今日の夕方、京都高島屋で観て来た。小倉遊亀の作品は、生まれ故郷にある滋賀の県立近代美術館の常設展示室で観ることが出来るので、百貨店でよく開催されるこうした展覧会はどうせ同美術館から借りて来て展示するのだろうと思い、行くつもりもなかった。
だが、このブログに書く内容が出来ていいかと考えて観ることに決めた。そして予想に反して、初めて観た作品がけっこうあった。全体の4分の1程度だろうか。売店で図録を見ると、展示されていない絵も載っていたから、巡回地によって若干作品が変わるようであったが、とにかく行ってよかった。新鮮な気分で観ることが出来た。迷った時は行くことに限る。会場は人影がとても少なく、やはり小倉遊亀の作品の観る機会が少なくないことを反映していたと言える。それでもみんな熱心に観ていた。静かな環境で鑑賞出来るに越したことはないので、主催者には面白くないだろうが、来場者が少ないほど作品の記憶も鮮明に残る気がする。筆者の手元には1982年5月22日に買った小倉遊亀展のハードカヴァーの図録がある。米寿記念の回顧展だ。図録には展覧会のチラシを挟むことにしているが、今回のも含めて小倉遊亀展のものは10枚に及ぶ。特に生誕100年の年には集中して日本各地で開催されている。筆者が所有する図録は1冊のみで、とびらのタイトル下には文化勲章受章者と書かれている。その次のページには「ごあいさつ」として『女性として現在唯一人の文化勲章受章者である小倉遊亀画伯の米寿を記念して…』と書き始めてあるが、これは紛らわしい。小倉遊亀は上村松園、野上弥生子に続いて3人目の受章者で、画家としてはふたり目になる。上村松園は1948(昭和23)年に73歳で文化勲章をもらっている。小倉遊亀の受章は1980(昭和55)年、85歳であるので、かなり遅いと言える。だが、それからまだ20年を生き、制作活動を続けたので、これは画家としては異例の長命だ。今回の展覧会では105歳で描かれた作品が最後のコーナーに数点展示されていたが、文化勲章を得てから以降の20年間の作品は、みな同じような静物画の小品ばかりで、手元にある23年前の図録で充分に生涯の作風が一覧出来ると言ってよい。遊亀は本名だが、まさにこの名前のとおり、長命で、しかも明るくて健康的な、悠然とした香りを湛える作品を描き続けた。105歳の長い生涯において描かれたどの作品にも、不幸や悲惨の面影は見出せない。
遊亀は明治28年に大津で生まれたが、その翌年には京都の知恩院の古門前町で梶原緋佐子が生まれている。遊亀は院展、梶原は日展に所属していたので、両者の作品が同じ壁に並ぶことはなかったが、戦後の女流日本画家を考えるうえで、ふたりの足跡は興味深いものを示している。梶原は1988年(昭和63)年に91歳で亡くなっているが、遊亀同様に長命だ。1979年に勲四等宝冠章を得ているから、叙勲されたのは遊亀より1年早い。だが、勲章の格から言っても、いかに遊亀の絵が多くの人々に愛されるタイプのものであるかがわかる。梶原は凛とした女性ばかりを描いたが、この点では上村松園によく似ている。大正時代のその絵は洋画風で、甲斐庄楠音のようなリアルな表現を目指しているが、これは遊亀にない作風と言ってよい。しかし、それは遊亀の画家としてのスタートが梶原より遅く、大正の15年にわずかに2点のみ入選作をものにしたという事情を考える必要がある。デビュー作は速水御舟や小林古径の目にとまり、師である安田靫彦かも激励を受けたが、近畿の出身であるのに関東に拠点を置く画家とつながり、しかも鎌倉に居をかまえたことから、梶原の絵とはかなり異なるものになったのは当然だろう。また、遊亀の絵に洋画の影響がないかと言えば、それは全く違って、ほとんど洋画であるようなモダンな色彩とフォルムの作品群が昭和30年代後半には集中して存在する。そんな時期を抜けてまた輪郭線を生かした仏画が描かれ、そして器と花を同居させる静物画の時代が訪れる。同じようなモチーフの静物画はすでに戦後間もない時期に描かれいるが、それは速水御舟の影響が強いもので、画面もどこかひんやりとしているが、同じモチーフを扱いながらも次第にデフォルメの度合いが強くなり、輪郭線を用いずに金箔を貼り詰めた画面に強烈な色彩をべた塗りするなど、明らかに描き方の変遷がある。これは何をどう描くかを考えた場合、何をに関してはおおむね戦後に固定し、どう描くかの点で変化し続けたと言ってよい。モチーフの固定は、アトリエにいながらにして得られる素材専門となったことを示していて、これは家に籠もりがちな女性らしさの現われで、梶原にも共通する。あちこち旅をして、風景画を描くことは遊亀にも梶原にもなかった。だが、それはそれであって、絵の格とは関係がない。晩年の遊亀の絵からはどこかマティスを連想させるものがあるが、物の形とその色に飽くなき関心を抱いていることがわかる。遊亀の絵はどれも具象だが、ほとんど抽象画を見る楽しさに似たものがそこにはある。これは梶原にはないもので、遊亀が日本画のみならず洋画にも関心が強くあったことを示す。そう考えると、梶原の洋画接近は大正時代に完了し、遊亀は昭和になってから、少しずつ学んで行ったと言える。梶原の描く大正時代の洋風表現をそのまま続けた場合、どのような絵として発展し行ったか興味のあるところだが、昭和になってからは、師である菊池契月の作風により接近し、土田麥僊が甲斐庄の絵に対して言ったいわゆる「穢い絵」に近いような作風から、もっと清潔感溢れる絵に移行する。この変化がなぜあったかは、時代の嗜好の変化によるとしか言いようがないが、遊亀にそんな大正ロマン時代特有の絵の時代がないことは、遊亀の絵をより時代の新しいものとして感じさせることに効果があるとともに、また一抹の面白味のなさもつけ加えている。明るい絵は確かにいいが、明るい絵しか描かなかったというのは、鑑賞者の立場から言えば、画家としてはやや物足りない気がするからだ。
だが、そうだからと言って遊亀が苦労をせずに画業を続けたことにはならない。図録の年譜にはそうした画業と直接に関係のない苦労話は書かれていないが、昔読んだ本の中に、遊亀が日々の生活でどれほど食べる物にも困っていたかが紹介されていた。そうした苦労は誰にでもそれなりにあるとはいえ、遊亀の場合、それが絵から感じられないので、特に記憶している。生活がどれほど苦しいとも、それが絵に表われてしまうことを遊亀は拒否していたのだろう。絵は絵の世界であって、個人の生活苦などを越えたところにあるとする立場だ。これもまたそれはそれで、そうでない絵より下とか上とかの問題ではない。どんな人間にとっても苦しさは永遠に続かないし、また元気を取り戻した時には、遊亀のような絵は大きな意味を持つだろう。また梶原の話も持ち出すが、梶原には自画像があるのだろうか。筆者が所有する1991年に開催された『梶原緋佐子遺作展』にはその掲載はない。そして、梶原の描く女性像はみなどこか梶原に似ている気がする。こう言ってはまずいが、梶原の顔を理想化したものに見えなくもない。それはきっとそうだろう。画家は常にいい絵を描きたいという欲求がある。それはある意味では自分を内面を見つめて、それを磨き続ける行為と言える。となれば、画家の描く絵が画家自身の容貌に似ているのは当然とも言える。そんな目で遊亀が描く子どもたちや若い女性像を観ると、どれもどこかで遊亀と血のつながった人物に思える。そして遊亀には自画像がある。昭和37年に描かれた「画人像」で、これはこの当時の日本画家にあっては珍しい絵ではないかと思う。遊亀はその絵からほんわかとした温和な人柄が想像されるが、実はかなり自意識が強く、また芯がとてもしっかりした人だった。そうでなければ100歳を越えてもなお絵筆を持つことなど出来ない。明治生まれの女性であるので、精神が強靱なのはあたりまえと言えるが、梶原の絵のようにその前に立つと凛々しい印象がまず立ちのぼって来るのは違って、遊亀の絵は一見のんびりしていて寛ぎがあるにもかかわらず、その奥にこうでなければならないという強固な意思が見えているのは、遊ぶ亀という名前にふさわしいような、人間としての線の太さを伝えていると言える。
もう何年前のことか知らないが、NHKで最晩年の小倉遊亀の制作の日々を特集した番組があった。それが10数分に短縮されて、会場の出口近くのコーナーで上映されていた。文化勲章受章後すぐのインタヴューが少し映ったが、その時の遊亀の応えがよかった。自分は文化勲章に値するような絵をまだ描いていないときっぱりと言い放ち、そして最近の若手画家が形や色などもはや問題ではないと発言していることに対して遊亀なりに意見を述べていた。それは自分は老いて古い人間ではあるが、四角い画面に描く絵というものは、形や色を無視しては成立しないものと思うという確信で、そこには自分の絵の道を信じて60年描き続けて来た自負がはっきりと見えていた。にもかかわらず、遊亀が決して満足していないこともまたよくわかった。画家にとって本当に満足行く絵など生涯描けるはずはないからだ。ましてや内面が厳しい遊亀なら当然だろう。インタヴューでの声の発し方には毅然とした態度があり、そこに遊亀の絵の内部に潜む確固したものを見た気分がしたが、遊亀のような大輪の花が咲いたような絵を描ける才能は当分出ないかもしれない。遊亀が言うように、遊亀のような絵はもう古い世代のものでしかなく、新しい才能はどんどん新しいことに挑戦しようとする。だが、形や色に囚われない芸術が存在するだろうか。形や色をいい加減にして済ました絵が芸術であることが許されるだろうか。決してそうではないと思う。たとえばこんな絵があった。昭和13年の「童女」だったと思うが、ひとりの坐る童女の前にお多福豆やその鞘がたくさん置かれていた。主役はあくまで童女だが、添えられた豆やその鞘は実によく観察して特徴を捉えたものであった。写生が徹底しているのだ。その豆の部分だけ切り取っても絵になるほどで、こうした点景を疎かにしない画家は全く信用してよい。そして、豆や鞘の形の面白さは、形の妙を常に考えている人にはよくわかるもので、さっさと見過ごしてしまいかねない細部に実は画家の並々ならない研鑽の跡があるのだ。豆のような面白い形をしたものを人物と一緒に描くことを遊亀はよくしたが、それは観音菩薩が蓮の一輪の花を持っているのと同じことだ。そう言えば岸田劉生もよくそういう絵を描いた。それはさておき、遊亀には普通の野菜や人物が聖なる存在と同格に思えていたに違いない。遊亀の場合は、画家であるならば何でも描こうという姿勢もあったためか、人物や花などの自然の造形のほかに、器物も人や花や野菜と一緒によく描いた。人間が作った造形の面白さに着目するこの態度は、自身が造形家であることとの照応を示しているだろう。
そして今回の展覧会の見所のひとつは、遊亀が描いた器物の実物が絵のすぐ近くに展示されたことだ。全部で10点ほどはあったろうか。陶磁器がほとんどだが、漆器もあった。それらの実物を見ると、改めて遊亀が現物を忠実に描いていることに驚いた。単純化しているようでいて、ほとんど形も色も同じなのだ。漆器の台の上に置かれた花器が反射して、塗りの表面に映っている様子をさりげなく描き添えている作品もあって、これなどは、あまりにもそのリアルな表現力に感嘆したが、だが油彩画にあるような写実画ではなく、ほとんどよけいなものを削ぎ落とした単純な絵と言ってよい。にもかかわらず、その反射した立体表現が全体に溶け込み、少しも違和感を与えないのだ。これは本当に不思議なことで、単純に描いているように見せて、本質だけを鋭く描写し切っているからこそだ。この単純化と同時に本物らしさを強く求めるという態度の表われは、昭和53年の「或る御神像」や、薬師寺所蔵の「大津皇子」「天武天皇」「おもいのたま」の3点に代表的に見られる。平安時代の神像は木の重量感を生かした独特の単純化した表現によって作られているが、こうした神像に学んで、その顔や姿をほんの少し遊亀風に変化させるだけで、平安時代の香りと遊亀の個性が合わさった肖像画になっている。これも単純なものに立脚しながら、そこに別の味のある見所を加える技量をよく示している。同じことはひょっとすれば遊亀がしばしば描いた富本憲吉の九谷捩徳利などの陶磁器にもあると言えるかもしれない。単純な形の容器であるのに、それらは表面の絵つけや、肌合い、わずかな歪みによって、無限の味わいをかもしている。それを言えば人間そのものも同じであろう。植物も動物もそうだ。みなそれなりに面白い形をしていて飽きない。そんな独自の形と色をしたものをいかにして四角い平面に、そうであらねばならないという形にまで煮詰めて描くか。こんな問いを80年も続けたのが小倉遊亀という画家で、その重みは何度でも繰り返し確認し直すことで、なおよく実相がわかって来るものではないだろうか。