銃の玩具は今は流行っていないのだろうか。水鉄砲は健在のはずだが、モデルガンと呼ばれる精巧なものは2、30年前に製造がかなり制限されるようになったと記憶する。TVドラマでそれを使う場合でも、黒色は駄目で、銀色しか許可されないようになったはずだが、いつの間にかまた黒色が使われている。
銃の中でも拳銃は戦後特に人気があって、それが登場する漫画が盛んに描かれ、ついには拳銃不法所持で逮捕される者も出た。筆者は小学生の頃に拳銃に興味があって、何度もせがんで母に買ってもらった。小学5,6年生の頃にはライフル銃のモデルガンが流行したが、これはアメリカの西部劇の影響だ。少年サンデーやマガジンが発刊されてしばらくの間は戦争漫画も人気で、戦艦や戦闘機のイラストが毎号掲載され、またプラモデルもよく売れた。平和が戻ったので、戦争を懐かしがっていたのだろうか。子どもの頃はそんなことを考えもしなかったが、今にして思えば、当時の大人たちはどういう理由で戦争の道具を盛んに子どもたちに示していた理由がわからない。そういう傾向にPTAが顔をしかめたのか、あるいは出版社がもう人気を得るには飽きられたと考えたのか、小学生が買うようなモデルガンは作られず、漫画でも戦記物は見られなくなった。子どもに人殺しの道具に関心を持たせるのはとんでもないというのは何となくわかる。だが、子どもはよく知っている。本物の銃がどういうもので、どれほど怖いかだ。とはいえ、アメリカではここ半世紀ほどか、学校で銃をぶっ放す生徒が散見され、校友が犠牲になっている。そういう事件があれば、やはり日本はモデルガンなど子どもにあまり買わせないのがいいという意見が大手を振る。アメリカでは銃の規制は不可能なようだが、そういう状態にならない手前にある日本は賢明な国だという考えが日米にあるだろう。だが、ここ10年か20年か、拳銃は密かに日本に蔓延し、今ではその気になれば手に入れられるという記事を何かで読んだことがある。今日のネット・ニュースに、23歳の女性が車の中で頭を銃で撃たれて死んでいるのが見つかったというのがあった。覚醒剤や麻薬や市民に広く浸透しているのと同様、銃ももはや珍しくなくなっているのかもしれない。ポルノがあたりまえのように広がったのであるから、麻薬も銃もアメリカ並みにならない方がおかしいだろう。ただし、日本はまだ奥ゆかしいので、表にはなかなか出て来ない。だがそれもいつまでだろう。やがてアメリカ並みに学校で銃を使って同級生を殺す事件が起こるかもしれない。その筋から入手しなくても、3Dプリンタで部品が製造出来るらしく、爆弾製造マニアがいるなら、銃製造マニアの出現は時間の問題だろう。
そういう流れの起源はどこにあるか。筆者が子どもの頃にプラスティック製ではあるが、精巧なモデルガンが子どもの玩具として売られていたのは、何かの影響がある。それは映画だろう。オリンピック前はまだどの家庭にもTVはなかった。そのため、まだまだ映画が大きな娯楽で、映画で格好いい大人が登場し、世間の人気をさらった。各映画会社は棲み分けもあって、専門の分野を形成していて、日活は小林旭や宍戸錠を使ったやくざ映画を撮っていた。とはいえ、小学生の筆者は日活のそうした映画を見たことはない。映画館の前を通って派手な看板に目を向けはしても、大人の映画という気がして見たいとも思わなかった。やくざ映画は東映も作っていたが、日活のはいわゆる「ハードボイルド」と形容されるものだ。筆者はその言葉をすでに子どもの頃に知ってはいたが、大人になって考えるに、「固く茹でた」という意味をいったいどう転用しているのか、わかったようなわからないようなところがいまだにある。「固く茹でた」の反対はまだ半生で、それは文体で言えば何となくどういう雰囲気を指すかはわかる。面倒なので調べずに書くが、「ハードボイルド」はたぶん小説の文体を形容するのに使われたのではないか。音楽の「ロックンロール」と同じで、ある種の小説に対して名づけられた気がする。そうした小説家はアメリカにはたくさんいるのだろう。ジョン・ゾーンが好きなミッキー・スピレインもそんなひとりであろう。早川ミステリーから出た彼の本を何冊か古本で昔買ったが、その1冊を読み始めて途中で放り出した。ただし、「固茹で」の意味は何となくわかった気にはなった。フランスのゾラなどの小説とは全く違う。さっさと読み飛ばし、暇潰しをするには持って来いだ。それが悪いというのではないが、同じ読むならもっとほかのものを読みたい。暇潰しということは娯楽であって、アメリカでは何もかもが娯楽とならねば大きな人気を得ることが出来ない。ザッパが自分の音楽をそう呼んだことはその意味で正しい。娯楽は消耗品とみなされる。新しい娯楽が毎日必要であるからだ。人々はすぐに新しいことに馴れてしまう。その退屈を吹き飛ばす斬新さが娯楽製造者には常に求められる。今はTVがそうで、60年代半ば以前は映画がその役割を担った。映画は消耗品ではあったが、フィルムという物が残るので、世代が交代するほどのまとまった年月が経つと、また娯楽としての役目を果たす。つまり消耗品のようでいて、そうではない。これはTV番組でも同じで、昔の映像を見て懐かしく思う人が多く、娯楽としての生命を永遠に持ち続ける。そうなればもはや消耗品の娯楽とは思われず、芸術と形容されることもある。どう呼ぼうといいのだが、どの時代にあっても懸命に製造された作品は、人を楽しませ、時代の特徴を色濃く内蔵する。そして、時代の特徴は時代をかなり経てこそよく見えて来ると言える。もちろん、隔世し過ぎると意味不明の事柄も多くなって行く。せいぜい半世紀程度がよくて、「ああ、自分が子どもの頃の雰囲気がよく出ているな」と懐かしさが手伝って面白く鑑賞する。
さて、今日取り上げるのは鈴木清順監督の1963年の映画で、筆者は初めてこの監督の作品を見た。『ツィゴイネルワイゼン』は芸術作品との触れ込みで、監督は昔TVにも盛んに出演し、時の人となっていたことをよく覚えている。同作品は気になりながら見ていない。先週右京図書館に行って調べものをしたついでにDVDコーナーを覗くと、本作があった。『ツィゴイネルワイゼン』でイメージしていた監督が若い頃にハードボイルドを撮っていたことを知った。それほどに筆者は無知だ。ともかく、面白そうなので借りた。見始めたところ、最初から店舗がよく、ぐいぐい引き込まれた。90分の長さは、家内は途中で少しだれると言ったが、筆者はそうは感じなかった。むしろ90分に詰め込めるだけ詰め込んでいて、無駄なカットがない。少しよそ見をすると、わけがわからなる。現在のTV画面のワイドさ以上に横長で、70ミリで上映されたのではないか。その横長画面も当時はTVにはない豪華さと考えられたであろう。この映画の翌年が東京オリンピックで、本作の舞台となった東京は大きく変貌を遂げて行くが、本作では後半に「矢切の渡し」が映る。筆者は関東に詳しくないので、それがどこに位置するのか知らないが、今ではまず見られないのどかな場所で、監督草が茂る土手を透視図法的に遠くに焦点を結ぶように捉える。そういうカットからもわかるように、監督は画面の構図を計算し尽くしている。その才能が、見てはいないが、『ツィゴイネルワイゼン』では全開になっているのだろう。本作は色彩もよく考えられている。最初白黒かと思うが、白黒画面の一部、花の部分のみ赤に映る。それ以降は全体がカラーになるが、その色合いもフィルムの劣化がなく、また変に鮮やかでもなく、アメリカ映画を見るように美しい。音楽はジャズが使われているのは当然としても、本作に登場するキャバレーによく似合っていて、60年代前半の大人たちの世界を垣間見るようで興味深い。キャバレーと来ると、女ややくざが絡んで来る。本作はまさにそういう映画で、題名の「野獣の青春」はあまり似合っていないと思うが、本作ではいかにも大人に見える登場人物たちは、まだ20代、もしくはせいぜい30代前半で、「青春」と呼ぶべき世代だ。筆者が子どもの頃は、大人はとんでもなく大人に見えた。その当時の彼らの年齢をとっくに過ぎた今でも、やはり同じように感じるのは、昔の大人は今よりも早く大人びたからかもしれない。となると、本作当時の「大人」すなわち30代をもっと過ぎた世代は本作を見てどう思ったことか。「今時の若い奴らは銃やナイフを使って物騒なことをしやがる。もっとおとなしくやれないのか」などと顔をしかめたかもしれない。
本作の原作は日本の小説で、たとえば前述したスピレインといったアメリカのハードボイルドの影響を受けているだろう。その手の話をする資格は筆者にはないので、本作の感想に戻るが、本作は最後の方に意外な展開があって、それが本作を並みの作品に留めていない。その意外さは、筆者は予想出来た。いや、誰でもそうだろう。ミステリーの部分が予測出来ては作品としては失敗かもしれないが、本作はそれを補う設定が用意されていて、恐い話ながら、うまく出来ている。その恐怖とは、「女は恐い」だ。やくざ映画であるので、登場人物は男が9割を占める。だが残る1割の数の女が束になった男と互角になっている。また、男女が登場するやくざ映画なので、そこには色も描かれるが、本作では覚醒剤やSMセックスが描写され、現在と何ら変わらない暗黒社会があったことを知る。迫真的なのは、薬が切れた女がそれをほしがって男にせがむ場面だ。そういう場面はくれぐれも薬物に染まってはならないという警告を発しているようだが、本作を見てそんなことを考える人はいないだろう。今では脱法薬物が蔓延し、本作当時以上に深刻な問題になっているのではないか。話を戻して、「恐い女」というのは、やくざに囲われる女のことで、男のためには刑事と結婚し、警察の情報をやくざ側に流すことも平気だ。しかもその女はごく普通の市民として生きていて、誰にもやくざと関係があることなど疑われない。このこともまた今も同じではないかと思う。やくざがいかにもやくざという風貌をしていては世間では通用しなくなって来たのが60年代前半で、そのことを本作のやくざが発言する。今はもっとその傾向が一般化し、やくざはいかにもやくざという服装をせず、そのような車にも乗らない。ごく普通のビジネスマンに見えるそうで、それは金儲けのためには当然のことだ。本作で登場するやくざは敵対するふたつの組がある。新しい組は親分の組から分かれたが、親分とは考えが違い、どうすればより金儲けが出来るかを知っている。親分は古い体質で、いかにも昔のやくざだ。この双方が利害の対立から衝突し、最後はともに沈没する。対立するのは間に入った流れ者の計画による。この流れ者は宍戸錠が演じる。腕っぷしがよく、まさにハードボイルドの代名詞のようなキャラクターだ。彼は元刑事であった。本作の最初は彼の上司が情婦と心中した場面だ。女の遺書を誰も疑わないが、彼は何かあると感じ、刑事を辞めて真相を明らかにしようとする。そしてやくざ社会に入り込んで行く。そこで画策したことは、対立するふたつのやくざ組織を衝突させることで、そのために二重スパイとなる。もう一歩のところでそれがうまく行くところで新しいやくざの方に捕まってしまうが、最後に主人公を窮地に陥れることはアメリカの娯楽小説や映画、漫画などでは常套手段だ。やくざに捕まれば一気に殺されるか拷問される。本作では先にSMセックスと書いたように、拷問が扱われる。その道具はカミソリやナイフだ。
猟奇的な場面は描かれず、ほのめかされるだけだが、それがまた怖い。宍戸錠演ずる元刑事は編み物教室を開いている元上司の奥さんの家を訪れ、お悔やみの言葉を述べ、情婦との心中は偽装であり、その恨みを晴らすことを誓う。だが、その楚々とした奥さんは新しいやくざの親分の6番目の情婦で、刑事と結婚したのはやくざの命令であった。そのように奥さんは自分の正体が宍戸錠にばれた途端に口走る。これはそのまま信じていいか。宍戸は一瞬迷ったように見えたが、きっぱりと判断を下す。そして自ら手を下さず、カミソリをいつも持っている親分の弟を怒らせる。そのカミソリ男は自分の母が黒人相手のパンパンであったことを他人から言われることに我慢ならず、そのことを口走った者の顔をカミソリで簾にように切り刻んでしまうことで知られている。それを咄嗟に思い出した宍戸は奥さんにその禁句を言わせる。その罠に嵌った彼女は次の瞬間、義弟に襲われるが、それは宍戸が閉めた襖の向こう側の出来事だ。このどこにでもいそうな奥さんを悪役に設定することは、本作で最も現実らしい。そういう現実はごくごく稀であるのは確かでも、皆無ではないと誰しも本作を見て納得するだろう。覚醒剤中毒の女もそうで、現実は少し間違えばそういう世界が待っているという怖さを本作はうまく暗示している。それが青春特有のことで、また野獣のような世界が青春には混じっているということを本作の題名は意味しているようだが、実際そのとおりだろう。覚醒剤中毒にしても、最初はほんのちょっと試すことから始まる。そのため、ごく普通の人がそれに染まってしまう。宍戸演じる元刑事は正義感溢れて先輩の無念を晴らすために犠牲的行動に出るが、その人格はまず現実にはあり得ない漫画的なものだ。それに対し、やくざやその情婦はみな現実感がほとばしっている。カミソリやナイフ、それに銃やライフル、さてはダイナマイトまで手にするのは、当時はあり得たことだろう。本作では最後にやくざの闘争があってどちらも壊滅するが、それでやくざが全部滅びたかと言えば、誰もそんなことを思わない。本作はやくざのすべてが人情味のない連中とは描いておらず、敵対するやくざの女に一目惚れする男も登場する。そんな甘っちょろい考えでやくざ稼業がやって行けるかと思うが、そのことを示すように、見初められたその女は男に抱かれようとしながら、後ろ手で武器をつかもうとする。ここでも男以上に怖い女が描かれる。やくざを操っているのは女かもしれない。やくざの女が親分に鞭打たれる場面がある。泣き叫ぶその女を見て性的に興奮する親分で、女は犠牲者かと思えば、鞭打たれることが快感になっている。
ま、あれこれ書いたが、本作を封切り当時見ても筆者は楽しめただろうか。当時12歳で、ビートルズを聴き始めようとしていたが、酒や覚醒剤、SMプレイなどが登場する本作は嫌悪感から遠ざけるのではないにしても、大人が見るべきもので、子どもは無視すべきという自己規制の思いが働いたに違いない。本作は東京が舞台になっているとはいえ、街中でのロケはほとんどなかったであろう。車が走る場面では道路際の交通標識が何度か見えた。それは数年後には現在のものに一新されるが、当時はまだ縦長の長方形であった。それを筆者は鮮明に覚えている。それがオリンピックを境に斬新なデザインのものに取って変わった。オリンピックでは競技のロゴマークが作られた。そうしたヴィジュアル・デザインが60年代半ばに大きく進歩した。本作はその前夜を描くが、キャバレーの内部ややくざの衣裳など、モダンなスタイルはすでに随所に見られた。鈴木監督の美意識はそうしたところ以外に、古いやくざの親分が携わっている稼業である映画館の描写によく表われていた。建物の階上がやくざの事務所になっていて、その部屋の窓から上映中の映画が丸見えになっていた。その映画中の映画は、筆者には何の作品かわからなかったが、監督にはこだわりがあったはずだ。その事務所内で拳銃を撃つ場面が後半にある。その大きな音で発砲が観客にばれてしまうが、発砲された瞬間、映画中の映画でも発砲場面が映っていた。それは監督の遊びに属する部分としても、そういう遊び心を盛り込むところに本作の余裕がある。そしてそういう部分は作品の無視出来ない特色となって長く記憶される。大衆娯楽のやくざ映画にそのような工夫は不要という意見があるかもしれず、またそのような場面に気づかない人も多い。人によっていい部分が異なることがいいのであって、時代を経るごとにいろんな見方が出て来るのが名作というものだ。宍戸錠主演の映画を初めて見たが、なかなかいい味を出している。これはかなり以前に書いたと思う。筆者と同じ年の従姉は60年代半ば、宍戸錠のファンであった。筆者は映画の看板や写真で顔をよく知っていただけで、どこがいいのか悪いのかがわからなかった。本作では頬がかなり膨らんでいて、整形手術をした後の作品であることがわかる。それが半世紀経った今は元の頬に戻し、相変わらずタフな印象は強いが、好々爺然とした笑顔を絶やさぬ表情であるから、時代は大きく変わった。ヒロインの渡辺美佐子は家内に言わせると、超有名で今も同じような顔で役者を続けているとのことだが、筆者は今回初めて演技を見たと思う。