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●『鶯』
の声を毎年今頃にはもう寝床で聞いたと思うが、わが家の裏庭の向こうにあった畑に家が11軒建ってからは、山からの吹きおろしの寒さはかなりましになった代わりに野鳥の飛来も少なくなった。



それはそうだろう。畑ならば虫がたくさんいた。それを捕食する鳥がいてあたりまえだ。その虫で思い出すのは畑に棲息していたテントウムシだ。毎年それがこれを書く部屋の畑側の大きな窓の、つまりアルミ・サッシの隙間でたくさん冬越しした。多い時は200や300といった数であったのが、去年は20匹ほどで、今年は1匹も見かけない。かわいそうなことに、激減してしまった。同じようにさびしいのは、鶯の声が聞こえないことだ。本格的に鳴くのはまだこれからだが、わが家に飛来して鳴くことはないだろう。その鶯の鳴き声を今日はどういうわけか思い出した。それほどこの30年の間に筆者の記憶に鶯の声が梅の花が咲く頃になると聞こえることが無意識のうちに記憶として刻まれたのだろう。風物詩として当然であったものが、いざなくなってしまうと心に穴が開いたように感じる。それはさておき、鶯で思い出したのが今月4日に京都文化博物館の映像シアターで見た映画『鶯』だ。最初筆者はこの題名を『蛍』と勘違いしていた。というのは「鶯」はほとんど「ウグイス」とこのブログで書いて来たからだ。また、今月の同シアターの上映作品に『蛍火』と題する作品があり、その字面とごっちゃになった部分もある。この『鶯』を見たいために当日出かけたのはなく、展覧会のついでに見たことのない作品なら何でもよかった。本当はその1週間ほど前に上映された黒澤明の作品を見たかったのが、家内のつごうがつかなかった。2月の上映のテーマは『宝塚歌劇100周年―宝塚歌劇女優と映画』で、宝塚に関心のない筆者はどちらかと言えばあまり見たいとも思わなかった。ま、展覧会のついでに無料で見られるから見ただけのことだが、今日その作品の感想を書く気になったのは、裏庭で毎年聞くことが出来た鶯の声からの連想もさることながら、やはり少しは思うところがあるからだ。
 それは戦前の日本人が現在とどう違うのか、あるいは同じなのかということだ。戦前を知らない筆者にはそれがわかるはずはない。そのため、戦前の日本人の代表的とも言える精神を本作によって垣間見たとしか言えないが、他の同時期の作品とそれが共通しているのかどうかを調べないことには即断は出来ない。また、本作は原作作家や監督の思想を反映しているから、本作のみで戦前の日本人の精神を言い切ってしまうことは無理でもあろう。そのようなことをあれこれ考えると面倒臭くなって本作について書くのはよそうという気にもなる。だが、やはり書く気になるのは、筆者は戦後の生まれとはいえ、両親は戦前生まれであるし、今でも戦前を生きた人とはよく話すので、戦前を全く知らないとは言い切れないところがある。間接的に知ることもまた「知る」に属する。そのようにして過去を知り、それに学ぶことは大切で、そのために学校教育もある。とはいえ、そう書きながら、どれほどの人が過去に学んで過去の過ちを繰り返さないかと言えば、暗澹たる気持ちになる。これはすなわち学校教育に対する不信でもある。では、そのような考えが戦前にあったかどうかだ。懐疑的になることはもちろん戦前でもあったはずだ。戦後日本はがらりと変わり、それまで信じていたものを捨ててアメリカに右へ倣えとなった。そんな変わり映えの速さに懐疑的になった人もあろうし、戦争の悲惨な体験でそうなった人も多かったろう。本作に話を戻すと、封切られた昭和13年(1938)に本作を見た人たちが本作で描かれることに懐疑的にならなかったかどうかだ。そのことが一番気になった。本作では東北の貧しい庶民たちがたくさん登場する。国鉄の駅や警察署が舞台になり、駅員、警官が庶民に応対する。そうした「官」の人が庶民にどのように接するかと言えば、情も理解もある親分といったところだ。その点は美談としてまことに心和みはするが、その一方で一種の白けを覚える。それは筆者だけであろうか。会場には70代が多かった。彼らはどのように見たのであろう。また、本作が製作された当時の庶民も同じように見たかどうか。つまり、本作に描かれるように、「官」が「民」に限りなく同情し、手助けしたかどうか。そして当時がそうであったとすれば戦後はどうか。また現在はどうか。本作に描かれる「官」が嘘っぽいと言いたいのではない。経済的に貧しい世界では「官」も「民」も大差ない。だが、「民」にすれば身分が保証され、給料も滞りなく支払われる「官」と思っているし、本作でもそのことを口にする登場人物がある。貧しい東北の田舎町で最も経済的にましな立場にあったのは「官」の人たちだ。そのことを「民」が恨むというのではない。仕方ないことと諦めている。身寄りのない老婆が自分がかつて育てた「もらい子」を探すために駅にやって来る場面がある。老婆は警察に相談に行き、そこで椅子を薦められるが、「もったいない」の言葉を繰り返し、床に膝をつく。「官」に対して対等では恐れ多いという思いだろう。無学の自分とは違って警官は選ばれた偉い人たちだ。老婆はそのように思う世代であったということだ。老婆の断りをさして拒まず、警官は椅子に座り、その前で老婆は見下ろされながら語り出す。その光景に戦前の一種の身分社会を見た気がする。
 最近知ったが、明治天皇の血を引く旧華族というのだろうか、若い評論家兼タレントのような男がTVによく登場している。TV局はどういうつもりでその人物を出演させているのだろう。視聴率を取れるからという理由だけか。本人は自分を高貴な血筋であるとどれほど宣伝しているのか知らないが、TVにタレントと混じって出てしまうと同類とみなされる。下品に混じれば下品になるのであって、高貴の肩書が笑い話になってしまう。だが、一方ではそうは思わない俗物もまた多い。皇族の血筋と聞くだけで目がとろりとして崇拝してしまう。そういう人は戦前はかなりの割合を占めていたのではないか。戦後それが激減したかと言えば、案外そうでもなく、金では買えない高貴な血筋は成金にとっても羨望の的だろう。話を戻して、では本作に登場する老婆は「官」にひれ伏す俗物かと言えば、そうとは言い切れない。自分が椅子に座って警官と対等な目線になることをもったいないと思う気持ちは、卑屈とは限らない。そう言ってしまうと老婆を貶めることになる。限りない謙遜であり、また警官の職務に対する尊敬の念からごく自然に「もったいない」の言葉が出る。それは「官」に対して目を光らせるという戦後はあたりまえになったような庶民の態度ではなく、権利を委ねているのであるからそれに対してまさか怠慢はないだろうという信頼だ。その信頼を「官」は真摯に受け止め、裏切るような真似をしなかった。あるいはそう信じて疑わないのが「官」のあるべき姿と、「官」も「民」も信じ、そこに不調和はほとんどなかった。それが揺らぐのは戦後だ。そして今はどうかと思うが、本作を見てどこか不自然さを感じる筆者は、戦後はますます「官」はその責任をまっとうせず、「民」を侮っていると思っていることになる。つまり、戦後は「不信」が増殖する一方であったのではないか。そして前言を繰り返すと、本作を通じて昭和13年はそうした「官」と「民」との間の不信がなかったのかどうかと思うが、戦後よりはましであったと思う。これは「官」が責任を自覚し、「民」のためを思って働いたということだ。もちろん今もそうであるべきで、またそれは守られているが、「官」の不祥事は毎日のことで、ニュースにもなりにくくなっているのではないか。それで本作を見れば戦前はよかったと錯覚する人がある。そこで本作が美談の作り話であるという冷めた見方も必要なように思う。そう書くと、先の旧華族であった評論家を好きと言う人からは、「お前は戦前の日本人の心の美しさを否定するのか」と詰め寄られるだろう。
 先に書いたように筆者はまだ戦前生まれの人とたくさん知り合い、話をして来たので、戦前の人には戦後生まれにはない凛としたたたずまいのようなものがあると信じたい方だ。それは同じ戦後生まれの人の中でもあるかもしれない。前の世代はそれなりに人生経験が多いから、より若い世代からは尊敬される側面があるとの見方だ。年長者でも人によりけりなので、そうとは言い切れないが、「概して」の話だ。いつの時代でも概して「昔の人は偉かった」と思いがちであろう。それは国も問わない。その「偉い」との思いは戦前の日本では「民」が「官」に対して概して抱いたように本作からは読み取れる。「官」がしっかりと大事な仕事をしていてくれるので国家も安泰という思いが「民」にあり、また「官」はそういう眼差しを感じて真面目に職務をこなした。それは機械のように精確に電車を走らせるといったことから、「民」のためになることを優先するという考えでもある。それが実際に「民」から認められていたから「官」は「民」に偉そうに接してもよかったと言える。ところが戦後も現在に接近するにしたがって、「官」の職に就くのは生涯倒産しないからといった極楽主義、自己保身の考えだけで、ひどいのに至っては私腹を肥やす。それどころか義務教育の現場で教え子に手を出して逮捕される先生まで後を絶たない。「民」からの尊敬は消える一方だが、では戦前の「官」や学校の先生がどうであったかとなると、目立たなかっただけ、あるいは「民」が信頼を装っていただけで、案外現在と変わらないことが横行していたと見るべきかもしれない。となれば、戦前はきれい事を並べた時代で、かえって汚れた部分が明るみに出るようになった現在の方が健全と言うことも出来る。本作の感想を書くつもりが、戦前と現在の日本の「官」と「民」の関係のような話になった。断っておくと、筆者は本作を嘘っぽい駄作とは思わない。やはり現在とは違う、日本のよさというものが戦前にはあったと感じる。本作には悪人は登場しない。心の弱い人は登場するが、そうした人もいい面を持ち合わせている。そして駅員や警官は困っている人の立場に親身になる。薄情、非情といったものが描かれない。それは鈍行しか停まらない貧しい東北の町であるからか。たぶんそれも大きな理由であろう。
 まだ30代であるのに、8人であったか、次々と子どもが生まれた男が生活苦に陥り、長女を東京へ身売りさせようとする場面がある。女衒は間に入って数十円の利益を得るのだが、娘の父の手元に残るのは70円ほどだ。長女は駅で父親と別れるのを嫌がり、その場にかつての教師が登場する。教師は父を諌め、娘を売らないように進言する。だが背に腹は代えられない。教師は女衒にかけ合って、身売り代を値切る。ついに折れた女衒はしぶしぶながら元が取れればいいと思う。そして教師はその半額を出し、もう半額は警察が身売り防止法の財源で負担する。それで娘を売らなくて済んだ父だが、このエピソードは当時の東北から盛んに娘が東京に売られたことを物語る。そのような悲しい話ばかりが本作には描かれる。その悲しさを少しでも和らげるには、不幸な人がより不幸にならない物語にするしかない。それでささやかな幸福とでもいった場面が用意されるが、必ずしもそうとは限らない。たとえば、本作の題名になった鶯だ。これも子どもをたくさん抱えた若い母親が、売る物がないので鶯を捕まえて小さな籠に入れて警察に持参する。みんなの前で鳴かないので、誰からも買おうとは言われない。諦めかけていると、ようやく鳴く。その声は当時のことであるので録音が使えず、声帯模写だ。警察署の中で産気づく女がいて、彼女はとうとう署内で出産してしまうが、その赤ん坊の泣き声も大人のもので、このふたつの声はかなり不自然であった。それはさておき、ようやく鳴いた鶯にほっとする売り手で、警官が買おうと申し出る。だが、その様子を見ていた署長は、鶯は売買が禁じられている禁鳥だと言って女を諦めさせる。女が警察に売りに来たのは、どこも貧しい暮らしで、一番裕福なのが警官であると考えたからだ。途中で少し眠ってしまったので、署長が女に鶯を逃げさせた代わりにその代金を支払ったのかどうかはわからない。というのは、警察にひどく酔っ払った男が入って来る場面だ。
 男は留置場で一夜を明かす。貧しいのに酒好きで、子どもが死んで香典が入ったのでそれで久しぶりにまた飲んで酔ってしまったのだ。そのことを知って警官たちは同情する。特に署長がそうだ。翌朝、男はおとなしくなって警察を後にするが、持っていた尺八がないことに気づく。一度はそんな物はなかったという警官だが、留置場で見つける。それを署の外で受け取った男はお礼に一曲吹く。その場面は割合長い。心に染み入る音色で、それに聞き耳を立てる署長の顔がアップになる。「あいつは芸術家だからな」という署長の言葉には一種の尊敬の念がこもっている。「民」の中でもどうしようもない奴といった侮りではない。むしろ、その仕事をしない怠け者の男が人生や人間の何たるかをよく知っていると確信している署長だ。本作で最も印象的であったのは、尺八の音を聴き入る署長の表情だ。それにその尺八の音色はとてもよかった。そこに日本の心があると言えばいかにも古くさい表現だが、尺八こそが似合う世界が戦前の田舎町にはあったのだ。それはともかく、音色を聴きながら署長は男に金を持って行ってやれと部下に命じる。芸術に金を払う形で男の生活を助けたのだ。京都室町出水に生まれた豊田四郎監督が少ない製作費を強いられたため、わずか11日で撮ったそうだ。71分で、凝縮されたその内容に家内は数日後に「予想外によかった作品」と言った。俳優はみな達者で、主に劇団の人を使った。知った顔は杉村春子のみで、彼女は許可を受けない闇の産婆役を演じた。それも警察からすれば取り締まりの対象だが、彼女は金を儲けるどころか、ほとんど人助けでそれをやっていた。人が人を信じ、そして法律や取り決めを破ってまでも助け合うことが、「官」と「民」の間であったことを描いている。それは戦前の東北に限ってのことか、日本全体がまだそうであったのか。そして戦後はすっかり変わってしまったのかどうか。鶯の鳴き声が聞こえなくなったわが家を思えば、日本がそうとう何もかも変わって来たことは確かであろう。
by uuuzen | 2014-02-11 23:59 | ●その他の映画など
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