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煌めきの瞬間を永遠に 福知山市に生まれた文化勲章受章者」。この謳い文句が本展のチラシに印刷されている。日本画家の佐藤太清の名前はほとんど知らなかった。大正2年(1913)生まれで、平成16年(2004)に亡くなっている。
京都文化博物館で今月19日に本展を見て、児玉希望の弟子であることを知った。希望の展覧会は30年かもう少し前かに見たことがある。細密さと、全体にどことなく紫色を帯びたような色合いを感じさせる作風で、図録も買った。佐藤の絵は師の画風と似ていない。もっと不器用で素朴だ。左右対称を強調した作品が目立ち、雨や雪の景色が好きであったようだ。そして最初に書いた「煌めきの瞬間」の言葉はうまく言ったもので、シャッターを押して現実から切り取った写真のような趣がある。会場には本画の元になった素描も展示されていて、写真を見て描いたのではないことはわかるが、それでも写真を見ているような気分になった。誰でもカメラを所有する時代を生きたのであるから、写真は意識しなくても影響を与えたであろう。前回取り上げた山口薫の絵は写真とはまるで違う、また写真には出来ない表現だが、佐藤の作品は装飾的ではあるが、写真のように写実的に描かれることもあるので、その200号ほどの大画面に前に立っても、大味と言おうか、長らく立ち尽くして鑑賞する気になれない。写真を見るのと同じように、さっと見て次に移動する。それでは佐藤に悪いか。佐藤は時間を長く費やし、苦心しながら絵具を画面の隅から隅まで塗り込めたのであるから、鑑賞者はそのことに敬意を表してじっくり対峙するべきだろうか。そうとは思えない。佐藤は描く対象との出会いを大切にした。誰もがよく使う言葉で言えば「閃き」だ。それは対象との運命的な出会いで、それがなければ描く気にはなれないし、また描いてはならない。ストラヴィンスキーはそうではなく、毎日少しずつ楽譜に音符を書き続けることで作品が出来ると言っている。無理にでもその作業を続ける必要があるということだ。その果てにようやく「閃き」が訪れるという考えだ。何もしていないのに、突如「閃き」が訪れ、名作が生まれるということはあり得ない。「閃き」の扉を開くには、絶えず訓練している必要がある。画家で言えば、毎日何かを見て描くことで、そのうちに絵になる瞬間に遭遇する。それは幸運であって、そうでない場合の方が多いだろう。ということは、画家は代表的名作を生涯に数点ほど得られれば幸福ということだ。佐藤の場合もそうであったと思う。今回は彼の代表作が並んだと思うが、正直なところ、筆者が印象に残ったのは数点で、他は退屈であった。写真のようであるからというのではない。写真を撮ろうとするのと同じ眼差しが見える気がしたからだ。
はっとする光景との出会いはカメラマンならもっと強く、常に追い求めているだろう。画家は200号の大作を描くのに数か月は要するが、それを描くきっかけは写真家と同じで、質の差はない。ならば、写真の方が便利で、写真家は自分の感動に正直ではないか。画家は、絵は写真と違ってもっと芸術性の高いものと高をくくっている。だがそれは理由はない。何よりもまず最初に「閃き」が大切として、画家の方が写真家よりそれが多く訪れるとは言えない。画家が写真を侮っている間に、ただの自惚れから、写真よりつまらない絵をどんどん描いてしまう。佐藤の作品で名作と思えるものはどれも写真を連想させたが、佐藤の絵からその写真を想像すると、それは写真として名作になるようなものかと言えば、これは答えが難しい。カメラマンはいろいろで、佐藤の絵の元になった光景や風景の前に立ち、絵と同じように見えるように撮影したとしても。佐藤の絵と似た雰囲気になる保証はない。だが、絵から写真を思い浮かべるのは、佐藤の絵が装飾的でありながらも、より写実的で、現実感がひしひしと伝わるからだ。それは佐藤が最初に感じた「閃き」であって、それを鑑賞者が一瞬のうちに感得出来るのであれば、長らく絵の前にたたずむ必要はない。佐藤は一瞬で感じた思いを大事にし、それをどうにか絵にそのまま移し換えようとした。それが成功しているのは数点で、画家としてはそれで充分ではないか。佐藤は日本画家としては難しい時代に生きたと言ってよい。あらゆる可能性が追求され、一方では日本画独特の表現を求めない、また求めにくい世相になった。高度成長を遂げた後の日本は、昔懐かしい、よき時代の日本の風景は目に見えて少なくなったし、それと同時に目新しい造形を歓迎する向きが大きくなった。そのため、装飾性や平明性を保ちながら、日本の情緒を描くとして、それはアナクロニズムになりやすい。そうではなく、今の時代に見合った日本画となると、写真を意識するしないに関わらず、写真との関係で論じられるものになることは避け難い。そこで、写真と同じ土俵で日本画の勝利を謳い上げるには、写真と同じように、一瞬の「閃き」すなわち「煌めき」の瞬間との出会いがまず欠かせない。そして、目の中にその光景を写真のように焼きつけ、それを余分なものを省き、そしてより「閃き」が効果的に鑑賞者と共有出来るように画面を構成する。「閃き」は一瞬で訪れる。それは一瞬で去るのではなく、強い「閃き」であるほどに長く記憶に残る。そのため、作画作業の間、その記憶の元になった「閃き」を反芻することは出来る。そうでなければ絵は描けない。では、そうして描いた作品が写真より感動を多く与えるものになるかだが、前述したように、その保証はない。であるからこそ、なおさら写真を撮る人が多くなって来た。ロバート・メイプルソープが画家や彫刻家にならず、写真家になったのは、最初の「閃き」を数か月持続させ、ようやくひとつの作品を得るというまだるっこしいことに我慢出来なかったからだ。鑑賞者と「閃き」が共有出来るのであれば、写真で充分ではないか。
佐藤の顔写真が飾られていた。温厚で人がよさそうだ。だが、年譜を見ると、生まれてすぐに両親がおらず、かなりさびしい幼年時代であったのだろう。そのことは生涯にわたって影響を与える。師の希望が佐藤に宛てた手紙も展示され、そこには希望が実の親のように佐藤のことを思っている様子が表われていた。佐藤は引っ込み思案で、傷つきやすい性格であったのではないか。そういう佐藤を心配している様子が希望の文面の向こうから見えそうであった。佐藤の1枚の顔写真から想像するに、佐藤が筆者の目の前にいるとして、筆者はどちらかと言えば話が合わないように思う。苦手なタイプというほどではないが、芸術家であるとしても、目立つ巨匠ではなく、平凡さを思う。それが悪いというのではない。激しい気性の大家もあれば、佐藤のようなどことなく不器用な人がいてもよい。この「不器用」というのは、言い代えれば「正直」で、そこに「馬鹿」がつく。「嘘がない」と言ってもよいかもしれないが、写真とは違って絵であるからには嘘はつきものだ。そして、その嘘が嘘に見えないのであればいいが、佐藤の場合は露呈している。そこがまた「馬鹿正直」で佐藤の魅力であると積極的に評価せねばならないかもしれない。その嘘はたとえば「旅の朝」と題された昭和55年の作だ。縦長の画面の中央に、雪を被った枯れ木が1本描かれている。画面上部には横段として川面、その上には向こう岸の雪が積もった光景だ。全体に灰色だが、木には鷽(うそ)が5羽留まっていて、その顔の赤みが雪の白や枯れ木の黒に映えている。この枯れ木の素描が展示されていた。そこには鷽は描き込まれていない。鳥はじっと同じ場所に留まっていない。そのため、佐藤は雪被りの枯れ木だけ写生し、後で鷽をじっくり観察して本画の段階で枯れ木の適当なところに留まらせればよいと考えた。それはどんな画家でもやる方法だ。写真はその点が違う。「旅の朝」が写真のようでいて、そうではないのは、鷽の配置がどことなく嘘っぽいことだ。これは構成を考えてこじつけたのであるから当然かもしれない。だが、腕のある画家なら、写真のように瞬間を切り取ったように見える鷽の数羽を描き込んだろう。佐藤が鳥を題材にするのは最初期、昭和18年の代表作「かすみ網」からだ。それは空中に張った網に捉えられた数多くの種類の鳥を描き込んだものだ。ほとんど身動きの出来ない鳥の姿を描くことは花を描くのと同じで、さほど難しいことではない。「かすみ網」は名作だが、不自然な格好をした鳥たちのどの姿も、本物の網に引っかかったようには見えない。それは佐藤の腕が未熟と言える一方、佐藤は写真と絵とは違うという思いがあったろう。「かすみ網」からは現実のその光景が想像されるが、現実は佐藤の絵のようにはそれは美しくないはずだ。佐藤はさまざまな鳥を装飾性優先で描き、残酷さはその向こうでかすんでいる。
「かすみ網」で徹底して鳥の姿を描くことを学習した佐藤は、「旅の朝」で鷽を配置することは簡単であったはずだ。だが、「かすみ網」に見られるのと同じく、鳥を取ってつけたような感じが伝わる。悪く言えば、下手なのだ。よく言えば、写真のように一瞬を留めた現実感は表現したくなかった。絵は写真と同じように、最初の「閃き」がなければ人に訴えるものにはならない。だが、写真とは違って絵は長時間を費やして描くし、描く対象を取捨選択する。その結果、写真と似るところはあるが、別のものとなる。その別のものが絵画の存在理由で、佐藤は写真が太刀打ち出来ない何かを描き込むことを思い続けたはずだ。それは「閃き」を反芻し続けて長時間の手作業を費やした結果生まれる必然の何かだが、写真より上質で豪華なものになるとは限らない。「旅の朝」に戻ると、筆者はその絵を見ながら、鷽の配置が不自然と感じたが、もっと巧みに、たとえばどれか一羽を半ば飛び立たせるか、背後から描いて顔を見せないかなどにすると、より写真らしく現実的にはなるが、かなり嫌味になると思えた。それを佐藤は知って、あえて不器用さを演出したのかもしれない。そうなると、したたかで、それが嫌味になりかねない危険を孕む。そこでこう思うことにした。確かに鷽は適当に貼りつけた感があるが、次の瞬間には姿を変え、ある者は飛び立つかもしれない。そういう想像が出来ることも絵の魅力だろう。この動くものと動かないものの対比を佐藤は好んだ。昭和50年の「東大寺暮雪」もそうだ。「旅の朝」と似るのはシンメトリカルな構図以外に、雪だ。そしてこっちの絵は雪が降っている。その表現がまた実にわざとらしい。筆者が気になって仕方がなかったのは、雪があまりに等間隔に描かれ、きわめて不自然であることだ。まるで取ってつけた雪で、模様的としてもあまりに機械的に何も考えずに一点ずつを胡粉で描いた。もっと本物の雪らしく描けなかったのか。それがとても不満だ。だが、そのわざとらしさ、下手なように見えるところは、「旅の朝」の鷽と同じで、写真の否定と言ってもよい。佐藤は写真のように見えることを拒否したのだ。
題名は忘れたが、夕暮れの中の白梅の一本の木を描いた作があった。水戸の偕楽園に梅を写生しに出かけたところ、気に入る木がなかった。その帰り、梅の名所でもないところに、はっとさせる一本が立っていた。それを描いたものだ。最初からその木に出会っていればよかったが、それでは描きたくなる「閃き」が訪れなかったかもしれない。偕楽園でさんざん見たという経験があって初めて、この何でもないような木に「閃き」を覚えた。その絵もまた筆者には写真にように見えた。より正確に言えば、その絵と同じ光景を撮った写真を想像した。そしてそれと佐藤の絵を比べると、絵は写真とはそうとう違う。まず、佐藤は梅の花をほとんど正面』向きの五弁としている。現実にはそのようには見えない。だが、現実とそっくりに描くと、今度は梅に見えない。見えても梅の美しさを伝えない。それで昔から日本では梅の花を描く時は正面向き、すなわち文様的に描いて来たし、今後もそうだ。それは伝統の無批判的受容で、そうであるから日本画は面白くないという意見があるが、逆にそうであるからいかにも梅らしいという見方も出来る。もちろん佐藤は後者の考えに立っている。その一方で今まで誰も描いたことのない白梅を目指す。それは写真的となるであろうし、また今までの画家が描かなかった時間帯や木の姿形となる。そして、そのことに佐藤は成功した。もうひとつ佐藤の名作を挙げると、これも題名を忘れたが、竹林に鷺が群がっている絵だ。これは佐藤にしては珍しいほどに、かなり動きが激しい絵で、しかも表現される時間帯や天候も今までの日本画ではあまり見られなかったものだ。そのような激しい絵を描きたくなる何かが当時の佐藤にはあったのだろう。竹林の鷺を写生している時、突風が吹き始め、雷雨になりかけた。竹は大きくしなり、巣篭っている鷺は吹き飛ばされないように必死になる。その光景を描くとなると、他のどの佐藤の作品よりも写真的になるのは誰にでもわかる。だが、写真では佐藤の絵のように華麗には写らない。竹は緑が鮮やかで、それに白鷺の白さと影になった黒さ、背景の空の灰色と黒など、色合いは忘れ難い。写真ではそのような装飾性は表現出来ない。絵になると思った光景は、どれも美しく、また煌めいている。荒れた天気であってもそれを絵に造形することは楽しく、また他者にその思いを分かち合ってもらいたい。佐藤はいつもそのように考えていたのではないか。