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●「MORNING HAS BROKEN」
蜂が梅の花の周りを飛んでいる映像を先ほどのTVで見た。今日も3月か4月の温かさであったが、天気予報では来週はまた寒くなる。一番寒いのが節分の頃であるから、まだしばらくは暖を取る生活をしなければならない。



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それでもこの調子ではこれを書く部屋ではストーヴを使わずに済みそうだ。ストーヴの代わりに座布団の下に座布団サイズのホット・カーペットを敷いていて、それを今月中旬から使うようになった。一旦暖房器具を使うと、桜が散る頃まで使い続ける。その頃の気温に相当する秋ならばまだ我慢しているから、人間は安逸な状態になると、容易にそれから抜け出られないことを示している。我慢に我慢を続けていても、一度それを破ると、もう我慢しにくくなる。我慢するならそれを通すべきだ。それはたとえば医者から酒やタバコ、その他を制限されている人ならまだしやすい。そうではない健康な人でも、体に悪いと思うものからはなるべく遠ざかろうとするが、経済的、倫理的に我慢しなくてよいものは気に留めずに取り入れる。それは快楽でもあるが、それが過剰になれば体を壊したり、苦痛に変わる。我慢し続けた挙句、ほんの少し我慢しなくてよい瞬間が訪れた時が最も快楽を感じると思う。それは我慢している状態が快楽を待つことであって、我慢が快楽と言うことも出来る。こう書けば、「それを痩せ我慢と言う」とみなされそうだが、どう言われようと楽しければそれでよいし、筆者は何でも我慢し続けているのではない。また「我慢」は「何もしない」ことのように思われるが、そうではない。毎日苛酷なことをし続けることも我慢であるし、たとえば毎日御馳走を食べてそのレポートをする芸能人もけっこう我慢をしている。ま、どのように生活していても、1日は24時間であるし、朝の次に昼があって、夜になってまた朝が来る。それに天気がよい日ばかりではなく、雨も降るし、雪も積もる。そして季節に合わせて花が咲き、虫が飛び交う。そのあたりまえのことをたまには見通すと、生きていることがつくずく面白い。筆者がそのように肯定的な気分になれるのは、冬至が終わって2,3週間した頃から節分を2、3週間過ぎた頃までだ。日が少しずつ長くなり、また温かくなって行くのがよい。今頃はその真っ最中で、筆者は今後何度、つまり何年そんな時期を味わうことが出来るだろう。思い出した。先日伏見桃山駅で降りて京町郵便局まで歩き、それを過ぎて最初の四辻を右に折れた道で70代半ばか80歳くらいの男性と擦れ違った。その顔が2年前に亡くなった中学生の同窓生Mとそっくりで驚いた。Mがその年齢まで生きると、きっとその老人のような顔になる。そう思った瞬間、筆者も80近い年齢ではないかと感じた。そうであってもおかしくない。年齢に意味があるのか。80になっても筆者は同じ気持ちで陽射しのよい道を歩いているだろう。60直前で亡くなったMにしても同じで、80歳まで生きたとしても何がどう違うというのだろう。擦れ違った老人が20年後のMであると思ってよいし、そうであってもMも筆者も、世界も何も変わらない。いやいやそうでもないか。「や、Mやんか。こんなところで会うとは。えらい老けたな。もう80に見えるで」「?」「わからへんか、大山や」「?」「そうか、もう呆けてしまったんか」「何言うてんねん。変な奴やなあ、お前こそ頭おかしいんとちゃうか」。
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 一昨日、昨日と夢のことを書いた。最近筆者は死んだNが出て来る夢をよく見る。死者が登場する夢はよくないと言うが、どういう理由からだろう。夢は自分の思いどおりにならない。昨日見た夢の続きを見たいと思っても、それはかなわない。願いどおりにならないところは悲しいが、予期しなかった人物が出て来る場合があるので、嬉しい場合もある。それはさておき、筆者の夢はだいたい夕暮れから夜の場面が多く、朝の清々しい光はほとんど記憶がない。これはもちろん人によりけりで、夜明けの場面を頻繁に見る人もあるだろう。夜明けの夢から目覚めた時が夜明けの時間であったというのは夢と現実の区別がつきにくくて、そんな夢が毎日続けば精神的におかしくなってしまう気がする。夢から目覚めれば朝なので、筆者は朝の夢を見たいとは思わない。その朝はいつもかなり遅い目で、早くても7時過ぎで、遅ければ10時過ぎになる。夜明けというのはもっと早い。今日取り上げる曲は、ブログを始めた頃からいつ書こうかと思っていた。1971年の名曲で、筆者はキャット・スティーヴンスの曲ではこれしかほとんど知らないし、また聴く気になれない。この1曲で彼の名前は永遠に記憶されるはずで、これほどの曲はめったにない。スティーヴンスは「BROKEN」を「ブローケン」と発音しているが、これが印象的だ。直訳すると「朝が現われた」だが、日本語にすれば「夜が明けた」となる。だが、原題は「MORNING」であって「NIGHT」ではない。それがよい。この「HAS BROKEN」は真っ暗な夜に太陽がきらりと見えた様子を思えばよい。それは固い物が破れた状態であって、破れたところに光が見えている。その様子を示す漢字が「早」で、この字は「朝」の意味でもある。「早」を分解すると「日」と「甲」で、「甲」は固い物であるし、それが破れて十字形に光が見えている状態は、ちょうど日の出の空を連想させる。筆者の名前「甲日」はつまり早朝の意味で、スティーヴンスのこの名曲を筆者が大好きなのは当然だ。だが、邦題にあるように、その「朝」は雨に濡れている。これは少々イメージが悪い光景だが、少しずつ温暖になって行く今頃は、早朝に雨が降っていることもままあって、先日がそうであった。雨の音で目覚めるのはそれなりに心地よい。もっとも、それは通勤しない筆者の勝手な思いで、家内は嫌がっている。それはともかく、「MORNING HAS BROKEN」は漢字の「早」の意味と全く同じで、これは人間にとって普遍的な見方を示している。
 普遍的と言えば、スティーヴンスは本曲を発表して6年後にイスラムに改宗している。スティーヴンスはいかにも60年代半ばから音楽活動した若者にありがちなように、真実を探求する癖があって、仏教やトロット、占星術などに関心を抱いていた。それが泳いでいて死にそうになった75年に大きな契機が訪れた。兄からコーランを与えられ、それに没頭して信仰するまでになった。スティーヴンスはアメリカかイギリス人のような名前だが、「CAT」は「猫」であるから、これは芸名であることがわかる。本曲が収録された日本盤LPには、彼のバイオグラフィなどがあって、事細かな情報が得られる。父はスウェーデン人、母はギリシア人で、スティーヴンスはロンドンで1948年に生まれた。本名はスティーヴン・デメトレ・ジョルジオで、これではポップスの世界では売れにくい。それで「キャット」を名乗ることになった。イスラムへの改宗は30前で、ネットで調べると、「ユスフ・イスラム」という名前を用いている。「キャット・スティーヴンス」が芸名であったので、また別の名前を名乗ることにさほど抵抗はなかったろう。イスラムに改宗したことでイギリスで暮らしにくくなったかどうかだが、イスラム過激派が起こすさまざまな事件からして、おそらくそう言っていいかもしれない。そんな偏見に対して彼がどういう行動をしているかはネットで調べればわかると思うが、ここではそこまで踏み込まない。アメリカでは黒人音楽家がイスラム教徒になる例はよくあって、日本で想像するほどには大変でも珍しいことでもないだろう。何年か前にこのブログに書いたが、日本でもごくわずかずつだがイスラムを信仰する人が増えているようで、何百年かすれば仏教と勢力が拮抗しているかもしれない。それにはよほど国のあり方が変わっている必要がある。イスラムは神の前では、すなわち信者の間ではみな平等だ。指導者はいるが、それは他の信者より身分が上という存在ではない。メッカへの巡礼では誰もが同じ服装だ。お上に何でも頼る日本ではイスラムは根づきにくいだろう。それはさておき、ユスフになってからもステージで歌っている姿がYOUTUBEで見られる。本曲も歌っていて、歌うことをやめたのではないことがわかる。だが、そのレパートリーはどうなのだろう。イスラムを賛美するような内容の曲を書いて歌っているのかどうか。筆者は何となくジョージ・ハリスンを想起し、彼と同じように宗教への熱意を表わす曲を歌っていると思う。アルバムはユスフ名義で10枚弱出ている。それらの売れ行きについては知らないが、本曲ほどの特大ヒットは恵まれない。
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 YOUTUBEを見ていて、アート・ガーファンクルが本曲をカヴァーしていることを知った。イントロがスティーヴンスのヴァージョンのように印象的なピアノでないところがやや不満だが、歌声は透明感がある。このピアノ演奏はイエスのリック・ウェイクマンとのことで、さすがの才能のきらめきがある。アートのヴァージョンはチーフタンズのアルバムに収録されていて、その理由がなぜかと言えば、本曲は元はアイルランドの民謡を用いた讃美歌であるからだ。その原曲がYOUTUBEにあるかと調べたが、見当たらない。聴いていないので何とも言えないが、それがほとんど本曲そのままのメロディであれば、スティーヴンスは目のつけどころがよく、また運がよかっただけと言える。アルバムやドーナツ盤のクレジットには、作曲がスティーヴンス、歌詞がファージョンとなっている。WIKIPEDIAによると、この作詞者はエリナー・ファージョンという女性で、本曲がヒットする6年前に亡くなっているから、スティーヴンスは会っていないだろう。ではどうして歌詞を見つけたかだが、彼女は作家で、古いゲール民謡に歌詞をつけた讃美歌を本曲の40年前に発表していた。それが本曲の原曲で、「古いゲール民謡」ばかりを収録したアルバムが発売されているかもしれない。ではなぜ本曲の作曲者が「トラディショナル」ではなく、「スティーヴンス」になっているかと言えば、原曲とはそうとう違ったメロディになっているからかもしれない。だがそうなると、歌詞をうまく当てはめるのに苦労したろう。それはさておき、讃美歌であるから、歌詞はキリスト教に関係している。実際本曲には「EDEN」の単語が登場する。となればアダムとイヴかと思ってしまうが、「EDEN」にあまり囚われることなく、夜明けの清々しさが始原的で、人間にとって普遍であることを思えばよく、夜明けが毎日確実に循環して訪れることのあたりまえではあるがありがたさを感じると、本曲を素晴らしいと思う気持ちが倍増する。本曲が大ヒットしたのは、ヒッピー文化が沸き起こったからでもあるだろう。自然回帰が若者の間に流行し、純粋とは何かが追求された。スティーヴンスはギター片手に歌うというスタイルからフォーク・ソングに分類出来る。誰もが口すさめてしかも含蓄のある歌詞がそこでは求められた。本曲は恋愛については歌わず、朝の光や雨露、鳥のさえずりを賛美する。筆者にはそれがよい。子どもから老人まで同意出来る歌詞内容で、宗教の違いも関係ない。イスラムに改宗したスティーヴンスは一時本曲を歌わなかったのではないか。それをまた歌うようになったのは、イスラムの世界観とも齟齬を来さないからだ。
 2年前に死んだNは、死ぬ2年ほど前に筆者に言った。「やろうと思えばいつでも遅くない」。確かにその気持ちはわかる。だが、現実は厳しいもので、年齢的にもはや遅い場合がある。年齢に伴う気力の衰えがあるし、また何か新しいことを始めるのに、それなりの資金も必要だ。それで筆者は言った。「還暦近い年齢になって、ものになることなんてないで」。それは辛辣過ぎたかもしれない。Nはそれから何も新しいことを始めずに癌で死んだ。何か新しいことをしたかったのかどうかは知らない。それがなくても、新しいことに興味を持てば、それに挑む気持ちはあったのだろう。それだけでもましだ。気持ちも萎えるほどの年齢というものがあるし、また生活苦もあるだろう。Nもきっと本心は筆者と同じように、還暦近い年齢になると、もう全く新しいことに挑戦することは難しいと思っていたろう。それでもそれを口に出さずに、「やろうと思った時に年齢は関係ない」と言ったところに、希望を信じていた姿がある。人間はそうあるべきなのだ。筆者は自分が出来そうにないことを口にするのはいやで、つい表現が厳しくなる。だが夢も希望もないことを耳にして人は喜ばない。嘘でもいいので、励ましの言葉を聞きたいものだ。その励ましは本当は人から与えられるのが一番だが、眠って目覚めればまっさらな朝が現われていることのあたりまえだが不思議なことに気づくと、それだけでも自分の心が毎朝一新されるように思うことは出来るし、そうすべきなのだ。朝はどの国の人にも、また貧乏人にも金持ちにもやって来る。自然は平等だ。日の当たらない小さな部屋で暮らしている人でも、道を歩けば陽の光を浴びる。その光に満ちる道を進めば、花に気づき、鳥に出会う。雨が降って来て濡れるのもよし。自然は自分のもので、自分は自然だ。
by uuuzen | 2014-01-31 23:59 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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