最初の10秒ほどを観た時、ハード・ボイルドのギャングものかと思ったが、すぐに同じソン・スンホンが高校生の服装で映ったので、意表を突かれた。
あまり気が進まないまま20分ほど観たが話がよくわからない。それでもどうにかそのまま最後まで見終えた。ちょっと不良で格好いい高校生の3人が、たまたま事件に巻き込まれ、思わぬ大金を手にするが、結局しつこい刑事の活躍もあって、誰も命を落とさずに元の高校生活戻れるという話だ。ソン・スンホン演ずるソンファンが最後あたりで銃で首を撃たれ、そのまま死ぬかと思ったが、もしそうなれば、それまでのコメディ・タッチが途中でがらりと変わってしまうから、その場面では少しハラハラさせられた。韓国映画は時としてどのようにストーリーが転ぶかわからない。悪く言えば御都合主義があるので、これもそんなタイプの映画かと思ったのだ。だが、それなりに細部にこだわった作り方をしている。TVドラマにはない綿密な撮影や編集がよくわかった。最初と最後の笑い話がうまくつながっていて落ちがよく、その意味で後味もよい。劇画漫画をそのまま映像化したと言ってよく、スカッとして後に何も残らない完全な娯楽作品だ。日本で言えば舘ひろしと柴田恭平のコンビの『あぶない刑事』シリーズに似ているだろう。こうした映画が韓国でもあるのは当然で、『我が心のオルガン』や『子猫をお願い』のような映画ばかりであると、韓国の人々もいい加減退屈する。アホらしい活劇も同じくらいに必要なのだ。いや、むしろそういう映画が映画の本道と言える。開高健も書いていたが、観た後に何も考えさせないような映画が本当のいい映画であって、暗闇の中で2時間かそこらを現実のウサ晴らしをさせてくれるだけで充分なのだ。観た後に何か重いものを心の中に残すものは、映画としては失格なのかもしれない。社会派の映画であっても、そこにはユーモアや笑いは必要だ。ただ暗い気分にさせるのであれば誰もお金を払って映画館に足を運ばない。暗いテーマ、重い描写に終始する映画は、批評家はいい映画と言うことが多いだろうが、批評家が本当にその映画に同調して、その後に人生の考えをがらりと変え、何らかのボランティアに参加するなどということはまずないだろう。深刻な気分に一時的になって見せて、その次の瞬間にはまたゲラゲラと笑っているのが関の山だ。本当に正直なのは、最初からそういう不幸な話を拒否し、後に何も残さない娯楽一辺倒の映画がいいと言う人々だろう。それに、不幸な話ならばTVのニュースに毎日流れている。たとえば、先日のパキスタンの地震で4万人ほどが一瞬に死んだ。そんな事件をマスコミで知り、その一方で映画館で同じような悲惨な、希望が見出せないような映画を観たとすると、これは全くやり切れない。大地震のニュースを知っても自分が無力であるのを知っているし、またそんな無力な自分もいつ大地震や事故に見舞われるかわからない。はかない人生をよく知っている人間は、ゲラゲラと笑えるアホらしい娯楽が必要なのだ。
「ああ、面白かった」でおしまいだけが映画の役目とすれば、それはあまりにさびしいと言う人があるかもしれない。だが、俳優の演技を基にした劇映画はどこまでも作りものだ。ドキュメンタリーとは違うのだ。だが「面白かった」と人に思わせることも本当は大変なことだ。普通の人が日常では絶対に経験出来ないような、スリルある行動を俳優が代わって演じてくれるのを見るだけでも、モヤモヤを発散出来る人は多い。人間とは元々そういうように単純に出来ている。普段の人々が深層心理として抱いている妄想や願望を、映画が実際に見えるような形にしてくれるのは、単純な人生にちょっとしたスパイスを効かせてくれるような経験であり、であるからこそ人々は飽くことなく映画を観る。それは女でも男でも同じだ。この映画は肉体美でも有名なクォン・サンウとソン・スンホンが主人公になっている。もうひとり高校生役でキム・ヨンジュンが出ているが、映画の中でもある者から言われていたように、どこにでもいる人物として登場している。韓国では2001年に上映され、日本では今年3月に東京で公開され始めたそうだが、若い女性が大勢映画館に押し寄せた。それは当然クォン・サンウとソン・スンホンを見るためで、そもそもそうした女性ファンの動員を当て込んで作られた映画だ。人気の若手俳優ふたりの共演が見られるというので、どちらの俳優のファンも足を運ぶ。うまいところに目をつけたものだ。いつの時代でもTVや映画を賑わす格好よい男がいて、彼らの魅力を存分に引き出す作品が作られるが、俳優の魅力と映画の脚本や撮影、編集がうまく合致した場合、それは時代を画する作品となる。この映画も後30年後に観れば、それなりにまた別の味わいが出て、きっと今以上に面白く鑑賞する人もあるだろう。時代が経てばまた別の角度から冷静に、より分析的に見ることが出来るからだ。こう書けば、筆者があまりこの映画を楽しんでいないことを明かすようなものだが、実際そのとおりで、若い世代、あるいはクォン・サンウとソン・スンホンの日本の中年のおばさんでない限り、お金を払って映画館で見ようとするほどの作品ではない。筆者は従姉からヴィデオ・テープを長い間、借りていたので、もうそろそろ見なくてはという半ば義務感でようやく今日一気に観た。
クォン・サンウは『神父授業』の時よりも目立っていなかった。ソン・スンホンは『秋の童話』や『HAPPY TOGETHER』とは違って、かなり暴力的でアクション俳優さながらであった。映画のタイトルにあるように、3人の高校生以外にひとりの刑事もとにかくよく走る。若さの象徴ということか。つまり、肉体派の演技を見せる映画ということだ。クォン・サンウ演ずるウソブは高校生だが、出張ホストをしておばさんを相手に喜ばせているという設定だ。これは穿って見るならば、日本のクォン・サンウ・ファンのおばさんたちの心を惑わすためとも言え、肉体美を誇る俳優にぴったりの役だ。だが、そんな不謹慎なホストの仕事の場面は一切描かれない。そういう生活をしていると断りがあるだけで、わざとらしいこじつけと言ってよい。童顔のクォン・サンウと違って、ソン・スンホンのソンファン役は高校生にしてはかなり老けて見える。監督もこれはかなり無理があると思ったが、何とアメリカに留学していて向こうではマフィアと関わったこともあるという設定(本人がそう映画で主張する)にして、年齢を21としていた。留学を途中でやめて帰国したので、高校生に編入したわけだ。金持ちで生活の心配は何もない。これもソン・スンホンの実際の年齢を考慮してのシナリオであって、この映画がふたりを念頭に置いて撮られたはずであることはこうしたことからよくわかる。だが、いわばこんな特殊なふたりが高校生として登場する映画では、普通の高校生の観客はあまりに現実離れして映画に素直に入り込めない。そこで、ごく普通の、パソコン好きでロック好きの同級生を登場させた。これを演ずるのがキム・ヨンジュンで、役名はジソンと言う。3人はうまが合って、一緒に行動するようになるが、ある日車を運転していたところ、上から大きな布の袋、そして血みどろに負傷した男が降って来て、車を傷つける。袋の中にはとんでもない大金のドル紙幣の束が入っている。男は動かないので、3人はもう死んだものと思い、お金を警察へ届けようとかいろいろと内輪喧嘩していると、死んだはずのその男がいつの間にか消えている。結局3人はお金は持ち帰るが、計算してみると21億3000万ウォンで、ひとり当たり7億1000万ウォンになる。この金額に恐れをなしたジソンは、黙って警察に届けようとするが、いろいろと経緯があって、また3人の手に戻って来る。
金持ちのソンファンはお金を使うことに慣れているためか、ネコババした大金で思い切りいろんな物を買って遊ぼうと提案し、3人はスーツやらいろんな買物で散在する。だが、その程度では高がしれている。残りはソンファンの部屋の天井裏に隠す。この映画の大きなテーマのひとつが、このような振って湧いたお金という存在だ。誰でも宝クジで大金を当てたいと思っているし、そんな夢物語を映画の中の人物が代行してくれるから、欲求不満の多少の解決にはなるだろう。そして、映画を作る方としては、宝クジではなく、空からたまたま大金が落ちて来たという話にすれば、いろいろ面白いストーリーの展開が出来るし、またそんな突飛で強引な話を持って来るしか、こうしたアクション重視の映画の場合にはそもそも映画にはならない。そして、そんな大金を手にした場合、最後はどうなるかは、これまた儒教社会の韓国でなくても当然過ぎるほど当然の結末になるしかなく、その点でも安心して観られるが、逆にそこがこの映画を平凡なものにしていることを途中ですっかりわからせてしまい、ある程度惰性の気分で後半を観ることになってしまう。それも仕方がない。この映画はストーリーよりも、むしろふたりの格好いい俳優の姿さえあれば充分であるからだ。さて、映画はそうこうしている間に、このお金を奪われた金融業者が動き始め、雇われたヤクザ男が3人をつけ狙うように話が進む。一方でひょんなことから3人を怪しいと思うようになって刑事が動き、映画の最後では最初にお金を金融業者から奪った泥棒と、そしてヤクザ、刑事が3人を追い詰めるという展開になって大団円を迎える。このヤクザは『バリでの出来事』『オールイン』などに同じ丸坊主でヤクザとして登場するが、そう言えば『ラストダンスは私と一緒に』でもチョイ役でチンピラ役をしていた。いつも全く同じ役というのが面白い。刑事を演ずるのはイ・ボムスという俳優で、この映画で初めて知ったが、なかなか存在感がある。ウソブやソンファン以上に、この刑事の映画という見方も出来るほどだ。泥棒役のふたりはこの映画ではピエロ役で、笑いを取るために登場しているようなものだ。そのふたりに大金が戻らないことは誰にでもわかる。
最後の方で学校の体育館の床をガソリンの引火が燃やすシーンがあったが、『我が心のオルガン』でも校舎の火事のシーンがあり、韓国映画では火事は比較的多いように感じる。スリル満点な高速道路でのドラックの追い抜きや、車に人がぶつかるシーンは、スタント・マンが演じていると思うが、一歩間違えば命にかかわるように見え、そこが日本の映画にはない迫真性をこの映画に与えている。ソンファンが激しく暴れるいくつかのシーンもなかなか真に迫っていた。アドリブがかなり入っているのであろうが、撮影を何度も繰り返してよい瞬間を捉えたものに見え、演技もまた監督のこだわりもよく伝わっていた。『秋の童話』とは全く違うソン・スンホンの男っぽい演技で、それがこの映画の大きな見物のひとつとなっている。ジソンが自分のホームページで知り合う女性は、美人ではあるが特徴的な顔とは言えず、ほんの少々登場するだけだ。しかもジソブとは恋仲に発展することもない。ウソブもソンファンも女には全く興味がないかの設定で、この女性以外に若い女の登場はない。そのため、いっそのことこの女性も登場しなくてもよかったが、それではあまりに色気がないと考えたのであろう。大金を手にしたジソンはパソコンでこの女性と会話し、大金を持てたらどう使うといった質問をする。その返事の中で面白いと思ったのは、「この国を出る」という点だ。これと同じ意見は『火の鳥』の、アメリカに住むミランの父親が韓国に戻って来ている間に発した言葉にもあった。韓国ではけっこう自国から出て海外で暮らすことを望んでいる人が少なくないのだろう。昨日書いた『子猫をお願い』でもそれは共通していた。海外に暮らす韓国人がどれほどいるのか知らないが、日系以上に韓国系の人々が海外に住んでいるのかもしれない。大金があれば自国を出て外国で暮らすという人々が少なくないのが事実であまとすれば、これは韓国の暮らしにくさの証明になるはずで、そんな事情を考えてみると、こうした娯楽映画でウサを晴らす人々が多く、そのためにもこうした作品の意義が大きいことになる。そして、表向きは『子猫をお願い』と全く違うタイプの映画でありながら、実は底ではつながっていて、どちらも韓国の現状からそのまま必然的に作られた映画という見方も出来る。ソンファンがアメリカ留学から戻って来たという前提は、金持ちは海外で暮らすのがごくあたりまえということを示しており、韓国における海外生活願望の原因がどこにあるのか、それを描いたTVドラマや映画がないものかと思う。韓国はナショナリズムが日本以上に大手を振っていると想像するが、案外そうでもなく、国民は醒めた目で政府を見つめているのかもしれない。