堕落してしまう女のことを描き、後味の悪い映画と思われるだろう。右京図書館でまだ鑑賞していないDVDを探していると本作が目にとまった。ケース裏面に「ブニュエルが故郷のスペインへ二十数年ぶり帰還して撮り上げたフィルムはカンヌでパルム・ドール賞を受賞後、カトリック教会から非難を浴びるなど大スキャンダルを引き起こした」ある。
これを読んでなおさら借りる気になった。見たのは一昨日で、今日感想を書くにはまだ思いが固まっていないところがあると思うが、ほかの話題を考えるのが面倒だ。まず、題名の『ビリディアナ』は『VIRIDIANA』で、これは小学生の高学年になれば誰でも知る絵具の緑色のビリジアンに近いことがわかる。本作は白黒映画なので、主人公の女性の服装の色合いはわからない。それがなぜ女性の名前としては異質と思える「緑」に因む言葉なのか。そのことは映画を見ただけではわからない。付属の解説書によれば、本作は企画当初「肉体における美」と題されていた。それが「緑の場所」を意味する「ヴィリディウム」に由来する中世イタリアのフランシスコ会の修道女の名を冠したとのことだ。ふたつを合わせて「修道女の肉体美」とすれば本作の内容をわかりやすく説明することになるが、成人映画ないしポルノ映画のように思われる。だが、性描写はないに等しいが、それをほのめかす場面は重要な箇所で必ず出て来るので、カトリック教会が立腹したのはわかる。しかも修道女が還俗するのはまだしも、慈悲の心の無力さをいやというほど思い知らされ、男のいいなりになってその男をふたりの女で分け合う形で共同生活して行く決心を固める場面で映画が終わるのであるから、夢も希望もない。1961年の制作で、スペインでは70年代に入って上映されたようだ。ブニュエルの名は美術好きなら若い頃に知る。そして映画『アンダルシアの犬』をどこかで見る。筆者もその口で、またそれ以上には知らなかった。本作はレオナルドの「最後の晩餐』やミレーの「晩鐘」をパロディにした場面が登場し、ブニュエルの美術への関心の深さがわかるが、そのどちらも乞食たちが演じるのであるから、風刺が効いている。ブニュエルはカトリックに文句を言いたかったのだろうか。61年と言えばビートルズが世界を席巻する前夜で、戦後の文化が大きく変わろうとしていた。そういう時代に本作はスペインの田舎を舞台にし、まるで中世がそのまま保たれているような錯覚に陥らせる。だが、当時は日本でも田舎は同じようなもの、あるいはもっと田舎っぽかったかもしれない。東京オリンピック前は東京でもそういう場所がまだたくさん残っていたであろう。だが、ロックンロールは電波に乗ってどんな片田舎でも聴くことが出来たし、確実に1961年という時代を人々は感じていたはずだ。ブニュエルもそうで、また作られた物語ではあるが、本作に描かれる社会もそうだ。ロックンロールは不良の音楽という思いが当時の日本でも強く、ましてやカトリックの国、しかも修道女を主役にする映画ではなおさらだ。だが、彼女が還俗するのは本物の現実に戻っただけのことで、何ら責められることではないと見ることが出来る。もっとも、教会側は悪魔に染まったとみるだろうが。
カトリックを茶化すためにブニュエルは本作を撮ったかと言えば、そんな単純な問題ではない。宗教を語る人ほど実際は俗物の度合いが過ぎる場合がある。それとは反対に宗教をことさら意識しないが、宗教心というほかない思いと態度を持っている人はいくらでもいる。そのことを昔筆者は創価学会員に言うと、宗教はいかに清い心を持っていてもひとりでは意味がなく、「団体に所属し、思いを広める行動に出てこそ」と諭されたことがある。俗臭ぷんぷんでその後その人とは会わなくなったが、創価学会に限らず、どのような宗教でもそれは似たり寄ったりで、その大きな団体に一旦入るとなかなか抜け出られないものだろう。暗黙の圧力があるからだと思う。本作を見ながら思い出したのは去年10月に見た
東ドイツの映画『三人目』だ。70年代前半の作で、監督は本作から影響を受けたのであろう。その映画でも修道院にいる若い女性がそこを出て一般社会の中で逞しく暮らして行く。本作のビリディアナはそこまでは描かれないが、たぶん女特有の逞しさを失わず、人生を乗り切って行くだろう。それに引き替え、男はだらしがない。ビリディアナは伯父ドン・アマリオから経済的援助を受けて修道女となるべく学んでいる。ある日、アマリオは彼女を自邸に呼ぶ。たまにでも面会に行けばよかったのに、それを怠っていたので、ビリディアナはアマリオに感謝はしつつも愛着はない。院長は彼女に3日の休暇をようやく与えることに成功し、ビリディアナはしぶしぶアマリオのもとを訪れる。アマリオは使用人を何人か雇っているが、広い田畑や豪邸はほとんど手入れしてない。妻を早く亡くしたからだ。妻の妹の娘がビリディアナで、彼女は17歳になっていた。もう立派な大人で、しかも妻そっくりの美人だ。そういうビリディアナをアマリオはものにしたいと思って呼び寄せた。自分の孫の年齢の女性と結婚したいと考えるアマリオだが、その点は背徳的でもないだろう。男は金の力で50歳ほど年下の女をものにしようとするし、それは全く珍しくない。アマリオは妻がいなくて長らくさびしい思いをして来た。本作で描かれるが、彼は妻が残した下着や結婚衣装をたまに取り出しては身にまとう。一番印象的なのはハイヒールを履こうとしたり、頬ずりする場面だ。妻は細くて小さな足をしていたのだろう。ハイヒールが珍しくなくなった日本でもアマリオのような趣味を持つ男は多いと思うが、欧米ではハイヒールに性的興奮を覚える男はごく一般的ではないだろうか。イギリスではヴィクトリア時代がそうで、椅子の脚まで覆ったという。それほど足すなわちセックスと捉えられていた。わかりやすいと言い代えてもよい。作曲家のブルックナーが女性の靴をたくさん収集していた。そういう「フェティシズム」は幼児性の名残りであろう。それはともかく、本作では足を捉える場面が頻繁に出て来る。それはアマリオの目であり、思いだ。
ビリディアナは何事もなく3日を過ごすが、最後の日にアマリオから言い寄られる。当然拒否するビリディアナで、そのことを察していたアマリオは家政婦に命じてコーヒーに睡眠薬を入れさせる。それを飲んで眠ってしまうビリディアナを寝室に抱きかかえて行き、アマリオはビリディアナを裸にしようとする。胸のボタンを外したところでわれに返り、アマリオは部屋を後にする。翌朝アマリオはビリディアナを犯したと言うと、彼女は泣き、その姿に動揺したアマリオは庭の木に縄跳びのロープで首を吊って死んでしまう。アマリオにすればもう人生に望みが絶たれたので、生きていても仕方がなかった。おそらく彼はビリディアナが大人に成長するのを楽しみに待っていた。そして毎晩妻の衣裳を取り出しては性の思い出に浸った。その妻がビリディアナに生まれ代わってまた一緒に暮らしてくれると思っていた計画が潰れた。ビリディアナがそういうことまで思いを馳せ、伯父を憐れんだかどうかだが、たぶんそうだろう。だが、自分は神に仕える身分であり、男との交わりは考えることも恐ろしい。だが、もう言い寄る伯父はおらず、しかも屋敷や土地を相続することになった。そこで修道院の寄宿舎には帰らない決心をする。迎えに来た院長にそのことを告げると、案外あっさりと院長は納得する。若い女性の還俗はよく見て来ているのだろう。決心が固そうなら無理に止めない。それにしてもあっさりとアマリオが自殺してしまうのはビリディアナが主人公であるからで、またアマリオのような老人は誰も注目しないので、勝手に死んで行くならそうすればよいと思うのが世間だろう。そのことをアマリオは痛いほど知っているので、なおらささっさと自殺したのではないか。あまりに呆気ないが、それは数十年後のビリディアナにも待っているだろう。誰でも若い頃があり、老いる時が来る。そして若い時代の方がみんな注目する。その意味で本作でのアマリオの扱いは正しい。屋敷や財産を残してもったいないと考えるのはまだ幸福な人で、アマリオはそんなものでは埋められない不幸を抱えながら、すなわち「肉体における美」が自他ともに得られずに死んだ。その態度は反キリスト教的で、カトリック教会が怒ったのはアマリオの考えと行動だろう。睡眠薬で女を眠らせて犯す考えは10代のブニュエルがスペイン王女に対して抱いた妄想とのことで、そのことと本作を比べると、アマリオにとってビリディアナはもともと手の届かない遠い存在であったことになる。せっかく眠らせながら犯さなかったのは、急に悪いことを自覚したからか。それも多少あるかもしれないが、アマリオは夢想することに馴れ、また満足していたのではないか。それが現実のものとなると恐くなった。なぜ恐いかと言えば、妻が亡くなって長く、もう昔日を取り戻すことは出来ないことを知っていて、それをビリディアナの素肌に触れることで確認することに耐えられなかった。つまり、彼女が来た時にもう死ぬ覚悟でいたのだろう。
さて、残されたビリディアナの方が大事だ。彼女は神に仕えていた身分であることを忘れていない。還俗はしたが、自分なりの方法で貧しい人たちを助けようとする。そしてあちこちから乞食や不具者を連れて来て、屋敷の一角に住まわす。そうなると、今までの雇用人はみな辞めて行く。乞食たちから聖女と讃えられてビリディアナは有頂天になり、さらに探して来て13人になる。そうして新たな生活を初めた頃、大きな自動車が屋敷の前にやって来る。アマリオの息子ホルヘが恋人を連れて来たのだ。彼はビリディアナに魅せられ、それを察した恋人はすぐに去ってしまう。ホルヘはロックンロールがわかる新世代だ。屋敷に電気を引き、道路を舗装するなど、快適な暮らしをするための工事に取りかかる。ビリディアナは乞食たちの面倒に余念がなく、みんなに得意なことをさせ、全員が協力して仲よく暮らして行こうとする。だが、乞食たちはビリディアナの目がなければ仲違いをし、怠ける。そういう性質であるから乞食になったとでも言いたいような描き方で、それはブニュエルの偏見ではなく、真実だろう。ホルヘはビリディアナの行為を見ながら、数人を助けた程度はどうにもならないと言う。それも真実だ。だが、ホルヘも人並みに優しい心は持っていて、馬車の下に括りつけられて一緒に走らされている犬を見かけ、憐れに思ってそれを買い取る。だが御者にすれば、放していると車や馬車に跳ねられる。荷台の下に括りつけて一緒に走らせるのは犬を思ってのことなのだ。ホルヘが犬を抱きしめて屋敷に向かった途端、すぐに別の馬車がやって来て、やはり同じように犬がくくりつけられている。そこに本作の言いたいことが凝縮されている。慈悲は無力ということだ。それどころか、慈悲から災難に遭う。乞食を憐れんで屋敷に連れて来たビリディアナは、アマリオが踏み止まった行為に晒される。乞食たちはホルヘやビリディアナが町へ用事に出かけた後、入ってはいけないと言われていた部屋で豪華な晩餐をし、酔った勢いで部屋をむちゃくちゃにしてしまう。酒が入った途端、彼らは本性を丸出しにする。それは乞食に限らないが、豪華な食事にあるつけることのない彼らが本作のような行動に出るのはよく理解出来る。そこにも現実をそのとおりに見ようとする醒めた監督の目がある。
ビリディアナはアマリオが首をくくった縄跳びのロープでベッドに縛り上げられ、ホルヘの見ている前で犯されかける。それは彼女にとって想像すら出来ないことだ。そこで一気に目覚めたのかどうか、ともかく殺されかけたホルヘが息を吹き返し、うまく立ち回ってビリディアナを犯そうとしていた男を死に追いやる。ホルヘは最初登場した時、放蕩息子かと思わせたが、犬を買い取ったり、ビリディアナを助ける場面ではなかなかの好漢だ。だが、彼はきわめて現実的かついいかげんなところがあって、アマリオが雇っていた家政婦がそれなりの美人と見るや否や、手を出す。彼女はアマリオに拾われて感謝している女で、屋敷から放り出されては路頭に迷う。それもあってホルヘのいいなりになる部分もあるが、財産家の跡取りから求められるのはやはり嬉しい。本作の最後は、ホルヘが自分の部屋にその家政婦を誘い込んでいるところにビリディアナがやって来る。彼女は家政婦がいることに一瞬目を疑う。自分が知らない間にふたりの仲が深まったことを察する。ホルヘはそれを無視して3人でトランプをしようと言う。それに素直にしたがうビリディアナだが、その顔はどこかこわばりながら、何か決心した様子だ。この結末は面白い。そのような共同生活は、乞食を招き入れていた時と同じように何かが起こる。誰もが筆者と同じことを考えるのではないか。つまり、ビリディアナは家政婦を追い出す。ホルヘとふたりの生活が始まったのはいいが、彼女は現実に幻滅し、自殺する。そしてひとりになったホルヘはそのまま老いて父の二の舞を演ずる。さて、ブニュエルはビリディアナの行為を嘲笑するために本作を撮ったか。貧しい人を助ける思いは完全に裏切られ、殺されかける。それと同じことは、たとえば道ばたで困っている人を助けようとした時に金品を奪われることにある。そうした事件は日本では少ないが、外国ではたとえば観光客相手に頻繁に起こっている。人を容易に信用するな。慈悲心を抱くな。困っている人を見かけるとその場からすぐに立ち去る方がよい。こうした教訓をブニュエルが伝えたかったかどうかと言えば、それはあまりに皮相的な見方で、本作を底の浅いものにしてしまう。今日は前半でアマリオについて長く費やしたが、本作はどの登場人物も光っていて、それらひとりひとりに注目すればみな違う性質と人生が見えて来る。そのどれが悪いとかいいというのではなく、人間は多様で、善悪が同居している。ビリディアナを犯そうとした男は宗教画を描くのが得意で、ビリディアナを聖女に見立ててみんなが注目している間に描く場面がある。画家の出来そこないの彼が、ビリディアナの肉体をほっしたのは意外だろうか。彼に着目しても一篇の映画が作られるだろう。カトリックが言う堕落はどういうことを言うのか。ビリディアナは堕落したのだろうか。きわめて現実的になっただけで、修道院を否定したとは限らないし、それはブニュエルも同じではなかったかと思う。