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●松山にて、その8
之内徹の優しい表情の素描が表紙に使われた『芸術新潮』1994年11月号の表紙の写真を今日は載せようかと思ったが、5年前の3月に東京に行った時、その同誌を持参し、洲之内が夜に散歩した道を歩いて写真を撮り、それをブログに載せた



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その時に同誌の表紙の写真を掲げていた。同誌には、晩年の洲之内が頻繁に通った新潟のこともたくさん書かれていて、筆者はまだ同地には行ったことがないので、同誌を抱えていつか新潟に行かねばという気がしている。だが、松山市とは違って、同誌の新潟での写真は今はもうないか、あっても個人の所有で見ることは出来ない。それで筆者は同誌を20年前に見た時、最も記憶したのは先日載せた洲之内の生家跡などの松山で撮られた写真であった。それらをこの目で確認出来たので、ようやく同誌から開放される気がしているが、新潟に関しては今までどおり、一種重苦しい思いを抱き続けるはずで、洲之内にかこつけるのもいいが、もっと別の用事が出来て新潟に旅する機会がないものかと思っている。新潟に対して重く苦しい思いを抱くのは、裏日本で寒いところであるからだが、洲之内が車で東京から新潟を何度も往復したことが、車の免許を持たない筆者には無縁の行為であるという理由が大きい。洲之内は新潟がいたく気に入り、新潟人に囲まれて暮らしたいとまで言っている。松山を嫌悪したこととは正反対で、洲之内は温暖な地域より寒さが厳しい場所を好んだようだ。そういう苛酷とも言える自然に暮らす人の方がかえって人情があるかもしれない。洲之内はそう感じたのであろう。話が少し脱線するが、先月のわが自治会の年度末総会で、筆者と同年齢の男性と隣り合わせに座って酒が進んだが、その人は倉敷の出身で、北海道に何年か暮らしたことがある。そのほかにも住んだ場所はあるが、北海道の人たちが一番温かかったようだ。それに引き替え、京都は一番冷たいと言っていたが、よそ者を受けつけないという点では確かにそうだろう。北海道と新潟は違うが、寒さの点では大差ないであろうし、やはり寒い地方の人たちは人間的に温かみがあるということなのかもしれない。これも脱線話だが、洲之内は新潟で佐藤哲三という洋画家に魅せられ、その作品を集める。佐藤は新潟で自治会と言うか、地元の人たちの集まりに積極的に参加し、そのために製作時間が削られた。そのことを洲之内は恨みがましかったのか、そんなつまらない人間関係に時間を割いてせっかくの絵を描く時間が失われたといったことを『気まぐれ美術館』の連載に書いていた。それをはっきりと覚えていながら、筆者は5年前から自治会に深く関わり、時間がかなり奪われている。だが、洲之内の考えと筆者は少し違う。佐藤の絵の魅力は、そうした地元の人たちとの普段からのつき合いがあったために生まれたもので、もし佐藤が自治会などに入らず、つまり地元住民からは何する人ぞといった思いで見られていたならば、佐藤の新潟に根差した絵は生まれなかったのではないか。ともかく、洲之内が自治会といった集まりとは無縁であったことはその文章からはよくわかった。自治会にかかずり合う暇などとてもなかったことと、また自治会が東京の洲之内が暮らした地域にあったのかどうかだ。では洲之内は地元と無縁で生きたかと言えばそうではなく、たとえば毎日レコードを買いに行くなどして、店員に知られていたから、人間的なつながりは求め続けた。
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 前述した5年前の洲之内に関係するこのブログの投稿では、筆者が歩いた道筋を地図上に線描きしたものを載せた。それと同じことを松山市行きでも行なうことを計画した。今日の最初の写真はその地図で、松山駅から道後温泉まで歩いた道筋を記している。多少は洩れがあるかもしれないが、だいたいは青線のように歩いた。路面電車に乗ればすぐであったが、筆者は歩きたかった。自分の足と目で経験したことが旅の強い思い出になる。バスを利用したパック・ツアーをさっぱり覚えていないのは、あまりに便利であるからだ。歩くのはしんどいが、その分得るものが大きい。筆者の足では松山駅から道後温泉まで歩いてもしれていたのが、歩こうと思った最大の理由で、また途中で愛媛県美術館にも行きたかったからだ。また、歩いた道は路面電車が走る大通りばかりではない。あえて裏道を選んだこともある。それにいつもの筆者らしく、間違って進んだ道もある。それも含めてよい思い出になっていて、目指す場所に最短距離で道を少しも間違わなかったというのは味気ない。初めて訪れる町では多少道に迷った方が楽しい。ただし、迷い過ぎると、「バー露口」を探すのに1時間も要するといったことになるので、無駄に歩いた距離は最短距離のせいぜい2,3割が限度だ。その割合を越すと、筆者もだが、着いて来る家内が大変だ。さて、だらだらと松山での思い出を続けるのも面白くないので、今日で最後とするが、未加工の写真はまだたくさんある。それらの中から適当に数枚を選んで使うが、まず最初はJR松山駅だ。この駅には驚いた。てっきり大きなビルが建っているものと思っていたが、昔のままだろう。ひょっとすれば漱石が降り立った時とほとんど変わっていないのではないか。このことにまず好感が持てた。なぜJR四国はもっと大きな駅舎に造り変えないのだろう。ビルを建ててもテナントが入らないと思っているのだろうか。この駅から南東1キロほどか、伊予鉄道の起点になっている松山市駅がある。そこにも行ったが、高島屋の大きな建物があって、JRの駅前より繁華だ。それでJR駅がビルになれが買い物客の取り合いになるとの予想があるのかもしれない。ともかく、JR松山駅は市の中央を東西に貫く路面電車の線路を抱える大通りの西の突き当りにあって、遠目にも駅舎の白い三角形の切り妻屋根が目立つ。これはこの駅が建った当初からあるものであったとしても、その後三角形の全面に白い覆いをかけたのは確かではないか。この駅舎のすぐ前に「坊ちゃん列車」の発着地があるが、これは路面電車とは違って予約が必要なようだ。筆者らは何度となくその小型の列車が路面電車の線路を走っているところを見たが、漱石が見たのはそうした鉄道で、とにかく市の宣伝になるものと言えば道後温泉と漱石、伊予柑くらいしかないので、古き明治を売りにし、また名前を「坊ちゃん列車」にすることに決めたのだろう。漱石は松山のことを『坊ちゃん』ではよく書いていないのに、それでも有名の前に屈して採用せざるを得ない松山市の苦しみが見えるようだ。JR松山駅構内はとても小さいが、改札口のすぐ前にゆるキャラが一体置かれていて、それが予想どおりに柑橘類をかたどった平凡なものであることにがっかりさせられる。その写真を2枚目に載せておく。
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 松山に行くことに決めた時、『芸術新潮』とは別にぜひ持って行こうとしたものがある。ふるさと切手で道後温泉本館を描いた62円切手だ。平成元年の発売で、もう24年になる。それを筆者は1枚だけ昔買っていた。郵便局で買ったのではなく、百貨店の趣味の切手売り場であったと思う。なぜ郵便局で買わなかったのかと言えば、当時は京都では近畿地方で販売されるふるさと切手しか買えなかったからだ。つまり、道後温泉をデザインした切手を買うには四国に行かねばならない。それは無理であるから、ふるさと切手は当初全部揃えるのは難しかった。それが数年経った頃か、各都道府県にひとつだけある本局の窓口で全国のふるさと切手が手に入るようになった。ただし、販売枚数が少ないものはすぐに売り切れてしまう。この道後温泉本館を描いた切手をストックブックから外し、カード入れに収めた。それを何に使うか。去年3月にいわき市に行った時も同じようなことをしたが、はがきサイズのスケッチブックに写生し、その片隅に切手を貼って地元郵便局で風景印を捺してもらうのだ。風景印は最低50円のはがきか切手を使わねばならない。これが4月から52円に値上がりしたので、今までの50円切手だけでは風景印を捺してもらうことが出来ない。これが筆者は大いに不満だ。わずか2円をけちってのことではない。はがき大のスケッチブックであるから、そこに2円切手を余分に貼るとなると、せっかく描いた絵が見えなくある分が大きいからだ。では52円切手を1枚だけ貼ればいいと言われるが、昔かったふるさと切手にいいものがたくさんあって、それらを使いたいのだ。たとえば平成元年に出た前述の道後温泉本館の切手は、筆者にとっては若宮テイ子さんが道後温泉について語った言葉やその頃の記憶とつながっている。そのとっておきの切手をついに使うことが出来る機会が訪れた。それにはスケッチブックと色鉛筆などを持って行くことと、また立ったまま描くからにはそれなりの時間と労力を費やす覚悟も必要だ。筆者が描いている間、家内は同じようにじっと立って待っているから、半分気が気でない。それで、ふるさと切手の図案と同じ角度で道後温泉本館が見える場所に立ち、家内から借りたボールペンで描いたが、手をインクで真っ黒にしながら、20分近く要したと思う。ところが出来上がった絵は隙間がない。仕方なしにもう1枚別のものを描いた。それは先日書いたように切り妻の上に乗る宝珠と波をデザインした鬼瓦で、余白を充分に取った。そのスケッチブックを持参するのは郵便局だが、松山市の最も大きな郵便局でなければ土日は開いていない。また閉まっていても郵便物を受け取る窓口は開いている。その郵便局の場所は予め調べていた。それは何と洲之内徹の生家跡から徒歩5分ほどのところにあった。40歳くらいの女性が風景印を手わたしてくれたので、自分で捺した。その宝珠と波の瓦の絵にそばに道後温泉本館の62円切手を貼った様子の写真をよほど今日は載せようと思ったが、写真の枚数が多くなる。
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 さて、もう一段落書いておく。「バー露口」を出た後、大街道商店街に抜けるのは店前の道を一直線に100メートルほどで、そのあまりにわかりやすい位置に驚いた。それをなぜ1時間も道に迷ったのだろうかと不思議であった。それはさておき、バーから大街道商店街の明るみの中に入り込む直前、バーを同じ南側に「すしまる」という民藝調の和風レストランがあることに気づいた。それで翌日はそこで昼を食べることにした。料金は安くておいしかった。京都では5割ほどは高い。「すしまる」が目に留まったのは、大久保直丸先生の「なおまる」に似ていると思ったからだ。店内は民藝調で、大久保先生は少なからず芹沢銈介を意識していたので、その連想は先生に対して失礼には当たらないだろう。それはいいとして、「バー露口」の前にも行ってみたところ、夜の町として当然だが、明るい陽射しの中でまだ眠っているようで、しかもどの店も薄汚れて見えた。それでいいのだ。洲之内は「バー露口」ではいつもウィスキーの水割りを飲んだらしいが、『気まぐれ美術館』が終わりに近くなった頃は毎晩ウィスキーを飲みながら、買って来たジャズや中島みゆきのレコードを聴いた。たぶんいつも眠るのは筆者と同じく日づけが変わってからであったはずで、体に悪いことをし続けていた。筆者はウィスキーを買ってまでは飲まず、夜更かしであってもステレオでうるさい音楽をかけながら、ひたすらパソコンのキーを叩くだけで、健康的には少しはましか。ついでにどうでもいいことを書くと、5年前に『芸術新潮』1994年11月号の表紙の写真を載せた時、キーボードを一緒に写し込んだ。そのキーボードは箱型のワープロのもので、当時はワープロでこのブログを書き、それをフロッピーに保管し、別のワープロでMS-DOSに変換してパソコンに読み取らせていた。なぜそんな面倒臭いことをしていたかと言えば、そのワープロは親指シフト・キーで、両手両指をフルに使うことに筆者は慣れていた。パソコンではキーの並びが全く違い、また最初からそれを覚えたが、ブラインド・タッチが出来ず、両手の人差し指だけを使っている。そのため残りの指が運動不足になっているせいか、特に左手の中指や薬指が曲がりにくくなってしまった。習慣とは恐いものだ。親指シフトは日本だけのもので、それがすっかり駆逐されたのは文化の衰退だ。今なお筆者はパソコンのキーには馴染めず、そのためにこうして文章を書くのにワープロを使っていた時よりはるかに多くの時間を費やし、また打ち間違える。洲之内は原稿は原稿用紙に書いた。『気まぐれ美術館』1話分のそれが60万円ほどで古書店で売られているが、もうそういう作家は出て来ないのではないか。筆者はいつでも文章を手描きする用意はあるが、筆者のそれをほしがる人はない。
●松山にて、その8_d0053294_0343488.jpg

by uuuzen | 2014-04-16 23:59 | ●新・嵐山だより
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