れた絵がしかるべき場所で大事にされていると思えば気が楽になるだろう。もうひとつ強く迫って来た絵は長谷川潾二郎の「バラ」で、これは図版からではよさがわからない。明治生まれの長谷川は渡仏もしていて、静謐な油彩画を描いた。洲之内は「バラ」を古物商で見かけて興味を抱き、作品を集めるようになった。確かに見る者に強く訴えかけるものがあり、それに反応した時の洲之内は、自分好みの女を目の前にした時のように心を躍らせたであろう。それに、長谷川のような忘れ去られた画家を発掘する行為は絵を他者に売る画商という立場、そして『気まぐれ』を連載していた強みが重なって、世に問う位置に引き上げたという満足感ももたらした。もう1点挙げておく。伊丹万作の「桜狩り」だ。伊丹は松山生まれで、映画監督して知られ、息子の十三も監督として有名だが、絵も得意であるとは知らなかった。それどころか立派な画家で、そういう才能があったからこそ監督にもなり得た。「桜狩り」は一度見れば忘れられない。これはほとんど夢の中の場面で、町立久万美術館の所蔵だが、今回は愛媛県美術館で見られたのがよかった。どういう絵かと言えば、1本の花咲く桜の木の下で、緋毛氈を敷き、その上でひとりの男が仮面を被って踊り、そばに和服姿の女3人を描く。ひとりは三味線を弾き、その隣りにただ座って男の踊りを見る若い娘ふたりがいる。背景は青だが全体に荒々しいタッチで、一気に描いた感がある。一方で伊丹はきわめて写実的な作品も描いており、豊かな才能に恵まれていたことがわかる。さて長くなった。美術館の玄関前には松山城が建つ小高い山がある。それは京都や奈良、大阪では見られない風景で、広々として気持ちよかった。