廊下状に建物の四方をぐるりと取り囲んでいるハルカスの展望台で、その一画に記念撮影をしてくれる場所があった。そこから向こうへは行けないのかと思っているとそうではなく、人の背後を通り抜けることが出来る。
明らかだ。このサービスを受けるために数十組が列を作っていた。持参しているカメラで撮影してくれるのだが、無料かと思うとそうではない。2000円ほど支払う。シャッターを押すのにそれだけ支払う人は大阪人ではまずいないだろう。よく確かめなかったが、それだけ支払うとA4サイズほどの写真をプリントしてもらえそうであった。今はデジカメなので、数分待っているだけで写真が出来る。そのコーナー以外のあちこちで同様に記念写真を撮っている人たちがいたので、2000円ほども支払う人がいるのは不思議だが、プリントしてくれる写真は縁が特製の青色で、そこに雲が浮かび、虹もかかっていたと思う。このオリジナリティにお金を払う人が多い。それに撮影のための人件費だ。70代半ばとおぼしき夫妻が撮ってもらっていて、それを見ながら若いなと思った。余生が残り少なくなっているので、そんな記念写真を撮っても仕方がない気がするが、人間は生きている間は高齢であってもまだまだ生きると思っている。それはさておき、家内が誰かに写真を撮ってもらおうかと言ったのに、筆者にはその気が全くなく、自分たちの姿を撮り合うこともなかった。よほどのことがない限り、この展望台を再訪することはないと思うが、ならば記念撮影をしておくのがまともかもしれない。あるいは2000円出して記念写真を撮ってもらう人たちは、再訪したくても遠方のためにそれが無理といった人たちとも考えられる。そうであれば、高齢なのに気が若いなと思うこともない。そう言えば2階のエレベーター口で待っている時、小旗をかざした若い女性に引率された数十人の団体を見た。遠方の人はどうせ訪れるならオープンした早々がいいと考えるだろう。地元大阪の人たちとそれ以外のところから来る人の割合がわからないが、年間5000万もの人に来てもらおうという考えは、大阪人本位でないことは第一、大阪人は嬉しがりにせよ、2000円支払って予約して展望台に訪れるだろうか。訪れるにせよ、1回だけではないだろうか。だが、この展望台は大阪人には魅力があっても、それ以外の人たちには眼下の景色に思い出があるのでもなく、ただ建物や人が小さく見えるというだけのことで、それほど見たいものではないような気がする。たとえばの話、大阪人が東京のスカイツリーの展望台にどれほど関心を持ち、また上ったことか。東京の街をほとんど知らない人が上っても面白くないだろう。
ハルカスが天王寺の賑わいを今後もっと増やすための力になるかどうかだが、TVはオープン記念に新世界特集を組み、そことハルカスが目と鼻の先であることを紹介する。通天閣はハルカス展望台から見ると、情けないほど低くて小さいが、通天閣からハルカスを見れば、高く聳えるのは当然でも、やけに細く見えるのではないだろうか。つまり、自分が立っている展望台からはどの建物も小さく見えるが、自分が立っているハルカスも実際はほかの建物と背丈以外は何ら変わらない。大阪市内に山のように高い建物が出現したのはいいが、山のような安定感はなく、街全体からすれば針ほどにもならない細い軸だ。そのピンのヘッドに立って大阪の街を見回すと、それなりに感じることがあった。そのひとつは筆者が生まれた場所がだいたいのところはわかるが、あまりにも建物群が小さくて目印になるようなものが認められない。たぶんあの辺りという見当がつくだけで、大阪市の広さを実感する。その広さは建物の密集で感じ取る。『よくもまあこれだけたくさんの家やビルがあるものだな』というのが素朴な感想で、次に湧いて来た思いはこういうものであった。数えることが出来ないほど多くの家や建物はみな人の思いが作ったもので、その1軒ずつに人がいて家財道具がある。そして人々は人間関係というものを築き、それぞれ異なる考えを持っている。街は人間の思いの産物で、その人の思いの中にたとえばハルカス展望台から見る街の景色がある。そしてそれは他者にはうかがい知ることは出来ない。展望台から見える景色は無数の家屋の集合であっても、いちおうは見える。ところがその家屋で暮らす人たちの考えは頭の中にあって見ることが出来ない。あたりまえのことだが、そんなことを考えさせるほど、四方のガラスから見える市内の景色は通天閣から見るものと違って迫力は確かにあった。だが、そう思う一方で、筆者は目の前の高いビルの屋上に、丸にHを記したヘリコプターの発着場を見て、そこがあまりにも狭いので運転手が無事癪陸するのは至難の技だなと関心し、さらにはヘリコプターや飛行機の操縦士はハルカス展望台からの景色よりもっと建物が小さく見えることを毎日のように経験していて、そのことで独特の思想を持っているのではないかと想像した。そしてさらに連鎖的に思い浮かべたのは、サン・テグジュペリ、そしてダンヌンツィオであったが、なるほど人が宇宙に行こうとするのはわかる気がした。昨日天井の高い家で暮らすと、子どもが大作曲家になれるというTVコマーシャルのことを書いた。それを言うのであれば、吹き抜け天井などと小さなことを言わず、天井のない大きな青空を見せる方がよく、ハルカス展望台に頻繁に連れて行くのはどうか。人間の生活の小ささを実感し、その一方でその小さな人間が街を造り、そしてハルカス展望台を造ることの面白さを理解する。そうそう、スタンダールの『赤と黒』の主人公ジュリアン・ソレルは、大業を成そうと心に決める時、街を見下ろす丘に立ったのではなかったか。眼下に見える街はハルカス展望台から見る大阪とは大きな差がありながらも、どの家も小さく見えることは同じで、人生を考えるにはいつの時代も人が生活する場を高所から見下ろすのがよいと見える。
昨日のネット・ニュースに、昨日までのハルカスのグランド・オープン3日間で、展望台を訪れた人が19000人であったとするものが目についた。一昨日の投稿で筆者は勘違いを書いた。15万人はハルカス全体であって、展望台ではない。筆者らは7日は展望台のみ訪れ、ほかの階には踏み入れなかった。それは去年10月下旬でおおよそ経験済みで、どの百貨店でも似たようなものだ。近鉄阿倍野店が下の階に入っていて、大阪南部ということでそれなりに難波や梅田、京都の百貨店とは品揃えが違うが、大同小異だ。1階か2階か、あるいは地下か忘れたが、ハルカスの外に出ようとして菓子売り場にガトー・ハラダの店があった。ギリシア神殿の柱を模した白い柱飾りを店員の背後に10本程度立てた店舗デザインは東京と共通しているのだろうか。同店のラスクを家内はよく買って来る。たまに京都大丸で出店がある。それが徐々に関西でも人気が上昇し、ハルカスではついに店をかまえることになった。そうなればもっと知る人は増えるが、先の大同小異そのものであって、どの百貨店にもある店がまたオープンするということに馴れてしまって感動がない。かといって、ほとんど知られない店を出させることは出来ず、百貨店は特色を出すことが難しくなっているのではないか。最近のTV番組で、百貨店の屋上遊園地が次々に閉鎖になっているというのがあった。筆者は息子が2,3歳の頃、百貨店の屋上遊園地に頻繁に連れて行った。ガンダム型の高さ3メートル近いロボットがあり、その内部の運転席に座って操縦桿を握って遊ぶもので、ロボットは勝手に動いてくれるが、それを子どもは自分が運転している気分になれる。同じ形のロボットが京都や大阪の数か所にあった。もう四半世紀前のことであり、遊戯具としての寿命が尽きたとは思うが、動かなくなればオブジェとしてどこかに据えておくのもいいものであっただけに、すべてスクラップになったとすればもったいない。話を戻して、昔はそのように手軽に子どもを遊ばせる場所が百貨店の屋上にあった。空が見えて開放的で、子どもにとってはちょっとした天国であったのに、経営的にはうまみがなかったのだろう。屋上から遊園地をなくした後、その場所をどう使うのだろう。少しでも営業床面積を多くしたいはずであるから、誰も屋上に上がらせないということはないと思うが、実際のところはわからない。そうそう、思い出した。60階のハルカス展望台は四方を巡る回廊となっていて、「天上回廊」と名づけられている。58階は「天空庭園」と呼ぶらしいが、植木はない。「その4」に書いたように、ここは天井がなく、雨ざらし空間だ。エレベーターが2台あって、それが直方体の筒状として端の方に立っている。この2台の直方体が幅80センチほどの距離が取られている。もっと狭いかもしれない。ともかく、この隙間を通ることが出来る。長さは10数メートルほどだ。筆者はそこを通り抜けたかったが、3,4歳の女の子が数人そこをはしゃぎながら何度も往復していた。よほど気に入ったと見え、筆者が見ている間、ずっと止めなかった。子どもは意外は遊び場を発見するもので、たぶんその隙間が一番記憶に残るだろう。そういった狭い通路は昔で言えば路地だ。大阪にはそんな細い道はどこにでもあった。かくれんぼする時に入り込んだりしたものだ。そういう空間がハルカスにあるのが面白い。ただし、設計者はまさかそこを小さな子どもたちが笑いながら何度も走り抜けるとは想像しなかったろう。
ハルカス展望台に行ったことを他人に知らせるには土産話もいいが、土産そのものがよい。そうしたものを販売するコーナーがあった。安いものは400円のドロップや300円のキャラメルで、そのほかハンカチやプラスティックのコップ、缶入りクッキーやぬいぐるみといったもので、どれもハルカスのキャラクターが印刷されている。これを「あべのべあ」と呼ぶが、人間が入ったゆるキャラを見かけた。写真を撮ろうとすると、誰もが前に行ってカメラをかまえるから、なかなかファインダー内に収まってくれない。そうこうしている間に背後のエレベーターの扉が開き、そこに入り込んだ。ようやく障害物なしにその姿を撮ることが出来たが、後ろ向きだ。するとくるりと前向きとなり、みんなに向けて手を振った。後ろ向きは丸い尻尾がついていて、胴体には前向きと同じく白い雲が3つ浮かんでいる。その説明で写真は不要だろう。「あべのべあ」とは「安倍首相のベースアップ」かと思わないでもない。そのような景気のよいことを期待してのハルカスだ。それはともかく、覚えやすい回文から「べあ」すなわち「熊」を思いついたはずで、熊は「くまのプーさん」でも馴染みの人気動物であるから、さして反対もなくキャラクターとして決まったのだろう。ともかく、グッズ・コーナーは展望台でしか買えない商品ばかりと思いきや、下の近鉄百貨店でも一部が売られているようで、ありがたみは少ない。家内は何か買いたがっていたが、すぐ後ろから50代後半か、背の高い男性がドロップ缶の価格を訊ねた。値段を言うと、驚きながら3倍は高いと言った。それに相槌を打ち、「こういうものは大阪人はあまり買いませんよね」と返すと、相手はそのとおりと言いながら、心配になったのか、「それでもひょっとして他府県から来られたのではないですよね」とつけ加えた。それから相手は2分間ほどしゃべり続け、若い女性係員が怪訝そうな顔でやって来て、「ここは通路を塞ぎますので別の場所に移動してください」と注意した。ひょっとすれば筆者らの話が聞こえていたかもしれない。その男性はハルカスに来るのが4度目と言った。建設前の現地調査でヘリコプターで飛んだらしい。大手ゼネコンの社員のようで、招待券があったのだろう。ハルカスにはホテルが入っているが、そのフロアを見学すると、スリッパのままの客がいてびっくりしたそうで、三流どころを証明していると言った。さんざんこき下ろした形だが、それは大阪人の癖でもある。本音はさほど悪く思っていない。よくしゃべる人で、一緒に階下に行くのかと思っていたところ、西日がきれいなのに改めて気づき、その写真を撮っておこうと言って20メートルほど向こうに小走りで去った。10分ほど前、筆者もその場所に立って西日の写真を撮った。「その4」で書いたように、煙突から煙が上がっていて、西日よりもそれが珍しかった。58階にはカフェがあって、そこは展望台に上がる人だけが利用出来ることもあって、かなり空いていた。空が見えるので開放的だが、当日は寒くて仕方がない。コーヒーはすぐに冷めるだろう。
展望台は夜は何時まで開いているのだろう。利用時間は今月中は一定ではなく、最大12時間ほどであったと思う。また夏場は深夜まででもいいが、寒い季節は早めに締めるだろう。大阪の夜景がどれほど美しいのかはあまり聞いたことがない。神戸六甲からは「100万ドルの夜景」と昔は言われたが、その後1000万ドルに価値が上がったと思う。大阪はもっと大きな街であるから、1億ドルと言いたいところだが、それはハルカス展望台が出来たからには本当にそう呼ばれる日が来るかもしれない。この展望台にはさほど長居はしにくい。椅子は少なかったと思う。それに景色もすぐに飽きる。自分がよく知っている場所があっても、あまりに小さく見えるため、実感が湧かない。大阪城を探すのも苦労したほどで、視力がよくなければ早々と飽きるだろう。北方の遠くに京都の愛宕山が見えていて、その少し下に平べったく広がる街は高槻か向日市、あるいは桂辺りかと想像したが、望遠鏡が設置されていない限り、案内パンフレットに文字が記されている京都タワーも見えないだろう。晴れた日にはより見えるはずで、となれば京都タワーからハルカスも見えるはずで、すでにそんな便乗宣伝を京都タワーは行なっているかもしれない。展望台のチケットはデザインが2種あって、ふたりで入る場合はそれらを1枚ずつ配布しているようだ。うすいオレンジ色は昼間、紫色は夜を示している。夜景に話を戻すと、「その4」に載せた写真からわかると思うが、エレベーターから降りるとその正面のガラス越しに見える景色が天王寺公園であったと思う。すなわち、出入り口は北に向いている。これは理由があってのことかどうかわからないが、北に難波や梅田、そして京都があるので、まず客には北方を見せようというのはわかる。そしてまず眼下を見るが、そこには緑豊かな天王寺公園が広がる。これは夜になると真っ暗で、夜景の光を減じるから、1億ドルとは即座に言い難いところがあるだろう。それにしても緑が少ないことを改めて実感させ、この天王寺公園は貴重だ。筆者が天王寺を訪れるのはこの公園と隣接する市美術館で、それを見下ろすのは初めてのことで、なるほどこういう形をしていたのかと新鮮な思いがする。大阪市内は梅田に高層ビルが密集していて、天王寺はハルカスのみが異様に突出した形だが、100年後には梅田並みとは言わないまでも、高層ビルの林がそれなりに出来上がっているのだろうか。大阪は衰退する一方であるような気もするから、ハルカスが当分は話題となって大阪に人が集まればと思う。