枝が伸び放題になる季節が始まった。一昨日は裏庭の合歓木の太い枝を切った。高さ2メートルほどの脚立を昨年買ったので、それを伸ばして梯子にし、幹に立てかけた。だが、裏庭向こうの小川沿いの道は幅が60センチほどしかなく、梯子の片方の足が小川側に外れる可能性が大きい。
結局ほとんど梯子は役に立たず、フェンスをよじ登って幹の高さ2・5メートルほどの二又になった箇所に立った。そこからどうにか手を伸ばして枝を切り取ったものの、もう1本やや遠いところに伸びている枝も邪魔だ。それを切り取るには小川の上に張り出している幹に腹ばいになって1メートルほど前進し、そのままの格好で鋸を使わねばならない。それはかなり危険な格好で、バランスを崩せば3メートルほど下の小川にドボンだ。水に濡れるのはいいとしても、きっと骨折する。どのようにして切ったものかひとまず休んで考えることにした。妙案はないことはない。腹ばいにならずにもっと手前の、つまり幹が二又になった箇所に立って、長さ2メートルほどの棒の先に取りつけた小型鋸で切ればよい。多少手こずるが必ず切り落とすことは出来る。ただし、そのいくつにも枝分かれしたそこそこ太い枝は小川に落ち、下流に流れて行く。そうさせないためには鋸の刃を入れる少し向こう側にロープを巻き、反対側のロープの先端を太い幹にくくりつけて、切り落とした瞬間に宙吊りになるようにする。ところが刃を入れる箇所は腹ばいになって前進しなければ手が届かない。どのようにしてロープを巻くかがわからない。今日の投稿の話題と何の関係もないことを書いている。「枝」という言葉を最初に書いたので、そこに戻るとして、枝は道に似ている。筆者は知らない道をうろつくのが比較的好きだが、今日は生まれて初めての道を歩いた。後日書く予定だが、大阪で知人のコンサートがあった。その会場まで地図片手に歩いた。コンサートが終わって来た道を戻らないことにした。というのはコンサート会場やその付近は知らない場所だが、500メートルほど離れるとよく知っている。そこでそのよく知っている場所に向かおうとすると、驚いたことにわずか100メートルでその場所が通りの向こうに見えた。それはちょっとした衝撃であった。誰しも子どもの頃からよく知っている場所があるだろう。自宅を中心に四方八方に枝が伸びるように道が広がっていて、よく歩くのはだいたい半径2,3キロまでだろう。小学生や中学生ではそうではないか。それ以遠は大人になってから知るとして、自宅を中心に半径10キロ以内のすべての地域をつぶさに歩き回るかと言えばまずそんなことはない。田舎では別だが、道が迷路のようにたくさんある都会ではそうだ。今日のコンサート会場は筆者が生まれ育った家から直線で3キロほどか。もっと少ないかもしれない。そのすぐ近くまではよく知っているのに、その会場付近は全く知らなかった。そして、大阪にもこんなところがあるのかと驚いた。

枝としての道はどこまでも続いている。だがそうだろうか。袋小路はあるし、車が入れない細い道もある。そういう道はグーグルのストリート・ヴューで見ることは出来ない。先ほど今日訪れたコンサート会場をストリート・ヴューで確認すると、その建物を中心に半径100メートルほどは道が狭く、ストリート・ヴューで見られる対象にはなっていなかった。それでまた驚いた。大阪の街中にもまだそんな場所がある。ストリート・ヴューで確認すると、まるでその道や家の前を通った気になれる。今日のコンサート会場は全くと言ってよいほど建物さえ見えない。建物のずっと手前で車が道を通れないようになっているからで、そういう場所があることが何となく楽しい。何でもネットで丸裸状態というのは味気ない。枝としての道はどこまでもつながっていると思うのは間違いで、手の届かない枝もあるのだ。そこにどう到達すればよいか。実際に自分の足で歩くほかない。前にも何度か書いたが、よく知っている道があるとして、その道沿いにはたくさんの家が並び、その大半の内部はどうなっているのかわからない。さらにそれらの家の住民の心の中もわからない。人間はよく知っていることはきわめて少ない。そして人間は何とひとりぼっちで孤独かと思う。よく知っていると思う場所ですら知らないことの方がはるかに多い。はるかどころではなく、ほとんど何も知らない。友人Nはよくひとりでも飲みに出かけたので、大阪の繁華な場所にある居酒屋には詳しかった。だが、筆者のように美術には無関心であったので、美術館という場所にはおそらく一度も訪れたことがない。それでも不便を感じたことがないはずで、人間は無関心なことがたくさんあってもいっこうにかまわない。すべては興味の問題で、興味のないことはこの世にあってもなかっても自分には関係がない。筆者はそう納得しながら、行ったことのないところは行ってみたい方で、今日のコンサート会場を見たこともよい経験であったと思う。それと同じように思ったのは大阪天満宮の梅花殿に入ったことだ。この天満宮の境内は今までに何度か訪れたことがある。境内だけなら無料だ。従姉の旦那さんはひとりでよくあちこち出かけるが、有料の施設に入ることはいやで、その前を歩くだけだそうだ。たとえば500円程度のお金を払えば寺のきれいな庭を見ることが出来るし、そのことをよく知っているのに、お金を払ってまで見たくはないのだ。せっかくその前まで訪れたのであるから、少し足を延ばせば未知のものに触れることが出来るのに、有料が馬鹿らしいと言う。その気持ちはわからないではないが、枝の少し向こうに手が届くのであれば筆者はそこに到達したい。お金は払った分だけ価値はあるものだ。有料がいやというのは、金欠であるからではない。興味の枝が先まで伸びていないのだ。そのため、無料であっても内部に踏み込まない。さて、梅花殿の盆梅展と名宝展だ。盆梅については先日書いた。今日は名宝の方だ。後で知ったが、チケットには盆梅と絵が印刷されている。

その絵は大阪天満宮が所蔵している円山応挙の作で、10数年前までは天満宮内部に保管されていたのが、管理が難しいという理由か、大阪歴史博物館にあるらしい。それが今年の盆梅展の際に一時戻って来て展示された。10数年ぶりかもっと経ってのことで、今後も公開されるかどうかわからない。筆者はちょうどいい時期に訪れたことになる。かなりの大幅で、ほとんど同じ寸法の横幅が向かって左にかけられていた。その様子を撮ったのが最初の写真だ。この二幅は有名な作らしく、応挙展に出品されたことがある。元来対幅であったのではなさそうで、表装がわずかに違う。二幅とも前に透明ビニールが下げられ、もしもの事故を防いでいたが、多少興醒めでもそれは仕方がないだろう。右幅は中国の故事に因んだ金箔地に描かれた著色画で、左幅は水墨の波濤図だ。応挙はこの天満宮のために描いたそうだが、大阪に来たのかどうかはわからない。大阪天満宮の本殿脇には有名な一対の石燈籠があって、その写真を撮るつもりが忘れた。確か韓天寿と貫名菘翁が揮毫している。それからすれば応挙が絵を奉納したとしても全くおかしくはない。係の女性はとても親切で、説明もよくしてくれた。その話で知ったが、この神社は大塩平八郎の乱の際、川の向こうから上った火によって焼けたそうで、本殿と梅花殿も新しいそうだ。今までに5,6回焼けているらしく、そのたびに建て直された。大塩の乱の後は数か月後には建ったらしく、それほどの当時の大阪は裕福であり、またこの天満宮を大事に思っていた。今も天神祭で神輿が着く場所であり、毎年TVで映るから、大阪にはなくてはならない。京都の北野天満宮よりかなり境内が狭いのは戦後土地が削られたからかもしれない。周囲はビルが建つなど、北野天満宮のような落ち着いた情緒はないが、大阪の街中でしかもさほど広くない敷地ではそれを望む方が無茶だ。さて、梅花殿は応挙の大幅を二点飾ることの出来る床の間があるほどの建物で、盆梅とともにその内部空間を味わえたのはよい機会であった。中庭に相当するのだろうか、大きな石燈籠や紅梅白梅が咲き誇る区画を眺めながら進む廊下があった。最後の部屋から出ようとした時、係員は一時的に廊下沿いの襖を閉じた。結婚式が梅花殿隣りの新しい鉄筋コンクリートの建物で行なわれていて、花嫁の一行が廊下を歩いてその建物に向かっていたからだ。その廊下は今日の3枚目の横長写真の左端に見えている。絵の話に戻ると、応挙以外はあまり有名ではない、円山四条派の流れを汲む画家の作ばかりであった。応挙を幹とすれば分かれた枝は数多く、その末端はほとんどの美術通にとってもぼやけている。何度も火災に遭っていることは、もっとたくさんの書画を所蔵していたかもしれない。あるいはたくさんあっても一堂に見せる機会はまた別ということか。江戸時代の大阪画壇はそれなりに有名な画家を輩出したが、京都に押されて興味を抱く人は限られるのが実情だ。応挙の作を目玉にするところにもそれがよく表われている。そうそう、ついでに書いておくと、当日はその後あべのハルカスの展望台に上り、帰りは天神橋筋商店街の古本屋に本を取りに行った。そこで見かけたのが北野恒富の横幅の著色の美人図で、店主は35万円と言った。大阪の古書店が大阪を代表する画家の作品を発掘して来てさりげなく飾るところにそれなりの矜持がある。