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●『速水御舟の真贋考』
かれるのではなく、轢かせたと考えるのが今日取り上げる本の著者の考えだ。今朝のネット・ニュースに除雪作業中の高校生が手首を切断された事故があった。たぶん右手であったと思う。故障かと思っていた除雪機が急に動き出し、それに触れようとしていた手首が切り落とされた。



●『速水御舟の真贋考』_d0053294_040027.jpgたまに似た事故がある。まさか自殺しようと考える者以外は、自分からそんな事故に巻き込まれようとは思わないだろう。『君子危うきに近寄らず』だ。ま、筆者は臆病であるから、危険なところには接近しない。本書を先週1年ぶりか、久しぶりに右京図書館に行った際に見かけ、面白そうなので借りて来た。分厚いのに2日で読んだ。早速アマゾンで調べると、読者の反応が1件のみ書かれていて、星はひとつであった。「トンデモ本」という評価だ。筆者はそこまでは思わないので、それに対する反論を書き込んでやろうかと思ったが、アマゾンには書く気がしない。それでここに書くことにするが、反論とは言えない内容になるだろう。読了後、日が経つにつれて思いが変わって来たこともある。思うことは多い。半分は筆者の御舟に対する思いになるかもしれない。本書の筆者は月山照基という名前で、最初お坊さんかと思った。奥付を見ると、著者の写真があり、ペンネームであることもわかる。筆者より6歳年上で、骨のある風貌は好ましい。さて、筆者は御舟の名をいつ知ったろう。1980年に京都国立近代美術館で大規模な『速水御舟の芸術展』が開催され、それで知ったと言いたいところだが、もっと以前に重文「炎舞」で知っていた。だが、80年展はひとつの衝撃で、今でもよく覚えている。最初はひとりで、2回目は家内と一緒に行った。前期と後期に展示が別れていたからでもある。当時筆者は展覧会場で買った図録にその日づけを記入するのが習わしで、今手元に広げる御舟展の図録は2月27日に購入していることがわかる。もうすぐ34年目になる。この展覧会以降、関西では同規模の御舟展は開催されたことがない。東京の画家で、関西では馴染みがないと言える。山種美術館が昭和51年に安宅コレクションから御舟の作品を一括購入し、それを中心にほかからも作品が集められて80年展は開催された。93年か4年に山種美術館は御舟の生誕100年展を開催しているが、80年展のような大規模展は生誕150年か200年といった区切りでなければ開かれないだろう。
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 筆者が半年か1年に一度話をする西京極の古文書商は、会うたびに、「御舟の作品なんかもうあらしまへんで…」と言う。これは筆者が御舟の作品をほしがっているからではない。ごくたまにネット・オークションで御舟の絵と称する、かなり出来栄えのよい作を見かける。つい先日も芥子を描いた短冊が出ていた。絵具が多少剥落していたが、本物らしく見えた。だが、やはりそんなものが市場、しかもネット・オークションに出て来るはずがない。それに筆者は御舟の真贋がわかるほど作品を知らない。御舟は一時期京都に住んだので、京都を描いた作がある。洛北修学院の森に囲まれた家を描いた、全体に青と緑が目立つ作は京国近美でたまに出ている。筆者は御舟にぞっこん惚れている方ではないので、たまに御舟の絵を見てもその場に立ち尽くすというほどのことはない。だが、どういうわけか御舟の作にはただならぬ気配が漂っていて、それが忘れ難い。不気味とでも言えばいいのだろうか、凄味と言うべきか。研ぎ澄まされた刃を連想する。切れ味が鋭く、あまり近寄りたくないという感じだ。それは若い頃の彼が市電に足を轢かれ、片足をなくしたという事件が影響しているかもしれない。そのような事故に出会った画家は珍しい。その事故の様子はさんざんあちこちに書かれているので、美術好きなら必ずどこかでいくつかを読んだことがある。筆者が記憶しているのは、車が向こうからやって来たので、そっちに倒れると頭を轢かれるので、反り返って市電側に倒れ、片足を犠牲にすることにしたと言う御舟の冷静な判断だ。咄嗟にそうした判断は誰でも出来る。だが、御舟のその事故に対する記憶は冷静過ぎて、そこに絵に流れるのと同じ凄味を感じる。80年展は120点ほどが並び、筆者が最も印象に強くしたのはチケットやチラシに印刷された「名樹散椿」の屏風だ。この散り椿は京都の北野天満宮近くのとある寺に今もある。80年に早速筆者は家内と一緒に見に行った。御舟の絵のようには見えなかったが、それも当然で、御舟はかなり装飾的に処理している。琳派風と言ってよいが、花や葉は意匠化せずに写生味が強い。その後筆者も椿を写生し、それを題材に友禅屏風を制作したが、その原点に御舟のこの屏風との出会いがあるような気がする。
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 本書は「速水御舟の真贋考」と題し、御舟に贋作が少なからずあることを示している。だが、本書は御舟の名品をもっぱら扱い、その贋作と対比させて御舟の真価について書くものではない。その点がまず拍子抜けした。題名と内容が合っているとは言い難い。本のカヴァーに短冊が1枚印刷される。それは御舟の妻の兄である御舟研究家であった第一人者が生前贋作と決めつけたものだ。そのことに対して月山氏は意義を唱えている。そしてこの短冊ともう1枚対になって市場に出て来たものを中心に筆を進め、本の後半過ぎではいよいよ御舟の片足切断事故へと話をつなげるのだが、それは御舟が自ら仕組んだ事故で、美の女神に片足を捧げる決心をこの短冊を描いた頃からしていたのではないかとする。短冊の真贋問題に関しては著者の意見は納得出来る。ところが、そこからかなり踏み込んで御舟が自分で足を轢かせたというのはやはり信じ難い。そのようなことをする御舟であろうか。それは君子のすることではないのではないか。一歩間違えれば片足だけで済まない。それに両手両眼さえあれば画家を続けられるかと言えば、やはり両足も必要だろう。不自由な体になって初めて絵に真実が宿ると御舟が考えていたとは思えない。だが、月山氏は事故についても丹念に調査し、不自然な記事や証言があることに疑問を抱く。そしてやはり御舟は自分で市電のレール下に足首を突っ込んだと断定するのだが、いくら当時の記事や御舟の証言を突き合わせた結果、内容の不一致があるとしても、それら伝わる記事や証言だけで判断しては勇み足になる。伝わっていない現場での事実がいくつかあることは考えられるし、結局のところ御舟の迂闊さが招いた事故と見るべきである気がする。本書が「トンデモ本」と揶揄されるのは、本のカヴァーに印刷される短冊と事故を結びつけているところで、著者はまるで御舟にとって人生のその後を決める最重要作でも言いたいような印象を受ける。この短冊は今回筆者は初めて見た。そしてさほどいいとも思えなかった。紫の太陽の中に八咫烏が一羽描かれ、その下に拙い文字で何か書かれている。先の「名樹散椿」と比べるほどのこともない一種の素朴絵で、これが御舟かと誰しも思うだろう。
 この短冊を月山氏は勤務していた画廊で出会い、やがて購入し、また手放すのだが、強く惹かれるものがあった。そして御舟の妻の兄、吉田幸三郎にも見せる。吉田氏は『紫朱』と題する御舟の贋作画集を私家版で刊行していて、その中にこの短冊は収録される。つまり、御舟作品の権威がそう評価しているので、どうあがいても真作にはなりようがないが、月山氏は食い下がり、真筆を主張する。筆者はどうかと言えば、実物を見ていないので何とも言えないが、真筆であっても名作とは言えないので、無視していいのではと思う。月山氏がこれにこだわるのは、個人的に強い思い入れが御舟に対してあることと、かつてこの作を手元に置いたことによる。月山氏は東京生まれではないが、江戸っ子を自負しているようなところがあり、御舟も生粋の江戸っ子で、その気概はよそ者にはわかるまいという思いを持っていることが行間から伝わる。先に筆者は御舟は京都ではあまり人気がないのではというようなことを書いたが、それは京都にも有名な画家をたくさん輩出して来ているからでもある。東京に頼らずとも、自前でまかなえるという矜持だ。そのため、御舟の才能は高く評価はするが、月山氏のように絶大ということにはなりにくい。さて、吉田氏は御舟に最も近くいた鑑定家であったことになるが、この八咫烏の短冊は戌午すなわち大正7年(1918)元旦に描かれたことが画面下の書き込みからわかる。その頃御舟は独身で、吉田氏とはまだ出会っていなかったようだ。結婚は大正10年3月で、短冊から3年少し経っていた。また、御舟が結婚してからの作品を吉田氏がすべて見ていたことも考えにくい。吉田氏にも生活はあり、まさか毎日御舟の画業を監視することは出来ない。そのため、いかに御舟鑑定の第一人者とはいえ、その眼力を誰よりも高いとみなすことには抵抗がある。月山氏もそのようなことを言っていて、その点は筆者は賛同する。つまり、この短冊は吉田氏が言うように贋作でない可能性はある。そして実際真作であるだろう。それによって御舟の画業がどう違って見えて来るのかというのが、本書をぐいぐい読ませる魅力になっている。推理小説のように謎が解かれて行くからだ。
 月山氏は短冊に書かれる文章「朝噸を夢み其図を写し以って記念とす」から、もう1枚の竹を描いた短冊とともに御舟は神棚に祀っていたとする。竹を描いた方には書き込みはないが、画面下の竹の内部に印章が捺されている。それは八咫烏の方にもあるものだが、竹の内部に隠すように捺印されていることを、著者は竹の中の幼ない姫と考え、この竹を「竹取物語」すなわち「月」を意味するものと考える。一方は「朝噸」であるから「旭」だ。2枚で日月となって、神棚に祀るにふさわしいものとする。市場に出て来たのが2枚セットであるから、御舟が最初からこれら2枚を対として描き、そして画室の神棚に隠していたとするのは、根拠が希薄な気がする。だが、それには御舟コレクターであった武智鉄二監督の証言がある。それを著者は直接聞いている。短冊は御舟の画室にあったことは間違いないらしい。それをなぜ吉田氏が贋作と言うのか。そこには吉田氏にとってつごうの悪い何かがあったのだろうと著者は推測する。そのことも本には書かれているが、吉田氏が生きていれば訴えられかねないのではないか。そのことはともかくとして、この短冊を描いた年の御舟は24歳で厄年であった。そのことに着目した月山氏は、市電事故までの日数を計算する。すると、440日目に相当する。これは「死死霊」と語呂が合い、御舟はちょうどその日を待って、自分の片足を美の女神に捧げる儀式を敢行したのだとする。筆者が奇妙だと思うのは、御舟がそこまで自分の画業に対して縁起めいたことを信じていたのであれば、それは死ぬ日こそを決めていたのではないか。三島由紀夫のようにだ。三島ほど美意識にこだわった作家はいないだろう。御舟が何もかも予め計算し、そのとおりに事を運ぶ強靭な意志があったとすれば、市電に足を轢かせるのと同じような、誰にも真実を明かさないが、同じように他者には衝撃を与える事件をその後も起こしたと思える。三島のように、大事なのは最期だ。その形で人々に強く記憶される。御舟が自殺すべきであったと言いたいのでない。自ら片足を捧げるという行為は、表向きは格好よさそうだが、筆者はかなり不格好なことと思う。そんなつまらないことにために身を危険に曝すことは賢者のすることではない。足の1本を失うことで、以前よりいい絵が描けると信ずることはかなり馬鹿げている。御舟がそのようなことにうつつを抜かすとは筆者には思えない。元旦に太陽の中に八咫烏がいる夢を見ることは珍しい。それで旭と対になる月を意味する竹を描き、2枚の短冊を神棚に祀ったとして、御舟はその時、縁起の悪いことを考えたであろうか。全くその反対であったはずで、その440日目を指折り数えながら美神に身の一部を捧げることを思い続けたなど、やはりあまりに想像が羽ばたき過ぎる。3本足の烏を描いたので、御舟は片足を失くすことを計画したとも書かれているが、これはおかしい。3本足の烏は1本足りないのではなく、多い。つまり、御舟は足を失ってはならない。むしろもう1本手か足を身に具えてこそ、八咫烏と同じ姿になる。厄祓いするために片足をあえて失ったと見ることも出来そうだが、440日経てばすでに厄年は終わっている。
●『速水御舟の真贋考』_d0053294_0401148.jpg

 本書を読んでいて最初に多少おかしいと思ったのは、吉田氏が『藝術新潮』に真作と贋作の図版を並べて書いている記事に月山氏が異論を唱えたことだ。それは1977年のことで、当時筆者はその号を読んでいる。それにその御舟画の真贋記事も覚えている。月山氏は真作と贋作の図版が入れ替わっていると新潮社に電話をしたが、取り合ってもらえなかった。権威の吉田氏が間違うはずがないという考えであったと月山氏は書いている。その号が手元にないので、本書に載っているあまり鮮明ではない図版を載せるが、色紙に白百合を描いたもので、左が贋作で、右が真作と吉田氏は鑑定している。どちらかが模写したが、月山氏は落款印章の出来映えは左の方がよく、また画面左端で途切れている茎や葉の描き方は左の方が自然で、右は宙ぶらりんになっているとして、左を真作とする。これは双方を手元に置き、つぶさに見ないことには何も言えない。吉田氏はそれをしたと思うが、その立場にあればより情報が多く、絵具についてもじっくり観察出来るので、真贋判定は写真で考える以上に正確になる。そこで、月山氏は主に構図で判断するのだが、吉田氏が真作とする右図の方が左図よりも茎や葉がより多く見えているので、左図は右図を模写しながら、左端が収まり切らなかったと考えることが出来る。ただし、月山氏の言うように、右図は左端の一点から茎や葉が飛び出ていて、そこで切り取ったかのように不自然だ。もうひとつの違いとして、右図では一番上の弧を描く葉の中央に枯れて色の異なる箇所がある。写真ではよくわからないが、左図にはそれがないか、あってもかなり目立たない。この枯れた箇所は重要だ。この鉄砲百合は横向きに描かれる。それは自然な姿ではない。白百合の花は枯れ始めると全体に透き通った白になる。そしてポロリと花が落ち、めしべだけが残るが、本図はその直前の姿であろう。ならば葉の一部に枯れがあるのは自然で、画面左端の一点で茎や葉が飛び出ているように見えることにも納得が行く。先に書いたように、御舟の絵にはどこか怖い凄味がある。「炎舞」もそうした絵だ。有名な「京の舞妓」もどこか変で、気味悪い。生命のはかなさを感じさせる御舟独特の味は、右図の百合にもあるように思える。最後に載せるのは御舟の肖像写真だ。意志の強さがよく出ている。そうそう、本書は語彙が豊富で、文体も筆者には到底真似が出来ないもので、読みやすくまた香りが高い。それにいろいろと面白いことがわかる。たとえば「十九日」を崩して縦に書くと「はか」と読めることで、これは「馬鹿」と「墓」の意味に使える。今日は19日だ。筆者の馬鹿な考えを披露するには持って来いの日ということだ。
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by uuuzen | 2014-02-19 23:59 | ●本当の当たり本
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