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●『欲望』
●『欲望』_d0053294_0555656.gif子が荒れてとても細部は何か確認出来ないと思うが、この映画『欲望』では35ミリのフィルムを何度も部分拡大し、ついにはそこに男の死体が映っていることを主人公のファッション写真家の若い男が発見する。



●『欲望』_d0053294_2145716.jpgミステリー映画かと言えばそうでもなく、ドキュメンタリー的なタッチで、また音楽は全体に少ないが、それだけにかえって音楽が印象に残る。この映画のDVDを10日ほど前に右京図書館で見つけた。ミケランジェロ・アントニーニ監督の名作とされ、題名だけは昔から知っていた。彼の作品は同じ図書館でDVD『情事』を借りて2012年11月に見ている。その年から同図書館に2週間ごとに通い始めたが、DVDはだいたい全部見たかと思えるようになってから行かなくなった。それがここ2か月ほど、資料調べのために行かねばと思いながら、寒いこともあって踏ん切りがつかなかった。10日ほど前にようやく行き、資料のコピーをしたついでに本棚を見ると面白そうなものがあったので借りた。次にDVDコーナーに行くとまだ見ていないものがちらほらあった。昨日も行き、DVD2枚と本2冊を借りて来たので、いずれその感想を書くかもしれない。それで、本作の題名は『情事』がヒットしたのでそれに合わせたのではないだろうか。どんな原題かと思うと、何と『BLOWUP』で、欲望とは関係がない。どういう考えで当時の関係者はそのような題名をつけたのだろう。発音そのままの『ブローアップ』では何のことかわからないから、どうしても覚えやすい題名をつけねばならない。そこで「欲望」の言葉を連想したのだろう。「ブローアップ」は、筆者の記憶では本作が撮影された1966年では女性の髪型に使う言葉であった。髪のボリュームを全体に大きく膨らませる。そのことをブローと言った。今も言うのではないか。当時は大きく膨らませたヘア・スタイルが流行した。それが巨大になるとブーファンと呼んだが、夜の商売女といった、いわば不良をイメージさせるもので、一般のおとなしい女性はそんなことはしなかった。だが、60年代半ばはそんな不良ファッションが一般にかなり浸透した時代であった。同じようなことはいつの時代でも見られるのではないだろうか。それはともかく、本作の「ブローアップ」は写真の「引き伸ばし」の意味ということを、DVDの解説で知った。なるほど、それならば本作で最もドキドキさせる写真家が謎を解くために何度も写真を引き伸ばしする場面に大きな意味があることを思う。そう思う一方、当時の写真屋の看板には必ず「DPE」という文字が書かれていて、その「E」が「ENLARGEMENT」の頭文字で「引き伸ばし」を意味するはずではなかったかと疑問が湧く。ま、本作が舞台になったイギリスでは「ENLARGEMENT」と言わずに「BLOWUP」を使っていたのだろう。
 アントニーニはイタリア人であるから、本作を前知識なしで見始めて面食らった。最初に登場する場面からしてイギリスだ。特に主人公がロンドンのやや郊外に近いところを車を走らせる場面ではいかにもロンドン西部で、筆者は思わず数日滞在した昔を思い出した。同じ空気が流れているように感じた。実際は本作から25年経っていたが、ロンドンの街はあまり変わらないと見える。少なくとも日本の街とは大違いだ。アントニオーニはなぜイタリアで撮影せずにロンドンで撮ったのだろう。そのあたりの事情はネットに出ているかもしれない。プロデューサーのカルロ・ポンティが当時のロンドンが独特の文化を生み出していたので、そこを舞台にすると儲かる映画が出来ると考えたのかもしれない。たぶんそうだろう。本作はMGMが配給したから、アメリカでもヒットさせる必要があった。それには当時の若者文化を描く必要がある。本作は66年で最も有名な映画となったようだが、監督の目論見は当たったことになる。解説によると、アントニオーニが手がけた2番目のカラー作品で、英語を使ったものとしては最初ではなかったか。筆者が驚いたのは色彩の美しさで、ロンドンの雰囲気がよく出ていることと、印象に強い画面が多かったことだ。いかにも構図を厳密に考えて撮影しているという一種の嫌味ではない。カラーであるから、構図に関しては白黒作品とは比べものにならないほど難しかったと思うが、芝生の緑、写真スタジオの紫のスクリーン、街並みの赤や青の家といったように、60年代半ばのおもちゃ箱をひっくり返したようなサイケデリックな色調をそのまま導入せず、かなり整理して白黒映画に部分的に着色したようなしっくりとした味わいが出ていた。そのサイケデリックな色調で思い出すのは、66年12月頃であったかに発売されたビートルズの一種のベスト・アルバム『オールディズ』のジャケットだ。それは原色を多用したイラストで、夏に発売された『リヴォルヴァー』の白黒イラストとは好対照を成していた。筆者にとっての66年の思い出はその2枚のアルバム・ジャケットに代表される。それから約半世紀近く経って本作を鑑賞し、66年のビートルズの音楽、そしてそれを聴いていた当時の筆者の環境などを思い合わせ、いろいろと去来するものがあるが、本作を知ってからビートルズの当時の音楽を思い浮かべると、またその理解が深まると言おうか、同じ時代にこういうことがあったのかという新鮮さを感じる。それは必ずしもいいことばかりではなく、むしろ醜さと言ってもよい。それは当時10代半ばであった筆者が知りようもなかった、あるいは気づいても意識したくなかった大人の世界であり、それがビートルズの音楽とはいささか違うように感じるが、実際はビートルズの中にもあったにもかかわらず、筆者が知らなかっただけかもしれない。くどくどしく書いているが、本作は同じ1966年のロンドンにしても、ビートルズより30歳ほど年長のイタリアの映画監督が見た世界であって、当時の筆者が本作を見ても面白いと感じたかと言えば、全く自信はない。それで今見てよく理解出来るかと言えば、それも心もとない。
 本作は哲学的と言うか、どういう意味合いで挿入されているか理解し難い場面がところどころにある。行き当たりばったりで適当に気になった物を撮影して筋立てに組み込んだかと言えば、そういう部分も多少はあるかもしれない。だが、そんなフィルムと時間の無駄はあまり許されない時代ではなかったか。かなりの部分は脚本段階で綿密に計画し、どいう場面をどういう構図で撮るかを決めていたと思う。そうした部分の代表は冒頭と最後に登場する顔を白く塗ったピエロ風の若い男女10数人で、彼らは大型ジープに乗って走り回る。最初の場面はごく短く、彼らのひとりは主人公のカメラマンに手真似で金を要求し、カメラマンは自分が乗るロールスロイスの後部座席から紙幣を1枚つかんで笑顔で手わたす。このピエロ集団は最後の場面ではカメラマンが訪れた芝生が生い茂る公園に出現し、そのうちのふたりが園内のテニスコートでプレーを始める。見えないテニス・ボールを打ち合うが、そのほかの10数人も無言でその試合を見続ける。パントマイムで演じられるその様子はどこか怖い。彼らを見ていたカメラマンは次第に注目するが、そのうちプレーしていたひとりがボールをコートの外に出してしまう。もちろんボールはないから、そのような演技だ。すると、カメラマンは彼らの期待に応えて見えないボールをつかんでコートの中に放り投げ、その次の場面では両眼を左右に動かす。つまり、パントマイムのテニス試合を見ているという仕草で、これは彼らの仲間になったということを示すだろう。迎え入れられたと言えばいいのか、あるいは自ら志願して同化したと言えばいいか、それは本作を見る者の判断に委ねられる。本作は最初にこの公園内の芝生が俯瞰的に映る。最後の場面は最初と同じだが、そうなる直前、カメラマンが画面中央にひとりたたずんでいたのがふっと消える。パントマイムは音のない世界だが、最後では主人公は姿さえも消してしまうということだ。これは当時のアントニオーニが厭世的であったからだろうか。彼は本作の主人公のようなカメラマンではないが、映画監督はそれと似たところがある。本作のカメラマンは映画の中では有名人で、写真を撮ってほしがる若い女がグルーピーのようにまとわりついて来る。彼の「女は飽きた」と言うセリフは本音だろう。ロールスロイスに乗るくらいであるから金には全く困っていない。そのようなカメラマンは70年代以降の日本にも何人かいたであろう。写真の時代が日本にやがてやって来る。本作はそれを先取りしているうえ、そういうカメラマンを批判的に見ているだろう。
 アントニーニは画面の構成にこだわる監督として有名なようで、さすが芸術の国のイタリアと思わせるが、それに関して本作で面白いのは画家が登場することだ。その画家は抽象画を描いている。あまり売れないようで、カメラマンは彼を軽くあしらい、絵を買ってやると言ったりもするが、画家は売らない。その画家にはおそらく同棲している女がいるが、彼女はカメラマンに色目を使う。女にすれば売れない画家より華々しく活躍するカメラマンの方がいいという考えなのだろう。そこに画家とカメラマンの社会的身分差のようなものが描かれているが、アントニーニは画家の肩を持っているのであって、カメラマンをいかにも軽薄な人物のように描いている。これは監督が画家になりたかったのに、映画という商品を作っていることに対して内心忸怩たる思いがあったからか。そういう面も多少はあるかもしれない。アントニーニは抽象画を好み、映画ではそのような画面構成をよくしたらしい。本作にもそんな場面がある。それはいいとして、先の画家の作品が少し映る。まるで何が描いてあるのかわからない抽象画ではなく。子どもの体の線が半ばわかるような微細な点描画で、デュシャンの油彩画を思えばいい。さて、カメラマンは自分のスタジオで使う骨董品をたまに買うのか、公園近くの骨董品店に立ち寄る。そこで木製の大きなプロペラを買うが、目的があってのことではない。買っておけばそのうち何かに役立てることが出来るかもしれないし、そういう機会がやって来ないかもしれない。誰でもそのような買い物をすることは一度はあるのではないだろうか。差し当たって生活に必要のないものだが、何となくほしくなるものだ。芸術品とはそんなものだ。それゆえ、このカメラマンは芸術心がある。それはあたりまえで、そのためにファッション写真で有名になり、また被写体を変えても個性ある写真を撮る才能がある。彼は写真集を出版する準備をしていて、その最後に載せる写真を探しているが、ついにそれにふさわしい写真を骨董店から出た後に撮ることに成功する。それはたまたま公園内に向かうと、100メートルほど向こうか、若い女性と老いた男が戯れている様子を見つける。手に持っていたカメラで何枚もその様子を撮影するが、そのうち女が気づき、走って来る。撮ったフィルムを寄越せというわけだ。カメラマンは拒否する。自分は職業でカメラマンをやっているから、何を撮ろうと自由ではないかと言うのだ。この場面から本作はミステリー・タッチが深まる。
 女は男の手を噛んでまでも返せと抗議行動を起こすが、男は負けない。男がスタジオに帰宅したところ、女がドアの前に走って来る。男の跡をつけていたのだろう。男は訝る。遠目に撮影しただけなのに、何か具合の悪いものが写っているのか。部屋に女を招き入れ、女はフィルムを返してほしいために上半身裸になる。その後ふたりが性行為に及んだかどうか。たぶんそうだろう。男はついにフィルムをわたすが、それは別のものだ。女が出て行った後、男は早速現像、焼き付け、引き伸ばしの作業に入る。これがけっこう長い。少しずつ男は真相をつかんで行く。女と男を拡大すると、女の視線が奇妙だ。彼女が振り向く方向には垣根がある。そこをブローアップすると、拳銃を持った男が隠れているではないか。どうやら女は老いた男を殺させるために公園内に連れて行ったようだ。ではその後その老人はどうなったか。さらに男はネガを調べ、細部を引き伸ばし、またその写真を撮影するといったことをして、芝生に横たわる老人らしき物を見つける。断っておくと、その場面までまだ1日が終わっていない。男は引き伸ばして粒子がかなり荒れた写真に写っている老人が本当にそうなのかを確認するために夜の公園に行く。そして死体を発見する。プロのカメラマンなら、その場面を写真に撮るだろう。ところが男は手にカメラを持っていない。そこが少し映画としては苦しい。ともかく、男は自宅に戻るが、先ほどまで作業していた写真はすべて消えている。公園で出会った女が偽物のフィルムをつかまされたことに気づき、また訪れたのだろう。だが、女ではなく、老人を殺した男かもしれない。ならばカメラマンは殺されずに済んだ。ふと見ると、床に1枚だけ写真が落ちている。芝生に横たわる老人だ。だがそれだけでは殺人を証明することにはならない。ほかの写真があって初めてそれは意味を持つ。男は自分が見つけた殺人事件を写真集を一緒に企画している友人に報告に行く。すると、ちょうど有名人が集まるパーティを開いていて、友人はマリファナで酩酊してまともに取り合わない。このパーティの様子は当時のロンドンでは本当にあちこちで見られたものだろう。アントニオーニはそんなロンドンの状況を知って本作をロンドンを舞台にすることを決めたのではないか。当時のビートルズもこのパーティに参加していた人物たちと同じようにマリファナに染まっていたが、そのことは日本にはまだほとんど波及せず、それに筆者は関心がなかった。もうひとつ当時の筆者では考えられなかった場面がある。カメラマンが夜のロンドンを車で走っていると、公園で出会った女を見かける。すぐに彼女を追うが、どこへ行ったかわからない。ここもミステリーだ。死体が消えたことと同じで、はたしてカメラマンは彼女を本当に見たのか。彼はあちこち走り回りながら、ある建物の内部で開催されているバンド演奏を見る。そういったライヴハウスは当時の日本ではまだ数軒しかなかったと思う。それに中学生であった筆者には無縁の場所だ。100人ほどの若者が静かに見守る中、バンドは演奏している。ヤードバーズで、曲目はエアロスミスがその後演奏する「トレイン・ケプト・ア・ローリン」かと思ったが、そうではないらしい。カメラマンがその演奏を見る場面は本当は本作には必要ないものと言ってよい。だが、アントニオーニはせっかくロンドンの今をドキュメントするには、若者が歓迎するロックを挿入したかったのだろう。それにはビートルズはふさわしくないだろう。彼らはライヴハウスで演奏することをもうとっくに卒業していた。それでもっとワイルドで新しいロックがよい。そこで結局ヤードバーズになったようだ。
 さて、あれこれ書き過ぎてまとまりがつかない。カメラマンは公園内でたまたま撮影した男女の写真が何かわけありであることを知り、ブローアップを繰り返してついに殺人事件があったことを知る。女が真相を握っているが、教えてもらった住所と電話番号はでたらめだ。一夜明けて男はまた公園に向かう。死体は消えている。写真は真実を捉えるものと男は常日頃思っていたろう。拡大すれば細部が見え、そこから新たな事実さえもわかると思っていたし、実際その行動によって女が隠そうとした殺人事件を暴いた。写真を拡大すると粒子が荒れて抽象画のようになる。そのような写真に写る老人の死体は誰にとっても本当の死体かと言えばそうではない。カメラマンがそれを証明するには、奪われた他の写真が必要だ。これは写真は嘘をつくというより、本来嘘ではないかとの疑問を抱かせる。写真が連続したものが映画とすれば、映画も同じと言ってよい。ドキュメンタリーは真実を捉えると思われているが、それとていい加減なものだ。本作の最後、いかにも軽い存在のようにカメラマンはふっと画面から消え、芝生になってしまう。それはカメラマンのはかなさを示しているかのようだ。写真の拡大を続けるとやがて真実に至ると思ったカメラマンだが、その真実すなわち殺人事件があったということは自分しか知らない。それでは本当に事件があったことにはならない。カメラマンは自分の仕事の限界を感じたであろう。そして途方に暮れつつ、パントマイム集団に同化して見えないボールを目で追い続ける。それはカメラマンとしては無力を示す以外の何物でもない。見えないボールを撮影することは出来ないが、ピエロに扮した若者たちはまるでそれが見えるかのように全員動いている。カメラマンはそのことに気づいてカメラマンとして成長するだろうか。そこで思い出すのは映画に登場した抽象画家だ。彼は見えるものを描きながら、見えないものまで描けようになっている自分を知っている。これはカメラマンが馬鹿にしていた画家の方が上ということだろう。アントニオーニはそのことをよく知って映画を撮った。そのため、名監督と言われている。ところで、「欲望」の題名は本作にふさわしいか。まさか「BLOWUP」から「BLOWJOB」を連想し、そうしてもらいたい欲望を持った男が考えた邦題ではないだろうな。
by uuuzen | 2014-02-24 23:59 | ●その他の映画など
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