仁王さんの真裏に狛犬があって、どちらも赤褐色に塗られている。近年修復されたとの説明書きがあった。どれくらい古いものなのか忘れたが、4,500年前ではなかったろうか。その間に何度も塗り直されたはずだが、最も古い状態が調査でわかり、その色に復元した。
その赤茶色は常滑の朱泥そっくりだ。そのため、一見素朴な焼き物に見えるが、弁柄を混ぜた漆を全体に塗ったものだ。以前の色合いがどうであったのか、おそらくあちこち塗りが剥げ、またもっと古色の黒っぽさではなかったろうか。この弁柄色の照りがある状態も2,30年もするとうんと落ち着いて来るはずで、そうなればまた人々は愛着をよりいっそう抱くだろう。この狛犬の迫力はかなり強烈で、これをそっくり縮小した一対の人形を販売すれば大ヒットするのではないだろうか。3Dプリンターがもう数年すればもっと手軽に使えるようになり、そういう商品のアイデアは実行に移される例が増えるのではないか。そんな時代が来ることを想像しながら、写真を撮ったのはいいが、柵の隙間が狭く、レンズがその間に収まらない。それで向かって右側のものはカメラを頭上に掲げて撮った。左側のものもそうすればよかったものを、なぜか柵の手前からにした。どちらも上半身しか写っていないが、今ネットで調べると、どうやって撮影したのか、きれいに全身が収まっている写真ばかりではないか。そんな写真を見ると、載せないでおこうかという気にもなるが、ま、せっかく撮って来たものだ。さて、2月になってしまったので、宝塚の中山寺に初詣したことを書くのは間が抜けているが、1月中に投稿する気になれなかった。理由というほどのものはない。最大の理由は中山寺のことを何も知らないし、またあまり関心もないからだ。それでホームページを見ると、そこでもさして詳しいことはわからない。それでいよいよ書く気分が失せた。それでどうにか書く気になったのは、狛犬が土人形でたまに見られる狛犬を思い出させたことだ。一昨日少し触れた伏見人形を売る中京のMさんは、80年代後半に高さ30センチほどの緑色の狛犬一対を丹嘉から4万円で仕入れた。それを筆者は長年ほしいと思っている。その狛犬より格段に迫力があるのがこの中山寺の三門裏手両脇の狛犬で、それを見ながら、そっくり30センチ高さに縮小したものがほしいと思った。全身の写真があれば自分で制作出来ないこともないが、そこまでの気力がない。それはさておき、この狛犬を見たのは同寺を後にする時だ。門を入って振り返ることは誰しもほとんどない。その点仁王像はよい。門を入る時に左右から睨まれる。とはいえ、それも筆者は狛犬を見た後、門の外に出て、改めてしげしげと見つめたのであって、これもまた誰しもではないだろうか。
仁王像も弁柄色に塗り直されたが、これは赤銅色に日焼けした姿と思えば不自然ではない。そう思えば狛犬はどのような色がふさわしいのだろう。何か決まりがあるのだろうか。上賀茂神社では紺色で、髪は金色であったはずだ。伏見人形では深緑色で、しかも光沢があるので、雲母を混ぜた顔料だ。明治時代ではそのような絵具はなかったと思うから、別の色が塗られていたろう。ここで告白しておくと、最初に狛犬の話を持って来たのは、これを書き始めた時、狛犬の土人形をネット・オークションで落札するつもりであったからでもある。高さ20センチほどで、全体が銀色、伏見のものではないが、Mさんの4万円のものより格段に安いので買うことにし、10分ほど前に落札した。飾る場所もないのにほしがるのは狛犬に多少の興味があるからだ。落札したその土製の狛犬は彫りが全体に鈍い。中山寺の狛犬を見るとその差は天地ほどの開きがある。それで土人形の狛犬が届くと、銀色は塗り直すつもりで、彫刻刀であちこち彫りを加え、もっとシャープな形に作り直してやろうかと思わないでもない。そのようにしてから赤茶色に塗る。どうせ産地不明の土人形であり、手を加えてもかまわない。そう言いながら、あまりの手間におそらくそのまま鑑賞する。話を戻すと、仁王像は肉体のみが赤銅色で、そのほかは青濃淡の顔料や載金が使われている。また、像の背後には像の高さと同じほど巨大な草鞋がひとつぶら下げられ、前の柵には実際に使われる大きさのものが100や200は見られる。これは昔の旅人が始めた風習で、巡礼者が草鞋を擦り減らした時、同寺に奉納されているものを拝借した。お互い助け合いの精神で、自分が新品をひとつ取ると、そのお返しにいつか新品を奉納すればよかった。今は巡礼者しか草鞋をほとんど用いないので、寺に奉納されているものは寺側が気を利かせて飾りつけているものもあるかもしれない。巡礼というのは、この寺が西国三十三ヵ所の第二十四番に相当し、今でも歩いて巡っている人がいるからだ。そう言えば今年の年賀状に小中学生時代からの友だちの年賀状に、夫婦で西国三十三ヵ所巡りを始めたというのがあった。確か20歳くらい若い奥さんをもらい、子どもはまだ中学生だと思うが、60を過ぎてそんな趣味を始めたとは意外で、もう死ぬことを考えているのだろうか。筆者はそういったお寺巡りには関心がない。歩くことは好きだが、かといって近畿に散らばる三十三ヵ所を順に回ることなど途方もない計画で、その気力も体力もない。その友だちにしても、歩くのではなく、車や電車を使うかもしれないが、その方法でも筆者はごめんだ。
中山寺へはJRの駅も近いが、筆者は阪急電車を使う。息子が5,6歳の頃に一度その三門の前まで行って写真を撮ったことがある。その時以来のことで、しかも今回は境内に入った。「中山寺」の駅名は去年12月に「中山観音」に変わった。阪急はそのほかにも駅名を変えた。それは、京都線に新たな駅がひとつ出来たことがいい機会と思ってのことだ。その新駅は「西山天王山」で、「にしやまてんのうやま」ではなく、「にしやまてんのうざん」と読む。山がふたつあるので、あまりいい名称ではない。「西山」では意味不明、「天王山」では位置が正確ではない。それでふたつを足したのだろう。山を因数分解して「西天王山」では駄目であったのか。それはいいとして、この新駅は高速道路のインターと直結していて、高速バスの乗り継ぎにいいそうだ。それ以外は何もないところで、筆者は利用しないだろう。話を戻して、駅名の変更は、たとえば「松尾」だ。これが「松尾大社」になった。同大社から要望があったのかもしれない。「三宮」は近畿の人にはわかるが、関東人にはわかりにくいということで、「神戸三宮」に変わった。そのほかにも変更になった駅があるだろう。それもさておき、「中山観音」は中山寺の本尊が観音様であることを知らせるにはよい。十一面観音を祀っている。これは本堂の奥にあって、普段は見えない。本堂はなかなか立派なものだ。秀吉の時代の建造で、400年前だ。狛犬と同じくらいに古い。十一面観音像は湖北に多いが、中山寺では安産を祈願するためのものとなっている。家内はもう妊娠とは関係ないので、初詣に訪れる理由もなかったが、昔から噂に聞くだけで見たことのない寺ということで出かけることにした。ちなみに家内は京都のわら天神を訪れて安産祈願をし、腹帯をもらって来た。京都に住む人はみなその神社に参る。中山寺に行くのは大阪や兵庫の人だろう。だが、家内に言わせると、わら天神の何倍も広く、わざわざ足を運ぶ甲斐がある寺とのことだ。筆者がまず驚いたのは、三門を入って間もなく、本堂に向かう階段の右手にエスカレーターがあったことだ。その近代性に呼応するかのように、山の斜面に沿った伽藍配置のあちこちに見える朱色の手すりはどれもどぎついペンキで塗られ、京都で馴染む高雅さといったものからはほど遠い。京都の寺や神社でエスカレーターを設置すればどう言われるだろう。だが、中山寺は安産祈願で参拝してもらうのであるから、妊婦に階段を利用させることはよくないと考えたのかもしれない。それほどにこの寺は坂ばかりで、それを上下しながら境内を巡る。そのため、健脚でない人は隅々まで見る気にはなれない。また隅々までエスカレーターがあるのではなく、本堂が建つ平らな土地までだ。
今日の4枚目の写真はそのエスカレーターを上り切った平らな土地から、中央やや左手に本堂を眺めて撮った。本堂右手奥に順路の文字と赤い矢印の看板があり、その下にもっと大きい看板が見える。それは五重塔が再建されることの告知で、その場所は看板奥の高台だ。その看板の前に立って撮った写真が5枚目で、平成28年に完成するとある。再建というのは、おそらく阪神大震災で倒壊したためではないか。斜面を利用した伽藍であるので、低い場所から見ると、どの建物も視界に入るだろう。その様子は最初の写真からもわかる。そういう寺は京都にはないと思う。それもあってか、この寺の境内はなかなか気分がよい。境内から街並みを左右に広く見下ろすことが出来るからでもあるが、もっと大きな理由は、斜面が南面していて、陽当たりがとてもよいからだ。おそらくどの季節でも日の出から日の入りまで味わえるのではないか。筆者らが訪れた日は天気がよく、まるで瀬戸内海の陽射しを浴びている気分になれた。また、あちこちの坂道を上り下りしている間、真っ赤なペンキの手すりは気にならなくなり、むしろそれくらいの派手な強い色でなければ危ないし、境内の雰囲気に似合っていると思えた。欲を言えば、この寺は文化的な趣が乏しい。そこが京都の寺とは違う。寺宝館があるのかどうか知らないが、展示すべき作品がたくさんあるのだろうか。筆者が注目したのは最初に書いた狛犬と仁王像程度で、本尊はホームページの写真で知った。またそのホームページは寺の縁起についてはごく簡単に済まし、食堂や休憩所の説明が幅を利かせている。その休憩所で家内とちょっとしたものを食べた。その店でしか食べられないものだ。自販機で券を買い、そのすぐ横の厨房の口で受け取る。無料休憩所で誰でも入れるが、みんな何か買って食べる。窓の外からは空が広く見える。そうして思い出したのは金毘羅さんだ。そこと似た空気が流れている。同じような高台であるからだろう。つまり、気分がよかった。休憩所の外は小学校の運動場の半分ほどの広さがあり、その先端に行くと眼下に街並みが広がる。また、その広場の右端では小規模な「どんど焼き」が行なわれていて、男性がふたりで古い絵馬や御札を燃やしていた。その火に当たりながら写真を撮ろうとしたのは、ビニール袋に入ったままの去年の宝船の切紙細工だ。それが次々と段ボール箱から取り出され、火に放り込まれる。ビニールに入った紙で、よく燃える。その燃え方がそれなりにきれいだ。その切紙細工は阪急阪神1日乗車券を買った時に付属している初詣プレゼント券と交換に受付でもらえる。筆者らはそれを知らず、券を持って来なかった。そこで受付の若い女性に1日チケットを見せて事情を説明すると、気前よく2セットを手わたしてくれた。B4ほどのサイズで、縦方向にこちらに向かって来る宝船をデザインしてある。刳り抜いた部分から背後の朱色の紙が覗いている。その刳り抜きは機械でカットしたもので、毎年全く同じデザインのものを作っているようだ。それはそうだろう。ひょっとすれば10年や20年先のものまで大量に作って保管しているかもしれない。その宝船のデザインはあまりよくない。筆者ならどのように描くかと今も考えている。それはともかく、その宝船を表現しためでたいお守りは家の神棚やそれに類する場所に飾っておき、毎年交換する。その古いものが同寺に持参され、それを境内の高台の片隅で燃やしていた。どれも新品同様で、受け取ったばかりのものを捨てる人があるのかと一瞬思ったほどだ。もったいないようだが、御利益はせいぜい1年限りで、毎年交換するから意味がある。そうそう、先月書いたことをまた書く。家内がおみくじを引いた。珍しくも大吉であった。それで気分をよくしたのかもしれない。来てよかったと言った。宝船の御札の写真を載せようと思いながら、今日はその場所がない。後日別の機会に。