褌一丁の姿で座ってこちらを向く工藤哲巳の写真を本展で初めて見た。国立国際美術館には工藤の晩年の作である鳥籠に顔をかたどった仮面がカラフルな糸が絡まった状態で入れられた作品が所蔵されていて、昔から工藤の作風については多少知っているつもりであった。
まだ万博公園内に同美術館があった1994年に回顧展が開催され、筆者はそれを見た気がするが、そう思うのは、今回の会場ではその図録が置かれていて、それを繙いた時に記憶が蘇ったからだ。工藤は1990年に55歳で死に、当時筆者はとても意外な気がした。母校の東京藝大の教授になり、まだこれからという時期で、人生は呆気ないものという気がした。今回、その死因がわかったが、酒を友としていた工藤は晩年には酒が強敵になっていた。褌姿の工藤の写真を見ると、酒好きであることが何となく伝わる。家内がぽつりと漏らしたが、工藤の顔は普通一般の芸術家のイメージとは違い、漁師や鳶職の親方風だ。それは知的ではないという意味ではない。酒に飲まれるようになって行ったのは、繊細であったからだろう。それだけ自己の芸術行為に真剣で、苦悩し続けたと思える。また、「哲美」が本名で、「美」の一字を嫌って「哲巳」を名乗ったが、そこに工藤の芸術に対する思いや覚悟が見える。「哲美」は女の名前ではないが、「美」が入ると女性っぽくなる。そこを嫌ったのはいいが、「哲実」でいいのに、「巳」を使ったのはその後の工藤の作品と併せ考えると、いかにも似合っている。工藤の作品はどれもおどろどろしく、「美」を求める人には拒否されかねない。だが、今回晩年の作品をたくさん見て、ほとんど工芸家と言ってよいほどの手先の巧みさを感じ、破天荒さと内省的であることが裏表になっていることがわかった。そうした晩年の比較的小さな作品は、50年代末期のハプニング芸術とは違って、いつまでも見える形で保存出来るものであり、画商が扱うことも出来る。つまり、収入を考えれば売れる作品を作らねばならず、工藤は晩年に向かうほど迎合したのかと見ることも出来るが、そのことは本人が一番感じていたのではないか。だが、彼の作品は晩年に至るまで一貫していて、晩年になって売れる作品を目指して転向したのではない。体を使うハプニング芸術家が後に手仕事に勤しむ姿はどこか物悲しいが、ハプニングは一般的にははったりと見られやすく、当人が去った後でも当人を偲ばせる、目に見える作品を求めるのは自然なことで、ハプニング芸術家がそれに応えるのはおかしなことではない。また、工藤のハプニングは、自作のオブジェを使ったもので、そこにすでに手仕事へ勤しむ姿は表われていた。
94年の展覧会図録は地味なもので、カラー図版も少なかった。それで買わなかったが、今回は厚さ10センチ近い電話帳のような重量感で、しかも蛍光色のピンクが目立つカラー印刷の表紙だ。2400円であったと思う。1冊買うつもりでいたが、その重さにたじろぎ、次回来た時でもいいかという気になった。そのため、手元にはチラシと館内でもらった目録しかないが、どちらも充実している。国立の美術館であるからそれくらいの出費が許されるのであろうし、また今回は東京、青森にも巡回し、かなり大がかりだ。それは初めて工藤を紹介する機会として、大規模な回顧展が2008年から9年にかけてアメリカで開かれたことを受けてのことでもあろう。没後四半世紀経っていよいよインターナショナルな芸術家との評価が定まって行こうとしている。それは工藤の作品が今日においても突きつけるものが多く、それは工藤が早くも1962年に渡仏し、ヨーロッパの文明について思考を巡らしたことによる。文明を批判するのはたとえば工藤が日本で出会っていたフンデルトワッサーにも見られるが、目録の文章には「批判」ではなく、「文明批評的な視点と科学的な思考を結びつけた独自の世界を展開しました」とある。「批判」と「批評」はほとんど同じ意味で、筆者も混同しているが、前者の方が相手を批難する意味合いが強いように感じる。ま、それはいいとして、「科学的な思考」は、工藤が物理に関心を抱き、原発についての概説書を貪り読んでいたそうで、放射能の影響について考えていた。工藤がパリに行った翌年に日本は東海村で原子力発電を開始するが、戦後の日本が原発を導入する動きに工藤は敏感であったのだろう。それは放射能を撒き散らすという否定的な側面もあり、そういう発電を発明したヨーロッパ文明に懐疑的であったとも言える。「哲美」の「哲」は「哲学」を思わせ、名前の印象に沿った行動をしたとも思える。昨日『スノーマン』の作者のレイモンド・ブリッグズが核戦争をテーマにしたアニメ映画『風が吹くとき』を82年に発表したことを書いたが、彼は工藤より1歳上で、表現形態は違うが、文明批判をする点は両者は共通していて、戦後の第一世代としての面目があるようにも思える。工藤がヨーロッパを拠点に活動し続ける中、ヨーロッパの本質を知ることとは別に、日本を外から見つめることもしたはずで、「80年代に入ると、たびたび帰国し、講演やシンポジウム、パフォーマンスを盛んに行なうかたわら、「天皇制の構造」や「色紙」の連作を発表し、日本の社会構造を根幹から見つめなおす作品を展開」するようになる。目録からもう少し引くと、「1970年代の中頃からは、攻撃の目標が芸術家自身に向けられ、一転して内省的、自画像的な作品」を生むようになる。
この70年代半ばは転換期であったと言える。自分を批判しながら、次第に酒の量が増えて行ったのではないかと想像するが、芸術家としてどう生きるか、すなわち何をどう表現するかについて悩んだのは、有名になり、作品が売れて行く他の前衛芸術家を見てのことかもしれない。70年代のヨーロッパの美術雑誌であったと思うが、その表紙に10人ほどの作家が取り上げられ、日本人として工藤とヨーコ・オノが入り、他にヨーゼフ・ボイスの写真もあって、画商との関係でどれだけ自分のやりたいことを守り通して行くかということはそうした美術家にとっては共通の悩みであったのではないだろうか。純粋になろうとすればするほど周囲との軋轢を生みやすいし、そうなると、自分のやっていることが意味あることなのかどうかと自省することにもなるだろう。そういうことを考えずに売れっ子のたとえば画家になっているようなかつての学友や先輩後輩を揶揄したような作品が今回はあった。だが、他者への批判だけでは意味がない。そこでますます自己の内部を見つめるようになる。工藤はそのような真面目さがあった。そういう人物が酒に飲まれて早く死んでしまうところは悲劇的だが、今回晩年の作品をたくさん見て、行き着くところまで行ったように思えた。長生きすればそれなりの新作は生まれ続けるが、55歳はまだ活力がみなぎる頃で、その年齢で去るのは衰えた様子を見せずに済んで、芸術家としては格好がよいままでよかったのではないか。格好よさのために頑張っていたと言われると工藤は怒るかもしれないが、誰とも似ておらず、忘れ難い印象を与え、また考えさせる作品群を作ったことはそうと言うしかない。文明批評が晩年には「天皇制の構造」という連作にまでつながっていることは、ほかのどの日本の美術家がやったことだろう。今後も出にくいだろう。工藤は作品の題名に大変気を配ったそうだが、本展の各章の題名を書いておくのは無駄ではない。1『1956-1962 「反芸術」から「インポ哲学」まで』、2『1962-1969 「あなたの肖像」から「放射能による養殖」まで』、3「1969-1970 一時帰国、≪脱皮の記念碑≫の制作」、4「1970-1975 「イヨネスコの肖像」から「環境汚染-養殖-新しいエコロジー」まで』、5『1975-1979 「危機の中の芸術家の肖像」から「遺伝染色体の雨の中で啓示を待つ」まで』、6『1980-1990 「パラダイス」から「天皇制の構造」、そして「前衛芸術家の魂」まで』で、これだけの規模の工藤の回顧展は当分行なわれないだろう。
前述した鳥籠の作品は保管場所をさほど取らないのでいいとして、インスタレーション的な大がかりなものは今回どのようにして再現したのかと思わせられた。昔の展示の様子を捉えた写真があるとしても、当時の作品がどこでどのように保管されているのかと不思議に感じるほどの大作がいくつもあった。そうした作品は白黒の小さな図版からでは魅力が伝わらない。それが今回は手で触れられるほどの間近に現出し、その派手な色合いとどのようにして作ったのかと謎めく質感は、画家でも彫刻家でもなく、また工芸家でもない、分類不能の奇妙なオブジェで、どれも工藤らしかった。原色の派手な色合いは1歳年少の横尾忠則と同様、サイケデリック・ミュージックの時代を20代で経験しているせいかとも思わせる一方、日本の土着性のようなものを武器にする思いがあったのではないか。最初の部屋に入る直前、「インポ哲学」であったろうか、荒縄の結ぶ目を切り取ったものを数百か千か知らないが、たくさん貼りつけた作品があった。同様の結び目を使用した作品はそのほかにもあって、「紐」に対する愛着は最初期から見られる。その紐が70年代に入ると直径1ミリほどのカラフルな糸になり、それが蝋で固められていわばドローイングの線のように使われてオブジェを彩るようになって行くのが晩年で、その繊維に注目すると、工藤はファイバー・アーティストと言える。カラフルな細い紐はリリヤンで、これは日本で生まれた糸で、それを編むことは何度もブームがあった。筆者の妹も小学生の頃にそれに夢中になっていたが、そうした女性が目をつける素材を自作に持ち込み、独自な使い方をしたところに、前衛工芸家と言ってよい才能が見える。その独自というのは、糸をそのまま垂らして使う場合もあるが、蝋で固めて糸の軟弱性を凝固させた点で、それは理屈はわかっても制作は熟練を要し、大変であったと思わせる。市販されているものをそのまま用いるのではなく、性質を変えてしまうことは、手仕事が好きであったからで、それは無数の紐の結び目を貼りつけた初期作からもわかる。プラスティック製の造花をたくさん使った時期もあって、その造花に熱を加えて一部を溶かしたり、またその溶かした部分を水飴のように長く引っ張って固定させる様子はリリヤンの糸に通じる造形感覚で、そうしたレディメイドの商品に手を加え、組み合わせる手法はオブジェ作家の中でもかなり特異ではないだろうか。特に印象深かったのは、最後の部屋のリリヤンを無数に使いながら、それを流線形に椀や皿、凧などに貼りつけたものだ。そのひとつがチラシに印刷されているので、それを写して掲げるが、題名は「縄文の構造=天皇制の構造=現代日本の構造(天皇制の構造について-聖なるブラックホール)」というもので、縄文時代から現代まで見通し、また縄文時代をリリアンで束縛した皿と漏斗で表わしているところが面白い。漏斗の口は紫色で、内部が細かく凸凹している。これは隠微な穴で、肛門にたとえてもよい。女性の肛門と陰部の連なりを形式化した素描が展示されていて、それにも「天皇制」の文字が題名に含まれていた。
エロティックな要素は「インポ哲学」という題名に早くも現われていて、50年代末期のパリでのハプニングでは、ジャズ・ミュージシャンが演奏する中、工藤は全身を紐で縛り、10本ほどの男根状のオブジェをぶら下げ、巨大な男根を抱えながら、観衆の中でのた打ち回った。それは今見ても驚きの行動で、当時の日本では理解や支持は得られなかったのではないか。ヴェネツィアのサンマルコ寺院の前の広場でのハプニングも紹介されていて、乳母車の中に赤ちゃんの人形を寝かせ、それを押して回ったようだが、そばを通り過ぎる人は、無関心から変なものを見たという顔つきまであって、それは工藤の予想どおりであったのだろうが、そうした意味不明と受け取られかねないハプニングをするかたわら、そのハプニングに用いたオブジェを作品にすることも忘れなかった。当然そうしたものは大がかりになりがちで、今回は広い会場であったから展示が可能であったが、そうなると工藤は自作がたくさん揃う展覧会はいつか日本でも実現することを知っていたと思える。乳母車に赤ん坊の人形は常識的な組合せだが、トランクに透明な容器をいくつか並べ、その中にゴム製の人形を詰め込んだ作品があった。60年代前半の制作であったと思うが、トランクの中には注射器やアンプル剤など、医療器具も貼りつけられ、「試験管ベイビー」ではないが、医療が人間の命を操作する現実や未来像を見せているようで、そこには比較的わかりやすい文明批評が込められていた。また、人形をそのように虐待の象徴として使うことは、いかにも60年代的で、ザッパのアルバムのジャケット・デザインを担当したカル・シェンケルの好みでもあった。ただし、その嗜好は工藤の方が数年早く、もっと先鋭的だ。工藤が「縄文」を晩年に持ち出したのは、大阪生まれでは会ったが、少年時代に父の出身地の青森で過ごしたことの記憶からだろう。10歳の時に父が死に、その後は母の郷里の岡山で高校まで暮らしたが、このように点々としたことは、やがて東京からパリに出ることを厭わない性質を育んだように思う。父は画家で、その作品が今回紹介された。写実的な油彩画で、その美術の才能を工藤は受け継いだようだ。母は工藤を物心ともに支え続けたようで、母の死はそうとう打撃を与えた。ともかく、最晩年の作に「縄文」が題名に登場するのは、幼い時に過ごした青森が蘇ったのだろう。工藤と言えば鳥籠に入った糸で絡まる人の顔や手の作品が真っ先に思い浮かぶが、本展によって最晩年のカラフルな糸を蝋で固めて貼りつけたオブジェが、完成度の高さで圧巻であった。工藤の作品は個人蔵がかなり目立つ。奥さんが提供した資料が展示されていて、その中に個展案内がたくさんあった。そのひとつに、「工藤を支援する会」といった文字も見えたところ、作品を買うファンがそれなりにいたことがわかる。現代芸術家、特にハプニングをするとなると、どうして収入を確保するかが大問題だ。日本の狭い住空間でも保管出来る立体作品となると、サイズは限られる。そうしたものを晩年になるほどたくさん作り、ファンが買った。藝大の教授になればそれなりに金には困らないだろうが、工藤にはそういう権威の中での生き方は似合わなかったのではないか。