NHKでイ・ビョンホンのインタヴュー番組があった時、この映画のことが話された。そしてほんの少し映像も紹介された。その特別番組以前では、ビョンホン・ファンの妹がいい映画だと言っていたのをよく覚えている。
3週間ほど前だろうか、新聞の番組欄を見ていて深夜の映画番組で放送されることを知って録画した。忙しかったが、ようやく昨日観る気になった。とてもいい映画で感動した。先ほどあれこれブログを調べると、大体みんな褒めている。そんな中で凡作と書いている人もあったが、これが凡作なら、映画の99.999パーセントは駄作になる。映画は作りもので、どのようにでも欠点をあげつらうことが出来る。そして、完璧なものがあっても、その完璧であることが欠点と言う人さえある。ま、どのように感想を言うのも自由だが、見当違いを言って恥をかいているかもしれないことを常に自覚しておいた方がよい。昨日はアール・デコの戦後における安っぽい模倣文化について少し書いたが、韓国でも同じ状態であったのはよく想像出来る。日本と同じようにアメリカ文化が押し寄せ、キリスト教は日本以上に信者が増加した。このことからも韓国におけるアメリカの存在が日本以上に大きいことはわかる。この映画でも、24歳の若い女の先生が結婚してアメリカに留学するという設定があって、映画の中心となる田舎の村とは関係のないところでアメリカが厳然と大きな存在であることがほのめかされている。だが、この映画は1960年代の地方山間部の村における、安っぽいモダンな都市文化にまだ侵されていない生活をもっぱら描き、日本で言えば戦後直後あたりの雰囲気に似ている。60年代もいろいろで、筆者にとってのそれは世界が1年ごとに驚くほど変化した。だが、簡単に言えばビートルズが大ブームになる前とその後とで大きく分けられる。ビートルズがEMIから最初のシングル盤を出したのは62年の終わり頃だが、その爆発的な人気が日本に飛火するのは1963年になってからだ。51年生まれの筆者が小学生6年生の時、近所の兄さんたちがビートルズについて話をしているのをしばしば耳にしたことがある。その音楽がどういうものかはわからなかったが、筆者が本当にビートルズにすっかり感心するのは中学に入っての64年からであった。ビートルズが登場して人気が落ち目になったアメリカのポップ・シンガーのひとりにコニー・フランシスがいる。彼女の歌は日本でも大いにヒットして日本の歌手が日本語でよく歌っていたし、コニー自身も日本語ヴァージョンを録音もした。65年だったと思うが、ビートルズの「ヘルプ!」の大ヒットと同時期、コニーの「フォゲット・ドマーニ」が日本でも売れて、よくラジオがかかった。それ以降彼女のヒットを聞かなくなった記憶がある。「フォゲット・ドマーニ」はとてもいい曲で、ビートルズ登場以前の曲とは少し雰囲気が違って、メロディはやや哀調を帯びていた。ビートルズの出現によって大衆の音楽の好みがすっかり変わってしまい、当時のコニーはそれを不満気に語っていたのをどこかで読んだが、芸能界はそういう流行を旨とするからには仕方がない。
さきほどネットで調べると、コニーは1938年生まれで、ビートルズのジョンやポールとは同じ世代だ。イタリア系で、これはシナトラと同じ、なるほどと思う。「コンセッタ・ローズマリー・フランコネロ」が本名らしいが、これではあまりにイタリアそのものなのでコニーにしたという。15歳でMGMレコードと専属契約を結んだが、日本で言えば美空ひばり級の歌手と言ってよいだろう。とにかく60年前後に世界中でコニーの歌がヒットした。この『我が心のオルガン』は描く舞台の正確な年度を示していないが、VCDを見た人が1963年の記載があったとしている。この年ではすでにビートルズがデビューしているが、韓国ではまだごくごく一部の人しか知らなかったかもしれない。日本も当時はLPは非常に高価なものであったし、輸入盤となればごく限られた店に行くしか買えなかった。ビートルズのLPの『サムシング・ニュー』のアメリカ盤を中学2年生の時に近所の兄さんから借りたことがある。日本盤とは全く違うジャケットのその手触りには感激した。またこのアルバムは当時は日本盤の発売はなく、収録曲も日本のLPとはヴァージョンが違っていた。こんなアルバムがどこで買えるのかと不思議に思ったものだが、当時の韓国ならもっと特殊なルートでしか輸入盤は手に入らなかったのではないだろうか。アメリカ軍の施設の近辺では、そして大人ならば案外手に入れる機会もあったかもしれない。それにしても、ビートルズが登場するかしないかの頃、韓国でもコニー・フランシスがよく聴かれていたのは何だか面白い。この映画では、師範学校を出てすぐのイ・ビョンホン演ずる21歳のカン・スハ先生が、江原道のサンリ小学校に赴任する。その時、プレーヤーがないのにLPを何枚も一緒に持って行く。それほど大切なものであったというのはよくわかる。筆者も叔父からもらったお金でビートルズのLPを何枚か買った時、家にはプレーヤーがなかった。買えなかったのだ。だが、LPを眺めているだけで気持ちが豊かになったのでスハ先生の思いは痛いほどわかる。スハ先生は下宿部屋で歌を口ずさみながらLPを磨く。その時の歌はプラターズの「オンリー・ユー」と「16トン」だ。ビートルズがラジオでかかるようになる前から筆者はラジオを聴いていたが、男の恐ろしく低い声で歌われる「16トン」は面白い歌だなと思ってすぐにメロディを覚えた。そんな60年前後の時代を、当時のヒット曲とともに実際に記憶している人と、そうでない人とではこの映画の味わい方はかなり違うと思うが、どんな人が観てもそれなりに感動出来る普遍的なことを描いている。それは、レトロな時代設定であっても、撮影された1999年を明確に刻印するし、それに人間の恋心に古いも新しいもないからだ。
この映画で重要な小道具となっているコニー・フランシスのLP『MY GREATEST SONGS』をアメリカのヤフーで調べたところ、コニーのディスコグラフィには入っていなかった。まさか発売されていない架空のアルバムとは思わないが、ごく少ないローカル、たとえば韓国で作られたアルバムかもしれない。先のディスコグラフィは日本も含めて世界中のコニーのアルバムを網羅しているが、韓国までは含んでいないからだ。そして、GREATESTと来れば大抵はその後にHITSと続くので、このアルバム・タイトルはかなり珍しいが、映画でははっきりとレーベルのMGMが映っていたので、本物であることは間違いないだろう。だが、実にうまく出来ているのは、映画の中で2度はっきりと映るこのジャケットのアルバム・タイトルが、『MY GREATEST HITS』ではないことだ。「HITS」では安っぽくなってしまう。ここは映画の音楽的なタイトルとの兼ね合いからしても、ぜひとも「SONGS」でなければならないのだ。コニーのたくさんあるアルバムの中から、わざわざこのタイトルのものを使用してところに大変なこだわりがある。このアルバムがあったからこそ映画が成立したと考えられるほどだ。それはこのアルバムが重要な要素となっていることと、画面にはっきりと大きく映ることからもうかがえる。こうしたセンスがわからない人はこの映画を凡作と言うだろう。細部がよく考え抜かれていることが名作の必須条件だ。このコニーのアルバムをスハ先生は自分の赴任と同時に同じ学校にやって来た24歳の美人のヤン先生にプレゼントする。だが、保管場所が悪かったのか、男子児童たちがそれを見つけて運動場でフリスビーのように投げ合って遊び道具にしたため、無残に割れてしまう。シェラック製ならいざ知らず、60年前後のLPはほとんどこんなようには割れなかったはずだが、韓国製ならば脆かったかもしれない。いずれにしろ、スハ先生の片思いは見事に破れてしまう。その象徴としてLPが登場するのは憎い演出だ。そしてその同じLPを、家庭の事情があって17歳で小学校に通うホンユンが、ある日ソウルに出かけて買い求め、傷心で学校を去ることに決めたスハ先生にプレゼントする。ここもまた映画のクライマックスとしては絶品の仕上がりになっている。割れたLPが元通りになって自分の手に帰って来たわけだから、スハ先生が本当に愛する女性はホンユンであるという暗示だ。こういう象徴的な手法は月並みだが、それでもこの映画では音楽というキーとなる要素を扱いながら、LPは絶好の小道具として際立っている。
音楽が主題の映画であることは、スハ先生が赴任してすぐの学校の場面であった。まずこれに感動した。それはオルガンの演奏をバックに子どもたちが歌うもので、映像の背景曲として使用されていた。そのメロディは60年代のものではなく、もっと洗練された現代のものを思わせる。その溌剌とした曲調は、ビートルズにどこか似ており、また筆者が好きなブリテンの『A CEREMONY OF CAROLS』の1曲「THIS LITTLE BABE」も連想させて実によい曲だ。そして、同じ曲のオルガンのみのヴァージョンが映画後半の学校における身体検査のシーンでも流れた。ということはこの曲を映画のテーマ曲としてよい。それはコニー・フランシスやプラターズのオールディーズとは好対照をなしていたが、同じように好対照を思わせたのは、スハ先生らの歓迎会を教師たちが開いている場面で、ある先生が韓国の演歌を歌うことだ。ソウルからやって来た21歳のスハが聴くアメリカの流行歌、ひと回り上の世代の先生が歌う演歌、そして子どもたちが歌うオルガン伴奏の理想化された曲。これらの雰囲気の全然違う曲の渾然一体化が60年代初頭の韓国の田舎の姿であるとする設定は、映画を巧みに計算して理想的世界として構築するのに効果を上げている。現実はこんなものではなく、もっと悲惨な面もあったはずという辛辣な意見もあるだろうが、前述したように映画は作りものだ。ある情感の世界を表現するために必要な要素のみを寄せ集めるのであって、あらゆるものを混ぜ込む必要はない。また映画は直接に描かないことをどれだけ想像させるかという力も持っていて、この点でもこの映画は見事と言うほかない作り方をされていた。全部で132分の映像だが、それには収まり切らないドラマが観る人の想像の中で映し出される。これがこの映画を名作にしている大きな理由のひとつでもある。つまり、映画が映画の中だけに充足せず、映画の外からはみ出して、観る者の人生とどこかでつながっていることを感じさせる点において、古き時代の閉じた物語にのみ終わっていない。この手法はハリウッド映画から学んだものだろう。たとえば『ドクトル・ジバゴ』などを思い出す。そんな良質の映画と同じような味わいがこの作品には満ちているが、監督のイ・ヨンジェの処女作というから驚くほかない。
韓国にはとんでもない映画の才能が俳優のみならず監督にも溢れていることをつくづく認識させられる。ホンユンを演じたのが、ペ・ヨンジュンが出た映画で話題になった『スキャンダル』に体当たり的な演技を見せたあのチョン・ドヨンということを後で知って、びっくり仰天した。妹からはチョン・ドヨンが凄い女優ということは何度も耳にしていたが、まさかこの映画のあの小学生を26歳の女優が演じているとは、誰でもこれは嘘だと思う。ヘア・スタイルや服装でかなりどうにかなるとはいえ、立ち振る舞いでどうしても年齢は出てしまう。それがまるっきり本物の小学生に見えるから、テープを巻き戻してもう一度さまざまな場面を確認し直した。美人ではないが、こんな演技の出来る俳優こそ真の俳優と言うべきだ。イ・ビョンホンが出演しなくてもこの映画は成立したが、チョン・ドヨンなくしてそれはなかった。主演は彼女だ。それもあって、映画の最初と最後に大人役の彼女が少し登場する。特に最後はほんの少しだけ横顔が映るが、それは紛れなくホンヨンと同じ顔でありながら、落ち着いた物腰で、中年のおばさんにしか見えない。女は化けるとよく言うが、ましてや女優となれば、その化け具合はまるでまじまじ見させるマジックだ。ホンヨンの母親役は田舎のおばさんをうまく演じていたが、これはソン・オクスクで、『冬のソナタ』ではペ・ヨンジュン演ずるカン・チュンサンの母親のピアニストを演じていた。これまた大いに化けていた。俳優はいつも化けていて、どれが本当の自分かわからなくなるのではないだろうか。ところで、この映画は1999年3月に韓国で公開されたが、韓国でもこうした60年代初頭の時代をそれらしく撮るのは困難になって来ているだろう。田舎に行けばまだまだ古いところがあるとはいえ、今的なものをいかに撮らないかの苦労はあるはずで、そう思えば作りものである映画がさらに自然に見えるためにはスタッフの尽力も並大抵ではない。この映画では四季を通じての田舎の素朴な風景がよく滲み出ていて、ほんのわずかなカットを撮るだけでも季節や天候を待ったことがわかる。それは映画としてはあたりまえとはいえ、2時間程度に編集するにはどれほど多くの捨て去られたフィルムがあると思う。つまり、余分なものは一切省かれたうえで完成作となっているはずで、どの場面のどんな細部でも意味があるはずだ。自然の美と言えば、山や川のほかにホンユンがスハ先生に捧げる赤いユスラウメの実をきれいに盛った鉢や、教室に生け花用に持参する黄色と桃色の花の束だ。この桃色の花は『愛の群像』でも咲いているのを見かけたが、何の花なのだろう。日本とは植生が少し違うので、野に咲く花も違っていると思う。鳥にしても同じで、『冬のソナタ』でも大いに鳴いていたカササギの声が映画が始まって間もなくよく聞こえた。韓国ドラマでは『冬のソナタ』や『真実』などあらゆるドラマによくこのカササギの鳴き声が挿入されているが、姿が見えないのに声だけ聞こえるのは、カササギを見たことがない日本人には聞き逃されてしまうであろう。映画はそんな細部に注目することが面白い。細部を認知出来ない人には何でも凡作に見える。