慎重であるべき真贋判定であることはわかる。だが、慎重を言い始めると切りがない。フェルメールの作品が30数点とあまりにも少ないので、まだどこかに眠っているのではないだろうかと誰もが考えたくなる。
以前このブログに少し書いたが、近年フェルメールの真作として1点「ヴァージナルの前に座る女」が認められた。使用されているキャンバスの繊維の粗密具合が他の真作と同じであることや、また使用されている絵具もそうであるという理由からだ。その作品が今回の「リ・クリエイト作品」の中に混じっていればいいのにと思っていたところ、最後に展示してあった。製作年代は1670年頃とされている。同じ時期の作品として、「レースを編む女」がある。これら2点が隣り合わせか近い位置に展示されていればいいのに、「ヴァージナルの前に座る少女」はまだ一部の研究家が真作とは認めないと主張していて、本展ではいわば参考出品、補遺のような形で最後に置いたのだろう。この作品は一見して「レースを編む女」に通じる点がわかる。まず、髪の形が同じだ。そして「ヴァージナル」の方は髪に赤い糸を飾りとして少し置いているが、その描き方は「レース」に顕著な赤い糸と同じで、両者を同時期の作とすることに疑いがないように思える。また「ヴァージナル」の若い女が鑑賞者の方へ顔を向ける様子は、「真珠の耳飾りの少女」とよく似ている。ヴァージナルを奏でならがこちらを向いている女性を描いた作は1675年頃にも描かれていて、これが真作としては最後の作品とされ、本展でも「ヴァージナル」の直前に展示されていた。今日の最初の写真はそれで、2枚目が「ヴァージナル」だ。前者と後者とでは5年の差があるが、後者が5年前というのは何となく納得出来る。だがそれは直観であって、当てにならない。そこで科学的にあれこれを調べられた。そうしてもまだ真作とすることに慎重でありたい人がいる。それもつき詰めれば直観で、『どうもフェルメールらしくは思わない』という考えだ。「ヴァージナル」は背景が白壁で、それが他の作とは雰囲気が違う。だが、「レース」も同じ白い壁だ。「ヴァージナル」の女性はどこか恥ずかしげな顔つきで、また整った顔をしているので、とても好感が持てる。そのことから真作であってほしいと筆者は考えるが、それは「期待」であって、「直観」と同様、真贋判定には何の役にも立たない。ここでフェルメールについては素人同然の筆者が「ヴァージナル」の真贋を云々しても仕方がないが、「ヴァージナル」が真作であればフェルメールの魅力はさらに増すとは確信する。それもまた「期待」だが、昨日書いたことから言えば、「ヴァージナル」に描かれる女性は現在の眼から見ても美人であり、またしとやかに思え、他の作品に登場するどの女性よりも「まとも」に見える。「まとも」というのは、単純に美しく、癖があまりないという意味だ。そういう女性もフェルメールが描いたことにほっとさせられる。もっと言えば、フェルメールが現在の画家に思える。だが、そのことによって、たとえば19か20世紀の贋作ではないかと考える向きもあるだろう。
贋作にはいやらしさがある。「ヴァージナル」にはそれがなく、描かれる女性は素直であり、はにかんでいて、愛すべき作品になっている。こうした考えも「直観」で、真贋判定には役立たない。だが、直観から始まって直観に終わるのが絵画鑑賞ではないか。そして、直観は当たっている場合が多い。ただし、それは絵というものを長年見続けて来た人に限る。もっと言えば、絵を描く人がよいが、これを言えば、その人の絵の才能がどれほど優れたものかどうかが問題にされる。それで、絵を描く才能よりも、言葉巧みな人の意見の方が重視される。それはともかく、「ヴァージナル」は100年ほど前に存在が知られながら、ようやく真作として浮上し、しかも本展で複製が展示された。この1点のみを見るだけでも筆者は訪れてよかったと思っている。それほどに忘れ難い絵で、ひょっとすれば一番好きなフェルメールの絵であるかもしれない。ほとんど肖像写真で、舞台を作っていないが、それがよい。寓意となるさまざまな道具があるほどに、絵の印象がうすくなるように思う。昨日写真を載せた『絵画芸術』のように、そうでない場合もあるが、最後の作とされる「ヴァージナルの前に座る女」は、背後の絵や手前の楽器など、裕福な女性を描いているのはいいとして、単刀直入さに欠ける。それに「ヴァージナルの前に座る少女」の方が時代を感じさせず、人物により語りかけやすい気がする。さて、昨日は会場でもらって来たチラシを見ずに書いたが、先ほどそれを一読してまた今夜も書く気になった。それに撮って来た残りの写真を没にするのは惜しい。「リ・クリエイト作品」とは、デジタル撮影し、原寸大に再現した複製というだけの意味ではなく、「彼が描いた当時の色調とテクスチャーを推測し」たものだそうで、これは気づかなかった。また、「推測」であるから、それが正しいとは限らないが、そこは専門家たちが考えたであろうから、素人は信じるしかない。描かれた当時は現在の状態より絵具はもっと派手であったに違いなく、そういう補正はデジタル画像ゆえに可能であって、意義が大きい。ハードカヴァーの図録が2000円ほどで売られた。他の画集を何冊か持っているので買わなかったが、色調が補正された状態が印刷されているのであれば、今までになかった画集となって、フェルメール・ファンは必携ではないか。
音声ガイドは500円で借りることが出来たが、これは借りたことがない。本展は福岡伸一という人が足かけ4年にわたって全作を見た結果、実現した。彼によれば、「フェルメール自身の旅路を、時間の軸に沿って追体験することなしには、フェルメールをほんとうに理解することはできない」が、これは描かれた順に見て歩くことが肝心という意味だ。本展は描かれた順に作品が展示され、作品の変遷具合がわかることになっているが、初期の数点のキリスト教を題材にした作や売春婦を描いた作以外は、どれが先で後かは判別しにくい。描かれた年を記入してある作がわずかにあるので、それを基準に、残りの作を配置したのだろうが、同じような室内をもっぱら描いたので、昨日書いた、筆者が70年代に最初に見た「窓辺で手紙を読む女」においてすでにその特徴は出ていて、その絵の完成度をそのまま最後まで保ち続け得たと言ってよい。福田氏の経歴は知らないが、フェルメールの全作を見た人はほかにもいくらでもいるはずで、日本人による研究本はいくつか出ているのだろう。今回、福田氏はフェルメールの素描らしきものを見つけたようで、その説明がエンドレスで場内の画面でなされていた。それは、フェルメールの「天文学者」と「地理学者」のモデルになったと思われる学者との交流の中で描かれたもので、顕微鏡を使っての蚤のような虫の脚の細部のドローイングだ。ほかにも同様に素描が数点あって、それらはその学者が自分は絵の才能がないので、腕の立つ画家に描かせたという記述が残っていて、しかもフェルメールの死後はかなり技量の落ちるドローイングへと変わっている。つまり、フェルメールは個人的に親しかった学者と懇意で、依頼された素描を描く一方、彼をモデルに使って「天文学者」と「地理学者」を描いたという想像だ。これもまた「推測」でしかあり得ないと言えばそうだが、拡大された素描を見ると、きわめて迫真的で、顕微鏡を覗いて描くという行為に画家が慣れていたか、興味を持っていたことが伝わる。あるいは、そうした素描程度ならば、当時の二、三流の画家でも描けたかもしれず、強引にフェルメールであると判定しなくてもよいかもしれないが、フェルメールの交友やまたいつ死んだかといったことを照らし合わせて行けば、今後はもっと確実に見えて来ることがあるだろう。フェルメールの素描は発見されておらず、それが出て来ることは大いに期待されている。本当は虫の断片図程度ではなく、油彩画の下絵といったものが発見されると、フェルメール研究はまた新たな段階に入る。謎が多い画家であるのは、フェルメールが自身の痕跡をあまり残したくなかったためかと思えなくもない。それは「絵画芸術」で鑑賞者に背を向けてモデルに対峙する画家の姿からもそう言えそうだ。完成度の高い作品だけが残ればよいと思う気持ちがあれば、素描の存在は重視しないどころか、破棄したことも考えられる。
フェルメールの絵には楽器がよく登場する。当時はそれほど音楽が溢れていたのだろうか。それともフェルメールが音楽好きであったためか。会場ではBGMが流れていた。これがなかなかよかった。誰の音楽かわからなかったが、チラシによれば久石譲が音楽担当で、なかなか凝っている。通常ならば、適当にバロック音楽のCDを流しておくだろう。また、500円の音声ガイドは宮沢りえと小林薫で、これも金がかかっている。2,3年かそれ以上かけて日本各地を巡回するのではないか。京都はまだなので、いずれ開かれると思うが、その時はまた見たい。37点では百貨店の通常の美術ホールでは広過ぎるので、今回のように、普段は美術展が開かれないような場所になるだろう。だが、37点だけの展示ではなく、フェルメールの絵に登場する室内の再現や、また画材の展示や説明など、多角的にフェルメールの絵画の魅力を伝える工夫があった。顔料や溶剤の説明はかなり専門的で、子どもにはわかりにくいだろうが、市販のチューブ入り絵具で描いたのではないことを知るだけでもよい。それにフェルメールは6,7色しか使わなかったが、それでも多彩な絵が描ける事実はさらに驚かされる。題名の「光の王国」はどんな写実的な絵にも使えそうで、あまり関心しないが、フェルメールの絵によく登場する真珠は、まさにそうでしかあり得ないように描かれていて、その光り具合は別にそう凝ってもいないように見えるところが唸らせられる。そして、絵を描く人なら、その技術を学び、同じように描いてみたいと思うだろう。とはいえ、デジタルの画像やLEDの光に馴れている現在の人間は、もはやフェルメールのようには世界が見えないのではないか。「光の王国」を言えば、現在の方が圧倒的に光が溢れているが、その分、自然光を慈しむ思いが減ったと思える。サングラスをかけるなどもってのほかだろう。それに筆者のように毎晩パソコン画面に何時間も向かい続けることも。