略奪というほどではないが、地面に落ちた福豆の入った小さな紙袋を筆者ともうひとりが同時に手をついた。そうした瞬間に個性が出る。気が弱い、あるいは優しい人はさっと手を引っ込めて相手に譲る。

筆者はと言えば、0.1秒ほどの瞬間であったか、振り返りながら地面に手をついた相手の眼鏡をかけた中年女性は、筆者をちらりと見て強引に奪うことを諦めた。その瞬間思ったのは相手の心境だ。きっとこう思われたに違いない。「まあ、この人、強引ね。わたしが先に袋を手で押さえたのに横取りするなんて」そう想像した瞬間、少し恥ずかしくなった。袋は筆者の足先に落ちた。それは女性の足元の後ろで、彼女は即座に振り返った。腰を屈めたのは同時だ。筆者が立っていた場所は投げられた福豆が充分届くには1,2メートル短かった。投げる人物はみな高齢者で、ほとんど3メートルも飛ばせばいい方で、あるひとりは真下の人ばかりに投げるというより、落としていた。豆が届く範囲は人がびっしりで身動き出来ないから、割り込みは不可能だ。だが、豆が投げ始められると、それを受取ろうと人は頻繁に動くから、その間に前に割り込むことが出来る。満員電車やバスと同じ原理だ。超満員と思っていても、電車やバスが走り出すと、人の間に隙間が生まれる。それはともかく、女性と奪い合いをした結果、筆者のものとなった福豆をポケットにしまい込んでその場を後にした。2袋はほしかったが、それがかなったからだ。もうひとつはどのようにして得たかと言えば、家を出る時、空模様が怪しいのでビニール傘を持った。100歩ほど歩くとそれが不要であるらしいことがわかったが、家に引き返すのが面倒で、持って行くことにした。わが家から天龍寺の豆撒きが行なわれる場所までゆっくり歩けば15分、早足では10分だろう。午前11時半に最初の豆撒きが行なわれることをネットで調べていた。ところがその日、つい文章書きに熱中し、気づいたのが15分ほど前で、慌てて家を出た。たぶん着けばもう始まっていると思ったが、まだであった。よほど早く歩いたからか、開始が5,6分遅れたかだ。それはともかく、豆撒きが始まってもさっぱり筆者の立つ位置まで届かない。それでなるべく隙間を狙って前に進んだ。近くには飛んで来るようになったが、どれも捕獲出来ない。何度も体を左右に動かすから、左腕にかけていた傘が地面に落ちそうになる。そうなれば拾うのが難しいほど人がたくさんいる。それで腕から外れそうになる傘を何度も引っかけ直した。その間、傘の内部にオレンジ色の福豆の袋が入っているのが見えた。豆撒きが始まる直前、こうもり傘を逆さにして頭上に広げた人が前方にいた。その人はたくさん取ったに違いない。さすが筆者はそこまでの勇気はない。その奥ゆかしさに神が憐れんだのか、すぼめていた傘にいつの間にか豆の袋が入っていた。それで気をよくして家内用にもうひとつと考え、2分ほど後に前述のように強引に獲得した。豆撒きはまだ終わっていなかったが、その場を後にして場所を譲った。

当日は中国人もかなり多かったようだ。そうした親子が豆撒きが終わって筆者のかたわらを歩き去った。手には10袋ほど握っていた。さすが中国は違う。それくらいの根性がないと、世をわたって行くことは出来ない。さて、昨日の天龍寺での節分祭を知ったのは、数日前に近くの家に赤いポスターが貼られているのを見てのことだ。そのポスターは天龍寺がある嵯峨では珍しくないだろうが、西京区側では今まで見たことがない。それで筆者は天龍寺の豆撒きはここ10数年は行かなかった。節分と言えば壬生寺かあるいは吉田神社に出かけていた。それが今年はバスに乗って出かけるのが億劫でもあり、また先日天龍寺の友雲庵での会合に出たこともあって、天龍寺に行く気になった。10数年前は家内と行った。今回は家内は仕事で、筆者ひとりだ。傘とカメラを持って早足で出かけた。渡月橋や天龍寺付近は観光客が1年でも最低という2月にもかかわらず、車道に人が溢れるほど多かった。これでは福豆を持って帰ることは無理だと思った。だが、たくさん人は歩いていても、天龍寺の境内に入って行くのはわずかだ。わずかと言っても普段に比べると格段に多い。節分祭の幟が何本も立てられ、看板もあるから、人は中へ中へと吸い寄せられる。枯れた蓮池を通り過ぎ、右手に折れると人がたくさん集まっているのが見えた。最初に白いテントがある。そこで甘酒が提供される。数十人の行列が出来ていて、その向こうではまだ豆撒きの人は壇上にいない。それでまず並んで甘酒をいただくことにした。大鍋にまだ大量に炊いている。それはそうだろう。午前11時半の次は午後1時半、そして3時半にも豆撒きはある。早々となくなっては面目がないではないか。5分と待たずに筆者の番が来た。湯飲み茶碗に大小があって、筆者の番では小であった。それでも充分な量で、黄色い生姜が縁にべたりとついていたのが、注いだ甘酒によって半ば沈んだ。本当はその生姜を何かで全体に混ぜたかったが、そのような道具がない。それでそのまま飲むと、最初の一口で生姜が全部口の中に入った。甘酒を飲んで茶碗を返した後は、自然とそのまま清酒を提供する場所に進む。酒は飲めない人があるのでそこではほとんど行列は出来ていない。直径5センチほどの細い青竹で作った杓にちょうど一杯分が小さな紙コップに注がれる。それを5口ほどで飲み干して豆撒きを待つ人の群れの後尾についた。脇には制服を着た保育園児が数十名、保母さんに守られる形で立ち尽くしていた。かわいそうに、その子たちは前列には入れないし、また立っている場所まで絶対に豆は届かない。非情なもので、誰もその子たちを前へと誘導しない。それでは何のためにやって来たかだが、寺側は招いた覚えはないと言うだろう。実際そのとおりだと思う。

甘酒を提供するテントの左手には臨時の塀が設けられ、そこに地元小学生の絵画や習字がずらりと展示されていた。雨を思って表面に透明なビニールの覆いがある。どの絵も字もなかなか上手で、見ていて退屈しなかった。1枚だけ写真を撮った。それを3枚目に載せるが、この写真は先ほど加工の際に誤って消去してしまった。それが惜しいので、データ復活ソフトを久しぶりに起動して再生を試みた。幸い復活したが、画面斜めに大きな黒い文字が重なって表示される。それを消すのに小1時間かかった。そのままならば、絵や習字の作者の子どもに悪い。自分の作品がそれとは無関係な黒い文字で一部が見えなくなっている状態で発表されると気分はよくないに決まっている。それで時間は惜しいが、その文字を全部消した。完璧には元どおりの写真にならないが、それでも言われなければ修正を大量に施した写真には見えないだろう。この写真で筆者が見せたかったのは、8枚見える絵のうち、上段の左から2枚目だ。これは12月の花灯路の際のライトアップされた嵐山と渡月橋を描いている。そんな夜に現場で描くことは出来ないから、この絵は写真を元にしたものだが、それでも雰囲気はよく出ている。特に渡月橋の橋脚が黄色で描かれるのが誇張が過ぎはするが、かえって現実感がある。さて、10数年前に一度だけ経験した天龍寺の豆撒きは、もっと素朴なもので、人ははるかに少なかった。たぶん100人はいなかった。そのあまりの人の少なさに、やはり節分祭は壬生寺に負けるなと思った。それがその後宣伝が行き届いたのか、TVで見る関東の有名な寺で芸能人を招いて実施する豆撒きほどではないにせよ、それに似た賑やかな雰囲気だけは出せるほどに人が多く集まるようになった。豆撒きは10分ほどで終了し、右ポケットに2袋を握りながら帰途に着いた。煙が上がっているので何かと思えば、中山寺でもやっていたが、お守り札などを燃やしている。それが境内の2か所で行なわれていた。その先に進むと、入った時とは違う、少し北寄り門から出るようになり、こちらに向かって来る人たちとたくさん擦れ違う。どちらの門から入ってもいいが、正式には筆者が出た門から入るようだ。というのはその門を入ってすぐに福笹を売る場所があった。1本2500円で、どんどん売れて行く。ふとそのテントにぶら下げられていた案内図を見て立ち止まった。豆撒きが行なわれる舞台までの道のりに右手に4つの塔頭があり、また筆者が入った門に続く道では左手に3つの塔頭があって、これら7か所が天龍寺七福神をそれぞれ祀っている。そのことを家内に言うと、10数年前もそうであったと言った。筆者はすっかり忘れていた。福笹を手にそれら7つの塔頭を巡り、ひとつずつ宝細工をつけてもらうようだ。筆者はどの塔頭にも入らなかった。ひとつだけ入るとすれば大黒天を祀っているのがよい。その大黒天がどのような姿をしているのか確かめたい思いに後ろ髪を引かれたが、福笹を買わずにただ見るだけでは福はもらえるはずがない。それでも誤って持って出た傘の中に知らぬ間に福豆が舞い込み、節分から運がよい。それに、競った場合は強奪してでも手に入れるほどの厚かましさも必要であることを学んだ。