長い間借りているヴィデオ・テープをそろそろ返さなくてはいけない。どんな内容か全く知らないが、貼りつけてあるタイトルに関心が持てなかった。それでもどうにか観始めたところ、最初は登場人物の若い女性たちが紛らわしかったが、次第に事情がわかって来て、後半はますます面白くなった。
韓国映画にしては珍しいタッチの映画だ。海外に留学することや上流社会のきらびやかな世界を描いておらず、社会派的な内容と言ってよい。舞台はソウルと、そこから車で1時間ほど西にある仁川港で、どんな韓国映画にも登場しないような殺風景な、あるいは貧民が生活する地区を撮影している。それは韓国としてはあまり見せたくない地区とは思うが、現在でもそのような貧しい人々が住む世界があるのが経済先進国の実体であり、これは恥でも何でもない。日本でも同じような地区があるのに、よそ者が訪れないだけの話だ。華麗とも言える世界を虚構的に描く韓国ドラマや映画の中にあって、こういうタイプの映画がもっとあってよい。だが、この映画は貧困の側からの告発を目的にしたものではない。それも多少は込められているが、主題はごく日常的な成人に達した女性たちの人生の現実と、他の韓国映画やドラマと同じく、そこからの上昇指向に焦点を当てている。上昇指向とは一言すれば夢だ。その夢というものが、今の韓国において、商業高校卒業の身でどのように持つことが可能なのか、監督はそれを冷静に見つめて話を進めて行く。さきほど調べたところ、監督はチョン・ジェウンという女性だ。ヨーロッパの映画祭でも好評を博したそうだが、それはわかる気がする。イギリスのケン・ローチ監督の社会派的な作品にタッチにやや近いし、街並みなど、主人公が移動する間の撮影はヴェンダースのロード・ムーヴィーを思わせるものがあった。また、ドキュメンタリー的な味わいがあって、5人の女性の動きも演技ではなく、そのままの生活を撮影したかのような感じがある。つまり、娯楽映画の印象があまりない。そのため、こういうタイプの映画を好む人とそうでない人とにはっきり分かれるだろう。観てもあまり楽しくないような映画はごめんだという意見はよくわかるし、それを否定はしないが、韓国映画の中にこういう作品もあるということを初めて知って、興味深かった。また、若い女性たちを主人公としてこういう映画が作られることも珍しいはずで、その点でも特筆してよい。今の日本ではまず撮られない映画で、撮っても歓迎されないだろう。自立しようとする若い女性たちを描くのは、韓国の女性が昔と違ってそれだけ活動的になって自己主張出来る時代になったことを示すが、それは先日の『細雪』でも書いたように、戦後の女性のひとつのあるべき姿でもあり、資本主義国に共通したことではないだろうか。
資本主義とは貧富の差があることだ。金を持った人間は、それは自分の努力でそうなったのであるから、貧乏人は努力が足りないと言い捨てる。世襲制、身分社会のない自由主義の世界では、誰でも努力すれば金を多く得られる機会が均等に与えられていることが当然のように言われる。だが、決してそうではない。芸能界でも政界でも二世や三世がのこのこ出て来て、それなりに金持ちの有名人となって行くのが今の日本であるし、何らかの避けられない事件や事情によって最初から競争に参加することすら出来ない立場の人は大勢いる。教育にしてもそうだ。東大、京大にはもはや年収300万程度の貧乏人の子息が入学出来ることはない。金持ちは早い段階で子どもに特別の教育を与えることで、有名大学に入りやすい条件を整える。昨日書いた『我が心のオルガン』では、ヤン先生はいいこと児童たちに授業の中で言っていた。「勉強が出来ることは何万種類もある才能のひとつです」。これは本当にそうだろう。だが、勉強がよく出来て、いい大学に進んで一流企業に就職した者が、そうでない者の何倍、いや何十倍もの収入を生涯に得るのが現実だ。勉強が出来なくても、別の何万種類かの才能のひとつがあることで、勉強が出来る者と同じ収入が得られることはほとんどないと言ってよい。特殊な才能を伸ばすのにお金や家柄、コネが必要なのだ。努力の以前に立ちはだかる壁は大きい。また、正直にやっていてはまず金儲けなど出来ない。ある時期にかなり際どいことを平気でやってのける厚顔さが必要なのだ。ヤン先生としては、「勉強が出来ることは何万種類もある才能のひとつです。でも、勉強の出来る人だけがいい大学に入っていい会社に入り、そこでたくさんの収入も名誉も得ることが出来るのです」と言うべきだったのだ。少なくとも今の韓国はそのように社会が構築されてしまっている。だが、有名大学から有名企業に進めるのはごく一部だ。そのほかの人間はどうなるか。映画やドラマで扱われるにしても、ヤクザ者かせいぜい慎ましく暮らしている脇役だ。『自分には才能もないし、あったとしてもそれを磨く場も与えられない。下働きでも何でも働かせてくれるところで働くか』といった思いを抱いている若者がきっと少なくないであろうことは充分に想像出来る。この映画はまさにそんな女性を5人の中のひとりとして描いている。
映画は5人の女子高校生が港の岸壁で卒業記念のスナップ写真を撮るところから始まる。みんな仲よしだ。それから1年ほどが経つ。商業高校であったので、全員大学には進まず、社会に出る。20歳になった者もあればまだ19の者もいるが、それぞれ社会の荒波をそれなりに経験する。5人のうち、最も美人のヘジュはソウルの高層ビル内の証券会社に勤める。だが、周りはみんな大卒ばかりで、自分に当てられる仕事はせいぜい雑役だ。次第に不満が募る。同じような年齢の女性が新入社員としてやって来るが、自分とは違って仕事で将来を期待されているキャリア・ウーマン候補だ。それでもヘジュはまだましだ。きちんとした給料がもらえるし、家も親が離婚したばかりとはいえ、お金にはさほど不自由はしていない。ヘジュは普段はコンタクト・レンズをしているが、ある日それを失ったために眼鏡をかけ、男子社員にその顔を笑われたことがきっかけで、視力回復のためにをレーザー手術にする。そして次に考えるのは整形手術だ。顔をより美人にすれば、もっと男性にちやほやされるかもしれないというわけだ。これは韓国における同じような境遇の女性の思いをストレートに代弁しているであろう。ごく平均的な若い女性の姿と言ってよい。貧しい生活を強いられているわけではないが、自分よりもっと上の女性はいくらでもいるという現実をいやと言うほど知らされている。このヘジュンと最も仲がよかったのはジヨンだ。だが、彼女は自宅に友人を誰も招いたことがない。ドン底の貧民街に住んでいるのだ。それは仕方がない。両親とは早く死に別れ、今は伯母と寝た切りの伯父と一緒に、狭い老朽化した借家に住んでいる。ヘジュンには夢がないわけではない。こつこつとテキスタイル・デザインの模様を描くのが好きで、暇があればペンを走らせている。だが、その才能をどう伸ばしていいかわからない。とにかく生きて行くのに精いっぱいなのだ。高校を出ても働く当てがない。経理部門で働こうとして、履歴書を持って面接に行くが、両親がいないので信用が得られない。商業高校を出ても意味がないのだ。そんなジヨンはある日、捨てられ子猫を拾う。5人は1か月に1回は揃って会おうと約束していたが、それもままならない間にヘジュの誕生日がやって来る。プレゼントを持ち寄って4人が駆けつける。ジヨンはお金がないので、自分が描いたテキスタイル・デザインの用紙を貼りつけた化粧箱に子猫を入れてプレゼントにする。手わたされた時は喜んだヘジュだが、すぐに飼えないと言ってジヨンを呼び出して返却する。
残りの3人だが、なかなか面白いと思ったのはふたりを中国系の双子を起用していることだ。そして映画でもその通りの役として出ている。5人が全部違う顔であれば、112分の長さのこの映画ではかなり話がわかりにくかった。ところがうまい具合にふたりが同じ顔であるので、5人の賑やかさがあるのに、4人の性格づけで間に合う。観ている者としてもわかりやすくてよい。それにこの双子は印象的な顔立ちだが、ごくありふれた平凡な役どころでもあることによって、映画をただ暗いものに陥ってしまうのをうまく防いでいる。仁川には本当に中国人街があることをこの映画で初めて知ったが、日韓併合時代にそうなったのであろう。仁川に日本人が船でよく上陸して日本人街もあったはずだが、今はインチョン空港によってその名前が知れわたっている。もっとも、この映画に登場する5人がいたところから空港まではかなり距離があるようだ。双子は路上でアクセサリーを売って生活していて、それもそれなりの自活方法だが、会社勤めしているヘジュとは違って収入もうんと少ないはずだ。だが、そんな仕事でもやらないよりかはましで、またそんな仕事しか取り合えずはなかったのだろう。もうひとりテヒがいる。この女性は両親もいて、兄弟もある。家は銭湯だったか、商売をしており、無給の雇われ人の格好で家業を手伝っている。これはよくあることだろう。せっかく家業をしていてそれが忙しいのであれば、親としては働きに出る必要がないと説得して家にそのまま娘をとどめる。だが、テヒは家族の空気がいやで、どこか遠いところに行って自立したいと思っている。これもいちがいに贅沢とは言えない。多感な女性が家族の生き方に馴染めず、全然違う世界で生きてみたいと、たいした理由がなくても思うことはある。そんなテヒは他に4人とは違って情に厚く、家にこもったままの身体障害者の青年の元にボランティアとして通って、詩の口述筆記をタイプライターでしている。青年は自分の運命を呪うように詩の文句に込めるが、これは映画のひとつの見物にもなっている。青年はほのかな恋心をテヒに抱くが、テヒはそれには黙った相手にはしない。これまた現実と言える。5人が久しぶりに仁川で落ち合うシーンがある。その直前にテヒはミャンマー出身の3人の青年から声をかけられ、一緒に遊ばないかと言われる。そのまま3人を待ち合わせの友人のもとに連れて行くと、みんなはそっぽを向いてそこを立ち去る。ミャンマーからやって来た肉体労働者に用はないというわけだ。これまた現実だろう。同じ話は『バリでの出来事』でもあった。たとえ貧しいアパートに住んでいても、若い女性は同じような貧しい境遇の男性とはつき会いたくはないものなのだ。男にとっては辛い現実だが、これもまた仕方がない。若い女性が少しでも自分を条件のよい男性を望むのは一種の本能と言ってよいからだ。
ソウルで遊んだ5人だが、ヘジュは衣服の買物ばかりして収入のあることをみんなに見せつける。ジヨンはかちんと来て、みんなに帰宅すること告げ、ひとりで帰ってしまう。5人の中でも最も友人思いのテヒはジヨンのことを心配する。このあたりぐらいから、この映画の主人公がテヒということになって来る。テヒが初めてジヨンの家を訪れる場面がある。伯母はジヨンの友人が初めてやって来てくれたと言いながら、餅をたくさん出してくれる。無理に食べるテヒだが、この場面は心温まり、特に印象に残った。貧しい人々ほどこのように情が深く、金持ちほど実際は大いにチなのだ。仕事もなく、友人とも境遇が違うことを知る八方塞がりのジヨンは、バスでたまたま会った近所のおばさんから家政婦の仕事があることを耳にする。そして後日、インチョン空港で働けそうだとの報せを受け取る。この映画は2001年10月の公開だが、インチョン空港は同じ年の3月に開港しており、この話はかなり現実味があって、ドキュメンタリー色の強い映画をより印象づけている。そんなある日、ジヨンが家に向かって歩いていると、近所の人が騒いでいる。家が倒壊して伯母と伯父が亡くなったのだ。警察署で事情聴取を受けるが、黙秘を続けたため、鑑別所に送られる。まだ19歳であったからだ。そんなジヨンを心配してテヒが面接に行く。「たとえあんたが斧で人を殺しても味方だからね」と声をかける。女性に親友は出来ないとよく言うが、こんな頼もしい言葉をかける友だちもあるということだ。だが、ジヨンはここを出たところで行く当てがないと言う。この現実の前にテヒは言葉がない。そしてテヒは決心する。家を出るのだ。そして前から思っていたオーストラリアで働きながら暮らすことを実行するかもしれない。そこなら家族も追っては来れない。そして、テヒは鑑別所を出たばかりのジヨンを誘い、ふたりはインチョン空港から飛行機で飛び立つ。そこで映画は終わる。この最後はふたりにせめてもの夢を付与している点で、映画が暗くなり過ぎるのを防いでいるが、かなりメルヘン的な締め括り方で、あまり成功しているとは言えない。インチョン空港で掃除婦として働くという現実的な結末では映画としては成立しないと監督は思ったのだろう。そんな生き方では上昇指向にはならないからだ。飛び去る飛行機を下から見上げるシーンで終わっていたが、それはふたりの凱歌の表現でもあるだろう。心優しいテヒと、恵まれない不運続きのジヨンのふたりに、せめて夢のある生き方が残されているのだということを示さなくては、監督としてはこの映画を作った意味がない。弱い者の味方をしている監督の立場は、多少のあり得ない話の結末ではあっても、映画を観る者に対して、ある種の勇気のようなものを与える。こうして書いていて、キャロル・キングの名曲「ユーヴ・ガッタ・フレンド」を聴きたくなって来た。音楽がほとんど印象にない映画であったが、この曲ならこの映画の結末に背景音楽としてふさわしい。さて、タイトルの子猫だが、ジヨンが警察に連れて行かれた後、テヒが見つけて預かり、そしてテヒがジヨンと一緒に飛行機に乗る計画を立てた時に、テヒは双子に猫をわたす。5人全員の手に猫が順にわたって行ったのだ。子猫(プッシー・キャット)は若い女性のことでもあるが、若い女性もいずれは男を見つけるか、あるいは自立して独身を通すかして生きていかなくてはならない。本物の子猫は取り合えずは誰かが面倒を見る必要がある。だが、いつかは大きくなって勝手に生きて行く。人間ならちょうど成人した頃がそうであろう。成人してもなお親がかりになって生き続ける若者にとって、この映画がどう見えるのか知りたいところだ。最初に何もない体ひとつで人生に漕ぎ出すのは、猫も人間も同じであるはずで、そんなテヒとジヨンの将来が楽しいものであることを希望したいものだ。きっとチョン・ジェウン監督もそんな人生を送って来たのかもしれない。