盾突くことの好きな人がいる。大人になればたいていは丸くなるから、若い間は血気盛んな方がよいかもしれない。これは盾突くこととは多少意味が違うかもしれないが、筆者が中学生の頃に台風のミリバール、今で言うヘクトパスカルの数値が、通常の900台ではなく、なぜ一桁や二桁にならないのかと不思議がるのがいた。

筆者はそんな超巨大な台風は起こりようがないと言うと、食ってかかって来たが、筆者は論理的に説明出来なかった。その後大人になって自分で調べたかと言えば、まだだ。今後も調べないかもしれない。それで100万年に一度くらいは3ヘクトパスカルの台風がやって来るかなと思わないでもないが、科学者にそんなことを言うと笑われるだろう。だがその科学者もすべての自然の仕組みを知っているかと言えばそんなことはない。もうすぐ3年になる東北の大地震にしてもそうで、誰もそれを前日に予測出来なかった。そのため、科学者に盾突きたい思いを抱く人が多くなったのではないか。先ごろのソチのオリンピックでメダルを逃した選手に泳いで帰って来いという暴言を吐いた者がいたそうだが、そういう人は地震学者や原発学者に給料泥棒だと盾突くべきだ。だが、自然の動きについては大方は努力ではどうにもならないと思っているから、大目に見る。さて、今日取り上げる本は先日読んだ『速水御舟の真贋考』と同じ著者によるもので、続けて読んだ。著者の月山照基氏は本書を『速水御舟の…』の執筆途中に書き上げた。『速水御舟の…』はすらすらと面白く読み進んでいると、半ば過ぎに突如首をかしげる箇所があった。それは先日の同書の感想に書いた。白百合を描いた2点の色紙があり、御舟の真贋判定の権威の意見とは反対のことを月山氏は唱えた。その理由は同書には、構図の安定と落款印章の出来がよいということで、確かにそれはそのとおりだが、そのことで真贋が判定出来るのかという疑問を筆者は思った。それは感想に書いたように、より不安定な構図の方が同作の趣旨にはかなっているのではないかと思うからで、横向きの白百合を安定のよい構図で描くことはかなり月並みで、御舟はそんな絵を描くかと思う。不安定を感じさせる構図は百合の花がぽとりと落ちる不安定さ、はかなさに釣り合っている。筆者は白百合の球根を10個ほど買い、わが家の庭に植えて花を咲かせ、それを数十枚写生したことがある。その経験で言えば、御舟の前掲の色紙は直立する百合の茎から横に伸び出る一部を切り取った構図で、筆者なら思いつかないだろう。ごくありふれた構図に見えて、そうではないと言いたいのだが、そういうことは絵を描かない人にはわかりにくい。月山氏は絵画の鑑定家を自認するだけに、おかしいと感じることにどんどん食い下がり、権威に盾突きながら自説を展開して行く。そうしたことを文章で書く場合、ましてや本にまとめる場合は、ページ数の関係もあって削らねばならない箇所が往々にしてあるだろう。その点は理解するのだが、すらすらと楽しく読ませる配慮が過ぎるため、不要と思える箇所がよく目につく。その代表的なものは、権利をこき下ろす言い回しだ。そういうことは真贋判定とは関係のない愚痴で、読んでいて辛い。また、そういう箇所も本の価格に反映しているから、読者は嫌な気分になるものも一緒に買わされることであって、そのことは楽しく読ませようとする配慮と反する。

話を戻すと、御舟の白百合を描いた2点の色紙の真贋判定が権威者とは反対であることを読者に正しいと認めさせるには、もっと別の見方をし、言葉を増やす必要がある。それが安定した構図とより出来のよい落款印章の2点だけで、権威が間違っているとするのは、単に気分で物を言っていると受け取られかねない。それと同じように首をかしげさせることが本書にもあった。それは最初の写真にある2点の掛軸「耕織図」だ。右は渡辺崋山で、左はそれを基に描いたとされる平井顕斎の作だ。本書を読むまで筆者は平井顕斎の名前を知らなかった。崋山とは違って地方でのみ有名な画家だ。一般には崋山の弟子とされているが、著者は顕斎は崋山が学んだ文晁の弟子であって、師弟関係と呼べるほどのはなく、崋山とは兄弟弟子の間と言うのがよいとしている。それはともかく、顕斎は崋山より一回りほど年下で、世間的には崋山の作を模写する側であって、その反対はないと考える。さて、最初の写真の2点の「耕織図」は、かなりよく似た図で、どちらが先に描かれたか、またどちらの出来がよいかを氏は検討する。その手始めに、右の崋山作は画面上部の山が宙に浮いたように見えるのに対し、左の顕斎作は山のてっぺんの形が少し違い、奥行きを示すために背後の襞を黒くしているところ、出来は圧倒的によく、崋山は顕斎の作を手本にしたとする。そして、その考えを補強するために細部の比較に移るが、それは本書の小さな図版からは無理で、氏の見方をひとまず信じるしかない。だが、真っ先に気になったのは、画面上部すなわち作品では最も遠景である山が宙に浮いているように不自然なのは、圧倒的に顕斎であると筆者は思う。遠景である山は全体がかすんで見えるはずで、顕斎はその山そのものの遠近を強調する。一歩譲ってそれはより写生的であると言えるが、その山の下に霞か雲か、ともかく分厚い余白の横段があって、完全に下界とは断絶されている。崋山作にもその雲があるが、遠景の山と下界をつなぐために画面左の樹木を山裾の少し上まで伸ばしている。氏はその様子を、「ダラシナク伸び上がっている樹」と表現するが、「ダラシナク」は不要だろう。ともかく、顕斎はその樹木を雲の上端に達せさせず、まるで画面上部に山の絵として独立させ得る画面をつぎはぎした印象を与える。つまり絵としてはまずい。にもかかわらず、氏は顕斎の絵の方が圧倒しているとするが、そこまで読んだ時、前述の白百合の絵の真贋説明でつまずいたのと同じような気分に襲われた。それよりまずこの顕斎の軸で筆者が目にしたのは画面左下隅の岩だ。これを崋山は描かない。崋山の作の方がより自然でわざとらしさがない。ただしこれは本の図版のみの比較での思いで、実物を見ると違ったことが見えるだろう。

さて、顕斎はそうとうな腕の持ち主であったようで、生前の人気は高かった。そのため、たくさん贋作が描かれたそうだ。そのことは後で述べるとして、最初の写真の2点の「耕織図」は、顕斎が凡庸な画家でなければ崋山の作のまずい点を修正しながら描くはずだ。2点を見比べると、右の作品は左の作品のよくない部分を改めたように思える。筆者の第一印象はそうだ。そのため、顕斎の作を崋山が模写したことになる。だが。崋山ほどの画家がそんなことをするだろうか。まず考えられない。氏もそのようだが、崋山を手放しで賛美はしておらず、獄死したのも一種の身から出た錆びかと、かなり手厳しい。つまり、崋山という権威に堂々と盾突いている。その理由は死後美化され、教科書にまで載って名声が日本中に広まったことが多少影響しているように本からは読み取れる。筆者は戦前の教科書に崋山の死が美化されていることは知らなかった。これは前に書いたことがあるが、筆者が崋山の絵を見てすごいと思ったのは中学1年生で、美術の教科書に載っていた「鷹見泉石像」だ。これは国宝になっている。筆者がこの絵に驚いたのは、描かれる男性の表情が見事であったからだ。この有名な絵を月山氏はあまり誉めない。烏帽子は頭からずり落ちそうであるし、顔に比べて衣服の描き方が駄目と言う。筆者はそうは思わない。確かに烏帽子は頭よりかなり上に収まっているようだが、ちょんまげの上に載っているのであるから、絵の状態が正しいのではないか。衣服の描き方はどこがまずいのかわからない。身にぴたりと貼り着く洋服ではないし、武士のキモノは凹凸が生じてこわばって見えるのが普通だ。ま、それはいいとして、最初の写真の「耕織図」は顕斎も崋山も対幅として描いていて、その左幅だ。右幅は2枚目の写真で、図版では丈を同じにしてあるが、実際は崋山作が縦横とも20センチほど小さく、また絹本に描かれている。一見してわかるように、この右幅はどちらかが真似したにしても、比較しようのないほどに違いが多い。

氏はこのふたつの対幅を検討しながら、崋山作とされるものは子どもの小華が描いたとする。そして小華は顕斎より技術が劣り、顕斎の作を模写し、それを父の崋山作として売ったと考える。その理由は、崋山が死んで一家は経済的に苦境に陥ったからで、つまりは小華は父の遺産を利用して儲けたとする。そうこうしている間に崋山の名声は押しも押されもしないほど高くなり、顕斎は反対に忘れ去られて行ったと結論する。崋山という名前に比べて小華はいかにも小粒な印象を与えるが、氏もそのことには触れている。また、双方の生前の評判を氏はいろいろと調べ、小華のそれは思わしくなく、顕斎はその反対であったことも突きとめる。それはいいとして、本書を読むと、崋山は不肖の息子を持ったということになる。いかに食うためとはいえ、父の評判を貶めかねない贋作を描いたことは、まともな画家のやるべきことではない。だが、そう結論づけるには、本書は強引な部分がある。2枚目の写真の2点は比較しようのないほど構図が違っている。仮に小華が顕斎の作を引用しながら描いたとして、それは非難されるべきことではないし、よく仕上がっている。ただし、父の落款印章を使うことは明らかな贋作行為だ。だが、最初と2枚目の写真のそれぞれ右側の作品が本当に崋山のものではなく、小華が描いたか。先に筆者は最初の写真では左をよくない部分を改めれば右が出来ると書いた。となると崋山が顕斎を真似たかとなるが、顕斎の技術不足から、あるいは個性を発揮するために、崋山の作を少し改変して描いたとも考えられる。月山氏は絵に書き込まれる賛を比較することで、崋山ではなく小華であり、また小華は顕斎を模写したとするが、それも推論に推論を重ねているように思える。最初の写真の崋山作「耕織図」のと瓜ふたつの顕斎の作品が戦前の本に掲載されていて、氏はそれについて言及しているが、それは驚くべき推理だ。小華が顕斎の名を貶めるために自分が描いた作を模写し、そこに同じ賛を書き込み、そして顕斎の落款印章を入れたと言う。つまり、顕斎が崋山をそっくり模写したと画策することで、顕斎は崋山より劣ると世間に示すことが出来るし、またその作品はそれなりに高価で売れるから、二重に狡猾というわけだ。そして、顕斎作とされるその作はやはり出来がよくないとするが、先に書いたように、最奥にある山は宙に浮いていて不自然かと言えば、筆者はそう思えないし、また山裾を少し超えたところにまで伸びる前掲の樹木の枝は「ダラシナク」は見えない。そこで、こう考えることも出来る。戦前の本に載る顕斎の作は崋山の「耕織図」を模写したもので、最初の写真の顕斎の「耕織図」はそれを基に自己流に描き直した。ひとつ疑いが出来ると、次々に疑いが生まれる。誰しもそんな経験はある。そして疑いが晴れた時、恥じ入ればよいが、たいていの人は自分につごうの悪いことは忘れる。氏がそうだとは言わないが、自分の説の正しさを訴えために、別の醒めた見方をすることが苦手なように見える。鑑定において客観的になり得ることはあり得ない。それでたくさんの人が寄って集まってだいたいのところで真贋が定まっている。民主主義の多数決だ。そんな馬鹿なことはないと憤る人が多いだろう。白か黒か絶対にふたつに分かれるはずで、それを多数決などとは、いかにもいい加減ではないか。だが、証拠不十分でいい加減にならざるを得ない事件は無数にある。誰にも真相はわからないままのことはある。
3枚目の写真は顕斎の作品の真贋判定で使われている。氏は左は右を基にして描いた贋作とする。それを証明するために落款の筆跡の比較をしているが、左は軸が揃っておらず、出来が悪いとする。出来が悪いのはつまり贋作ということだ。だが、左の絵は死ぬ2か月前に描かれた。体力が弱っていた可能性があるし、そうなれば筆跡が崩れることもあり得る。そういう可能性を認めない態度はどうか。あり得る可能性を言えば何も言えなくなるという意見があるが、白黒をはっきりさせるのに、あり得る可能性のすべてを挙げないで許されるか。それは自分のつごうのよい意見だけ通すことだ。繰り返すが、本書で気になるのはそういう態度が見えることだ。それは前述したように、紙数のつごうもあるだろう。だが、強引さがあるのはいいとしても、考えられる反論を俎上に載せるべきだ。その考えが思いつかないのであれば真贋判定はただ単に「わたしはこう思う」という感想に過ぎない。氏は3枚目の写真の2点をほとんど同じ絵とし、左を右を参考に描いたとする。だが、筆者には同じ作には見えない。共通するのは最下段の木立が茂る丘のみで、それもかなり違う。つまり、顕斎が右を描いた後、左を描いても何らおかしくないし、才能を謗られることもない。このような文人画の山水は型があって、どんな画家でも似た絵をたくさん描いた。左は高房山という画家の筆意に倣ったと書かれ、氏はその表現が最晩年の顕斎にしてはあまりに不自然だとする。だが、それも実際はわからない。最晩年になっても顕斎は謙虚で、中国の絵に倣ったと記すことは充分あり得たのではないか。氏はもう充分筆法を習得していた顕斎であるので、そんなことはないとするが、顕斎でないことにはそのことはわからない。また、氏は両方の作は仔細に見ると米点の筆法に違いがあるとするが、左は高房山に倣ったものであるので、それまでの米点と違っていて当然だ。死の2か月前になっても顕斎はまだ新たに学び、そして違う筆法を試していたとする方が顕斎の名を高める。

本書は最後近くになって雪舟の「山水長巻」が登場する。それは最初の写真の「耕織図」に対する氏の考えを補強するためで、雪舟の「山水長巻」とそれを模写したとされる等顔の「山水長巻」の部分図の比較を行なう。筆者は等顔に雪舟の「山水長巻」と同じ図を描いた作があることを知らなかった。それで本書に掲載される図版を見比べながら、氏が言うように、雪舟本は等顔本を模写したものではないかという意見に賛成したい気持ちを抑えられない。4枚目の写真の上が雪舟本、下が等顔本、5枚目は右が雪舟で左が等顔だ。氏は画集から図版を複写しているので、実際は濃淡差がどれほどかはわからない。また、雪舟本は全図が紹介されているのに、等顔本は部分図しか知られていない。そして専門家は圧倒的に雪舟本が勝ると評している。そのことに月山氏は異論を唱える。その根拠が4、5枚目の図版だ。どちらが模写だろうか。氏は細部を比較する。たとえば5枚目では上下ふたつの洞穴が見えている。その内部に階段があって、雪舟本ではほぼ同じ右向きの人物が描かれている。等顔本ではどちらも階段を上って行くように描かれ、方向が異なる。氏はこれを同じ人物が時間を違えて二度描かれたものとする。ルネサンスの絵画でもそのような異時同図の人物がよく描かれた。等顔はそれと同じことをしたと氏は考える。それはさておき、雪舟本が等顔本を模写する際に、上の穴の人物を左向きにせず、下の穴の人物と同じ姿にしてしまうだろうか。国宝の「山水長巻」がそのような杜撰な代物であることはあり得るとして、雪舟本が等顔本の模写とは断言出来ない。等顔は雪舟本を模写する際、この上下の穴に見える人物が同じ向きであるがいかにも芸がないと考え、上は左向きにしたことは充分あり得る。というより、そういった批判的な眼差しを模写の際に抱くことは常識だ。つまり、雪舟本が原本であり、それを凌駕する思いで等顔が模写した。そう考えられることも可能であるのに、その見方を氏は書かない。4枚目は悩ましい。下の等顔本の方が圧倒的に量感がある。岩の穴もそれらしく描かれているうえ、天井から下がる岩や岩の合間に見える空間も等顔の方が自然で、よくまとまっている。ただし、細かい人物は氏の意見には反対で、雪舟本の方が生き生きしているように見える。本紙の寸法差もあるが、等顔本は人物がちまちましている。それは等顔本の方が岩が人間を圧倒し、脅威的な力さえ感じさせるということにもなるが、雪舟本は岩を描くのに、その皺、襞の線描をところどころかなり少なく、あるいは淡く描き、人間と馴染んでいる。つまり、ごつごつとした感じが等顔本にあり、雪舟本は日本的で、繊細さがより多い。それでも等顔本の迫力は捨て難く、また細部の差も考え合わせて、筆者は双方の原本になる別の画巻があったのではないかと思うに至っている。つまり、どちらも模写ということだ。それはあり得ないことではない。これほどの大作であるから、何度も模写されたであろう。雪舟本も本当に雪舟が描いたかどうかの保証はない。それほどに雪舟くらい古い画家となると、真相がわからなくなっている。最後に、筆者も氏のように権威に盾突きたい方で、本書は参考になることが多々あった。