尽くしたい気持ちでいっぱいなのに、ストーカーだと思われかねない。相手に不気味な感じを与えずに熱い思いを伝えるのは難しい。恋心で迫っているのに、「気持ち悪い」ならまだしも警察に相談されれば、恋もいっぺんに醒めると思うが、世の中にはそうではない本当にしつこいストーカーもいる。
今日取り上げるイエジー・スコリモフスキ監督の2008年製作の映画をDVDで9日に見た。右京図書館に返却する当日で、ぐずぐずしている間に返却期限の2週間が経っていた。DVDのケースの写真を見るといかにもポーランドという冷たく暗い空気だ。フランスとの合作だが、恋をテーマにしている点がフランスの受け持ちだろう。映像詩というほど美しい場面はないし、物語は単純でしかもかなり失笑物で、気の弱い男が女の部屋に4晩にわたって忍び込み、ついにそのことが発覚して警察に捕まるという内容だ。片思いの最たるもので、男の気持ちはわからないでもないが、女が眠っている間に部屋に入るのは常軌を逸している。そのうえ、女が毎日飲む茶に使う砂糖に男の母親が使っていた睡眠薬を混ぜ、女がぐっすり眠っている間に侵入する。睡眠薬で女を眠らせるというのは先日書いた『ビリディアナ』と同じで、ヨーロッパでは気弱な男が女を物にしようとする時に使う普通の手段なのかもしれない。筆者は睡眠薬を飲んだことがないので、それを見たことがないし、また手元にあっても捨ててしまう。薬をそもそも信用していないからでもある。睡眠薬が効果がないと思っているのではない。薬は効果がある一方で毒にもなっているはずで、そのために信用していない。と言いながら、先日松山に旅行した時、花粉症が最大限にひどくなり、目の痒みと洟垂れが止まらなかった。そこでついに大街道商店街の薬屋に入り、目薬を買った。最初500円程度のものを選んだ。するとレジの男性はそれよりこれがいいと別の商品を薦めた。2000円近く、一瞬ためらったが、どうせ使うのなら即効性がよい。それほど苦しかった。買ったその場で家内に両眼に一滴ずつ注いでもらった。10分後にはもう痒みは収まった。3、4時間おきに注入する必要はあるが、洟の出具合もかなり減った。やはり値段だけはある。だが安心は禁物で、薬で無理に抑えているだけのことで、根本的には治っていない。それでも表向きの症状が劇的に改善したからいいとしよう。睡眠薬に戻ると、男は女を眠らせて何をしたかったかと言えば、裸にして触れたかったのが第一ではない。そこが不思議だが、この映画の男は女を犯したくはなく、自分の優しさを理解してもらい、それで好きになってもらえると思っている。女心を理解せず、勝手な暴走だ。だがそんな男は少なくないだろう。女と交際したことがなければたいていはそうだ。
本作では女の育ちは描かれない。男は母に育てられ、兄弟もいない。ポーランドのどこにでもあるような村あるいは町かもしれないが、人がさほど多く住んでいない地域に男は老いた母と暮らしている。母は病床にあって、死んでしまう。その頃には男はある女性に恋心を抱き、彼女の部屋に入る込むことを計画する。男がその女性に関心を抱いたのは、近くの川で釣りをしていた帰り、その女が顔を覆った男によって背後から強姦されている光景を目撃したためだ。普通ならそんな光景を発見すれば大声を上げて強姦を止めさせると思うが、実際そんな現場に出くわすと恐怖のあまり声が出ないかもしれない。強姦するほどの男であるから屈強であるだろうし、また近くには誰もいないから強姦を中断した男は何かを手にして向かって来るかもしれない。ともかく、本作の主人公の気弱な男は現場を目撃しながら釘づけになってしまう。そして強姦野郎が事を遂げて逃走した後、男は女に接近し、顔を見る。女は両手を縛られたままで、露わになった素足の赤いペディキュアがあちこち剥がれている。男は女を強姦された姿のまま放置し、その場を去る。女は強姦野郎の顔を見ていないから、気弱な男に強姦されたと勘違いする。こういうことはままあるだろう。警察が動き、男は尋問、そして収監される。女が強姦されているところを目撃したと主張しても聞き入れられない。体格のよい同房者から肛門性交されてしまうなど、さんざんな経験をする。男の仕事は病院で死亡した患者を焼却することで、死体が嵌めていた指環をネコババした疑いをかけられるなど、気弱な性格のあまり、周囲から軽んじられる。友人はもちろんいない。そのように育ったのは母の育て方に問題があったという設定だが、その様子は詳しくは描かれない。ここしばらく日本では変な男が変な事件を起こしているが、傍目には本作の男もそうした部類に入るかもしれない。睡眠薬で女を眠らせるという行為だけでも充分警察行きだ。だが、変な事件を起こしたかと言えば、その変さ加減が少し違う。気味悪い、理不尽といった意味での「変」ではなく、気弱で純真という要素が大いに混じっている。本作が言いたいのはその部分だ。そうでなければただのグロテスクな映画になってしまう。
つい最近見たばかりであるし、また先に単純な内容と書いたが、時系列順に場面が現われないので、男が強姦場面を目撃してからどれほど経って女の部屋に出入りするようになるのかよくわからない。囚人であった月日もそうだ。ひょっとすればごく短期で出所したかもしれない。そして出所後は当然のことながら病院から解雇されるが、退職金を手わたされる部屋で病院の看護師など職員の集合写真を見て、強姦された女の名前が「P.Anna」であることを知る。美人というほどでもない。40代だろう。太り気味で看護師だ。名前を知って俄然思いが増した男は、退職金でダイヤの指輪を買いに行く。どれほどするのだろう。7,80万円といったところか。もっとするかもしれない。貯金がさしてあるはずもないのに、そうとうな奮発ぶりだ。そこに男の舞い上がりぶりが見られる。話したことのない相手にそのような贈り物をしようと考えることが異常で、また滑稽でもある。だが、それほど女が愛おしいのだ。それは強姦されて憐れを誘ったからでもあるし、女が好みの美しさを持っているからでもある。そして、強姦された失意を自分がどうにか消し去ってやりたいと思ったのだ。だが、病院仲間が多い相手と比べて自分は病院の裏手でみんなから隠れて死体を焼くのが仕事で、とても話す場面が得られない。女は別世界の人間なのだ。そのことを男は自覚しているが、どうにか思いの丈を伝えて一緒に暮らしたい。こうなると、典型的なストーカーになるしかない。男が女慣れしていれば正面切って話しかけるが、相手は強姦された時に自分の顔を見ているし、またそのことで自分は警察送りになった。だが、そのことは映画では描かれない。女の証言によって男が収監されたのであれば、男は女を恨むかもしれないし、女はそのように考える。また女にそのように思われていると男が考えるからこそ、女を眠らせて部屋に出入りすることを計画したのかもしれない。ここでひとつ疑問に思うのは、女は真昼間に強姦された経験をしたのであるから、部屋の戸締りはしっかりするべきなのに、男は窓ガラスを割ることなく部屋に入る。女は猫を飼っていて、その猫の出入り口が窓に設けられていて、その部分に手を突っ込むと鍵が容易に開く。そのことを女が知らないのはあまりに迂闊で、そういう性格のために強姦されたとも言える。
男が女の部屋に出入りすることを考えたのは、女の部屋の窓が真正面に見えるところに自分の家が建っているからで、夜になると望遠鏡で女の眠る様子を眺めるようになる。そして茶を飲む習慣を知り、砂糖に睡眠薬を混ぜることを思いつく。女の部屋までの距離は30メートルほどだ。女の部屋が別のところにあれば男は女に接近する方法がなかった。真正面に住んでいることが男には幸運で、恋心が一気に募った。だが、この映画は男の行動をかなり滑稽に描く。窓から落ちたり、女にばれそうになったり、深刻な映画のようでいて、くすくす笑いが随所に用意されている。監督は男を馬鹿だと思っているのだろうか。そうではなく、強姦する男の対極にこういう男もいることを言いたかったのだろう。だが、どちらも極端な点では同類で、女から拒否される。この映画の女はその意味ではごく平凡で、同じように平凡な男と暮らすはずだ。では気弱な男はどうなるかと言えば、一生気弱のままで、女に縁がない。いくら女に心から尽くすという思いを表現したところで、女はほかの男をたくさん見ているし、多くの男の中から最も優秀と思える者を選ぶ。その基準の中には「気弱」は含まれていない。「気弱」は「優しい」と同じようでいて違う。女はよく優しい男が好きと言うが、それは気弱という意味ではない。その反対に強引に引っ張ってくれて、しかも優しいことを求める。では、この映画の男は強引ではないのかということになる。女に睡眠薬を飲ませることはかなり強引であるし、部屋に侵入することもそうだ。だが、「強引」を勘違いしている。睡眠薬で眠らせることは女の開いた目をまともに見つめられないことで「気弱」で、「気弱」ゆえの大胆さは不気味に思われるに決まっている。「気弱」であるのは育ちの影響が大だが、誰しも大人になればそれなりの自信を持つし、またそれがなければ仕事が出来ない。死体を焼く仕事は専門職であるから、それなりに男は自信を持っていたはずだが、女とまともに顔を合わせたのが強姦された直後というのがよくなかった。憐みと恋心が混ざってしまい、また女は仮に男が強姦野郎でなくても避けたい人物だ。インターネットの手軽さによって見知らぬ者同士がその気さえあれば簡単に出会えることになって、本作の男は日本の若者からは信じ難いほどの臆病者に思えるかもしれないが、本作ではインターネットは登場せず、100年前のことかと思うほどに原始的だ。だが、それだけに生身の異性を前にしてのことであり、しかも異性との出会いが乏しい地域であるから、男の燃え上がり具合はきわめて動物的で直情的と言える。もちろんネットを介在しての男女関係も同じように言えるが、素朴さや純真さを持ち合わせての動物的となれば、ネットの力はそれを減じているのではないか。本作はネット時代に作られているのに、土臭いところが面白く、またそこに監督を意味を込めているだろう。
さて、映画の題名にあるように、男は女の部屋に4晩通う。女にはほとんど触れないので夜這いとは言えない。2日目であったか、女の部屋に大勢の同僚が訪れる。誕生日のパーティだ。その様子を自分の家から望遠鏡で見つめる男の心を思うと切ない。自分もどれほどその仲間に入りたいことか。だが、自分は病院の仕事では影の部分を担当している。パーティが終わって全員部屋から出た後、男は忍び込む。女はベッドで酔って眠っている。睡眠薬を使う機会はない。男は荒れた部屋をきれいに掃除し、持参した赤い薔薇の花を飾り、そして女の指にダイヤの指輪を嵌めようとする。その瞬間、指環が外れ、床に転がり、ベッドの脚近くの板の隙間に入り込んでしまう。必死にそれを探す男だが、この場面で男の行為がどういう結果を招くかは想像出来る。男は指環をどうにか探し出し、女の指に嵌めることを諦め、化粧鏡の引き出しにケースとともに収める。翌日、女は帰宅してその引き出しを開けた途端、指環のケースに気づく。不思議に思う女で、誰かが部屋に侵入したことに初めて気づく。男はもっと女の部屋をまともかつ堂々と眺めるために家に大きな窓を設置する。白い木枠の窓をホームセンターで買って来て、家の古びた板を電動ノコギリで切り取って嵌め込む。真新しいその窓と、古ぼけたままの木材の壁が対象的だ。その窓からだと、以前よりもっと近くに女の部屋が見える。だが、ついに男が女の部屋を出入りしていることが発覚する。また警察送りになり、なぜ4晩も女の家に出入りしたのか尋問される。女はダイヤの指輪を男に返却しながら、かつての強姦はあなたではないと呟く。女の証言によって男は収監は免れた。そして自宅に戻った男は新しい白い窓の前に立って驚く。真正面に見えていた病院の寮の前に高さ3メートルほどのブロック塀が造られ、女の部屋の窓どころか、建物も見えない。これは男が女から断られたことと、社会的に断絶されたことを意味している。もう病院に勤務することも、女に会うことも絶望だ。映画はそこで終わっているが、その後の男はどうするだろう。以前のように女性に縁のない人生を歩むしかないというのが大方のところだろう。現実にはこういう男はたくさんいるのではないか。それは仕方のないことだ。そういう人物の全責任とは言わないまでも、配偶者を獲得することの意志と行動が乏しい。それに今では離婚が珍しいことではなくなり、結婚しない人物が肩身が狭いということもない。ただし、好きな異性がいるのにその思いが相手に伝わらないのはいつの時代でももどかしく、男も女もさまざまに苦しむ。本作の男は女にもっと違う接近の仕方をしていれば恋が成就したかもしれないが、その別の接近が最初から出来る男なら女に不自由はしない。