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裡備動」という字面は似合っていないが、漢字の意味を汲み取ればそうなるだろう。今日取り上げる展覧会を先週家内と何必館で見た。今村幸生という画家は今まで知らなかった。派手な抽象画を描くようで、どのような作品か興味が湧いた。1935年に伊勢に生まれたから、今年80歳だ。

そのような高齢にはとても見えない絵で、エネルギーに満ちている。毎日山をかけ上っているとパネルに書いてあったが、まるで修行僧のようで、これからの高齢化社会に生きる人を勇気づけそうだ。本展の題名に謳われているように、彼は「リビドー」に大いに関心があるようで、エネルギッシュさはそのためであろうか。だが、元気でいようと思っていても、80になれば体がついて行かないだろう。「リビドー」という言葉を誰しも10代で知ると思うが、これは「性衝動」の意味であると筆者は覚えている。「リビドー」はラテン語らしいが、「ドー」がつけば日本が好きな「道」を連想させ、しかもそれが「性本能」に強く関係するとなると、何となく子どもは興味を持ってはいけないもののような思いを抱く。もうそんな年齢ではあり得ない筆者は今でも「リビドー」と聞くと、内心落ち着かない。それは自分の性の本能にまともに向き合会って来なかったからか。そんなことではないと思うが、性の本能や欲望といったことは他人についてはわからない。それで自分はひょっとすれば性的に異常者かと思ったりすることは誰でも一度や二度はあるはずだ。それほどにまだ性的な活力がある年齢では性への関心に振り回される。よく言われるように、それをほかの対象に向けるのがよく、その代表はスポーツとされている。だが、ラグビー選手がいくら試合の練習でへとへとになっても、性への欲望が収まることはなく、たまに新聞を賑わす破廉恥な事件を起こす。体力を消耗すると性欲も消えるかと言えば若い頃はあまり関係がない。男女でも違うかもしれないが、筆者は女ではないので、女のことはわからない。また、個人差があるが、自分がどの程度スケベなのか、それも比較しようがない。そんなことで時に悶々としながら、気づけば還暦を過ぎていたということになるが、これも男と女は違うようで、還暦を越えたので異性相手の破廉恥な事件を起こさないかと言えばそうとも限らない。70代、80代が暮らす老人ホームで、同世代のひとりの女性を巡って男同士が殺人事件を起こす場合もあり、人間は生涯性の衝動から逃れられないようだ。亡くなった友人Nは50半ばでほとんど性欲を失っていたが、それはポルノを見るだけで我慢していて、実際は機会があれば本物の女性と交わりたかったであろう。だが、性の欲望が少なくなって来てほっとしていると語ったことがある。それはわかる気がした。男としてさびしいことだが、その一方で女の色気に振り回されるのはまっぴらという考えもわかる。だが、Nのように半ば悟ってしまうと、やはり死期は近いのかもしれない。せいぜい「リビドー」に関心を持ち続け、機会あれば女と仲よくなることを狙っておいた方がよいかもしれない。そんなことを言いながら、たいていの人は臆病で、気に入った女が目の前に現われても積極的にベッドに誘うことをしない。
今村幸生はどうなのだろう。彼は画家で、しかも体力のすべてを画業に捧げて惜しくないといった雰囲気が作品から伝わる。女とのまぐわいを絵画行為に移し換えているのだろうか。作品制作とセックスは別で、どっちも旺盛というのが理想であろう。その代表はピカソで、そう言えば今村の絵からはピカソに似たエネルギーがほとばしっているかもしれない。あるいはもっともっと粘着質で、ピカソを上回るかもしれない。だが、作品にはピカソの絵にあるエロティックな画題は見られない。日本の装飾絵画の伝統上にあると言えばよく、油彩画というよりも、派手なアロハシャツを見ている気分になる。それも和の味が含まれているので、パリでは折りからの寿司人気もあって歓迎されるだろう。思わず寿司という言葉が出た。いや、思っていなかったのではなく、書いている間に思い出したのだ。ここでどうでもいいことに寄り道しておく。筆者は散歩中によく好きな曲を思い浮かべて口ずさむ。それが5分や10分程度は続く。そして郵便局やスーパーに入っている間は、全くその曲を思い出さない。その間がまた5分や10分だ。そして用事が終わって外に出ると、突如先ほどのメロディが脳裏に浮かぶ。その瞬間筆者はいつもとても意外が気がしつつ、一方で、先ほど中断したことを本能が覚えていて、また同じ環境である建物の外に出た時にメロディの続きを口ずさめるように命令を下すのだろうと考える。筆者が思い浮かべる好きなメロディは、季節や時間帯、その時に気分に左右されているが、もっぱら楽しいからであって、無意識で楽しい記憶と特定のメロディを結びつけているのだと思う。それで、ある曲を思い浮かべることは能動的な行為で、衝動とも言えるだろう。そして、本能のレベルにまで達しているかもしれない。つまり「リビドー」のようなもので、そのために一旦中断された後、無意識にまた同じメロディを口ずさむのではないか。そのように考えると、「リビドー」の意味が理解しやすい。それはこの言葉を正しく理解していないかもしれないが、忘れようとしても浮かび上がって来ることの点においては正しい。話を戻して、今村が言う「リビドー」は自分を突き動かす自信の内部にある何かで、彼の絵画は「リビドー」の産物ということなのだろう。それはどんな画家でもと言えるが、「リビドー」を自覚するのとしないとでは作品は違って来るだろう。どちらがいいかといった問題ではなく、今村は意識して描いているということだ。それに「リビドーを裂く」であるから、「振り回される」のではもちろんなく、意志でそれを操る。これはなかなか禅的なことになって来るようで、フランス人も今村の絵にそういう東洋の精神性を認めているだろう。装飾性豊かな、というより、ほとんどそれだけの作品であるのに、アロハシャツにない激しさと、それを制御する意識は、「リビドー」をどう手なずけるか、またその本質をどう絵画として見せるかを考え続けて来た葛藤の跡のようなものと一緒になって作品に現われている。
ただし、先に書いたように、個人の「リビドー」は他人には推し量れない。ましてやエロテッィクな画題を扱わず、抽象的な文様に多くを負った絵となれば、「リビドー」の量的なものはそれなりに伝わっても、その質は理解の範囲を超える。そこで振り出しに戻って今村は「リビドー」にどういう意味を込めているかを知る必要を感じるが、冒頭で筆者が漢字を充てた「裡備動」は、「誰もが表面に出ない内面において動かそうと備えているもの」といった意味のつもりで、これは「リビドー」の本質をそれなりに表現しているのではないかと思うし、今村の絵をそのような意味で見ると、単純に言えば「生きている存在が持っている能動性」とでも言えばいいか、これまたどのような画家でも持っているものであり、また表現しようとしているものであるだけに説明に困るが、ともかく今村は生きている限り、絵画に精力を注ぎ込むということで、その覚悟がどの作品にも見えると言えばよい。だが、正直に感想を言えば、80歳は精神は別として、もはや若者ではない。そういう人物が若い者に負けないほどのエネルギーを画面にぶちまけると、晩年のピカソのように圧倒されはするが、そこまで頑張らなくてもいいではないかといった、一種の疲れを覚えてしまう。それは筆者に「リビドー」がもうほとんど具わっていないからかもしれない。あるいはあってもそれを裂くということがよくわからないからか。今村の場合、この「裂く」は絵画という作品に昇華させることで、酒を飲んだり、愚痴を言い続けるといったいわゆる無為に過ごすことではない。だが、館内に今村の言葉があって、絵を描くことは「物づくり」ではないと断言していた。その意味が量りかねるが、絵画を物とは思っていないとすれば、用をなさないものということか。自分の「リビドー」のその内容は他者には理解出来ないとしても、その量だけは絵画にぶちまけることが出来るし、またそれは自分の生きて来た証でもあるから、それだけを感得してもらえれば充分ということなのか。装飾性が顕著な画面であるから、展示が目的であるし、そうなればそれは物だ。物ではあるが、それは結果であって、最初から物を作る意識はないと言いたいのだろう。大切なのは内面で、それを無駄なく、純粋に絵という画面に表わすにはどうするか。そのことを考え続けるのは、やはりどんな画家でもそうであって、またどう書けばよいか指が止まる。

本展はほとんどが大画面で、また間近に寄らないと判別出来ないほど細かく描いてある。だが、使われるモチーフは実物大の赤いトンガラシがまず第一に挙げられ、ほとんどどの作品にも大量に登場する。それがどういう意味を持っているのかはわからない。食べ物として好きなのか、あるいは赤と緑の対比がきれいであるからかもしれない。トンガラシを記号のように用いていて、そのほかの抽象文様もそれと違和感なく混在させられるが、画面全体では風景であったり、松の木や飛行機であったりする。六曲一双の金屏風に描く場合は水墨画を意識してか、細かいトンガラシ以外は黒い線でくくらず、直接画面に即興で描くようだ。もっとも、キャンバスに描く場合もこの即興の精神は発揮されている、黒の細線でまず描いた後、その内部に色を施すという方法を採っている。あるいは色を置いた後に黒線でくくっていることもあろう。ともかく、画面全体は原色の氾濫と言ってよいが、描かれるモチーフはどれも黒線で縁取られているので、即興性は後退して見える。だが、実際はやはり即興で黒線を引いて行くのだろう。それこそ「リビドー」に突き動かされながら、またそれを裂く思いによってで、画面は緻密に計算されたものようには見えないが、かといって雑な印象は与えない。したがって、熱い息吹が主となって、細部に冷静さが宿っていると言えばよい。小下絵段階で厳密に、つまり2,3ミリ単位で何をどう描くかをじっくり練り上げ、そのとおりに描けばもっと違った印象を与えるはずだが、おおまかに考えた下絵を用い、最終的な仕上がりは描いてみないことにはわからないというのが実情ではないだろうか。細部の仕上がりはいかにも日本人の一種工芸家的な技術を伝え、それはたぶんフランスでは真似が出来る画家はいないだろう。即興と言えば数分か数十分で仕上がってしまう作品を思うが、今村の2メートル四方のキャンバスは、描き尽くすのに最低1か月は要するのではないか。70代でそうした根を詰めた仕事は脅威だ。それでいて息苦しくなく、自由奔放にトンガラシその他奇妙な記号的形が躍っている。

先に寿司のことを書いた。昨日のTVでアメリカのサンディエゴで有名な寿司レストランを開いているアメリカ人に、勝負を挑む日本の寿司職人が紹介されていた。そのアメリカ人が言うには、日本の寿司は伝統から進まず、退屈で、自分はコンビネーションの精神を大切にして新しい寿司を開発し続けるとのことであった。寿司は世界中に広まったと言ってよいが、日本と同じ食材が入手出来ない地域では新たな寿司を作らざるを得ない。また、入手出来たとしても、気候風土の違いから、人々の好みの味が違う。そこでいろんな寿司が登場するのはあたりまえのことだ。それを日本の寿司が世界一と威張っても仕方がない。勝負に挑んだ日本人はミシュランの評価で星が3つという東京の2代目で、サンディエゴに入るなり、現地の食材を吟味し、また人々の味の好みを調べた。つまり、日本で提供しているのと同じ寿司では勝負出来ないと考えた。その時点で日本の寿司、つまり伝統的な寿司は負けていると言ってよい。結果は5人のアメリカ人全員が日本に軍配を上げたが、それは日本の伝統的な寿司でも現地向きにアレンジすると、現地の有名寿司屋がいくら頑張っても太刀打ち出来ない味が出せることを証明し、さすが寿司を生んだ国の貫禄を見せた。だが、日本の寿司そのままではないし、その寿司を日本で提供しても喜ばれないかもしれない。いや、その可能性が大きい。そのことは、国が変われば受容させるものを変わることを示している。今村はパリに住んで35年というが、伊勢にもアトリエをかまえ、往復して描いている。そのことは作品に出ている。寿司で言えば、伝統的なものではなく、パリの人が喜ぶようなアレンジを施したものだ。それはフランスでもなく、日本でもないということで、どちらからも評価され得る反面、どちらからも歓迎されないという面を併せ持つ。六曲一双屏風に描いた作は2点出ていたが、どちらも出来合いのかなり安物にそのまま描いたもので、何となく興醒めさせるものがあった。「風神雷神」という題名からは日本の伝統的な画題に挑む姿勢が見えるが、無数のトンガラシを吹き出す風神はほとんど口元しか左隻の左端上隅に描かれず、その一方で風神雷神には関係のないようなモチーフが大きく占めて、即興のいささかよくない部分が出た作品に見えた。だが、フランス人は喜ぶかもしれない。和の味を含ませと欧米では歓迎されるのだろうが、底の浅いものはいつの時代でも見抜かれる。その底の浅さは装飾的な絵画ではよく陥る穴で、今村はそのことを充分知っているので、とにかく猛烈なエネルギーの氾濫によって見る者に有無を言わせないようにしているのだろう。若者に負けない活力はあるが、色合いは70年代初頭のゾンネンシュターンやフンデルトワッサーといった画家を思わせる。つまり、シュルレアリスム系であり、また年齢相応ということだ。