什器には家具も含まれるから、什物と言う方がいいかと思うと、今回の展覧会には家具も出品された。そこで、根来塗は朱色の肌の下に黒がところどころ見えている、盆や台、高坏、椀などを初めとする什器と定義出来そうだ。

だが、本展は「根来」とあって、「根来塗」とは書かれていない。その理由は分厚い図録の巻頭論文で明らかにされている。それは後述するとして、本展は9月1日から今月15日までMIHO MUSEUMで開催された。いつものように筆者は初日の前日の招待日に出かけた。今年知り合った人は何人かいるが、本展の招待日は「あきらめワルツ」さんと出かけた。もう4か月近く前になるが、本展を取り上げておく気になったのは昨日の投稿による。また造本の話になるが、本展の図録は表紙が根来を思わせる装丁になっている。2枚目の写真からわかるかどうか、背表紙は紙とは思えない艶で、そこに明朝体で展覧会名が印刷されている。その文字は少し盛り上がっていて、インクの中にそういう効果を起こす膨張剤を入れてあるのだろう。この印刷方法は数年前から流行し、単行本でよく見かける。背表紙の艶は、昔なら薄いセロファンのようなものを貼ることで同じような効果が得られたが、この図録では背表紙の部分のみそうしているとは考えにくく、別の方法であろう。表紙の黒地は艶消しで、そこに背表紙の地と同じような艶を持った題名と刷毛目が円状に連なった模様が朱色で印刷されている。「同じような」と断ったのは、崩れた網目模様が全体に覆い、しかもそれが盛り上がっているからだ。1枚の紙にこのようにさまざまな質感の印刷が出来る時代になっている。これは昭和モダンの時代では考えられなかったことだ。印刷を通して自作を発表しているパツゥウスカーは日進月歩の印刷術に関心があるはずだが、本展図録の表紙を見ると、また何か思いつくかもしれない。それはさておき、本展の図録の装丁やチケット、ポスターのデザインを担当した人物が招待日で紹介された。筆者は知らなかったが、『目の眼』という古美術、骨董専門の雑誌の編集長は白洲正子の息子さんの白洲信哉氏だそうで、彼が本展のポスターなどのデザインを担当した。図録表紙の「根来」の文字は確か弘法大師の筆跡だ。「根」と「来」の間に小さく「Negoro」と赤く記され、欧米人にもわかるように、あるいは欧米人のファンが少なからずいることを思わせる。実際そのとおりで、黒と朱の対比が美しい木製の什器を愛好する外国人は増えているらしい。「Negoro」はそそっかしい人は「Negro」と勘違いする。本展の図録のように黒地であればなおさらだ。そのことを思いながらあえて「Negoro」の文字を「根」と「来」の間に挿入したのではないか。「根来」と「二グロ」は語呂が似ているだけで何の関係もないが、黒の下地の上に朱の漆を塗る根来は、使い込むうちに朱が剥げ、下地の黒がところどころ見え透く。その景色が何とも美しいが、「二グロ」を思った人にとっては、本展図録の表紙は、拷問を受けた黒人奴隷を連想させないでもない。それはあんまりだが、本展のポスターはチラシと同じデザインで、かなりおどろおどろしく、JRが掲載を渋ったといった話がなされたように記憶する。

また筆者の原体験談から始めると、「根来塗」を知ったのは10代半ばであったと思う。家にそれがあったのではなく、どこかでそれを見かけてきれいだと思い、そのことを周囲にいた大人に言うと、「ねごろぬり」という言葉を教えてもらった。その「ねごろ」という語感は「値頃」と思わせ、すぐに覚えることが出来た。値ごろな根来の製品は、ネット・オークションで中国製が幅を利かせている。本展の招待日の前、杉製の腎臓型をした小さな盆が1枚1500円ほどで出品されていた。新品で安価であるし、また形が面白いので買ってもよかったが、柔らかい杉ではすぐにあちこち凹ませてしまう。それに下地の黒が見えて来るまで使い込むだろうか。何に使っていいのかわからず、どうせそのまましまい込むだろう。そのような未使用の什器はどの家庭にもかなりあって、それらがバザーに出されるが、買われてもまた使われずに箱に入ったまま長年眠る。根来の場合はそれでは面白くない。新品の無疵さはそれなりに美しいが、使い込んで風格が出たものはもっとよい。だが、そうなるまでには数十年単位の年月を要するのではないか。そこまで同じものを長年使い続けることは稀になっているように思う。それは日本の文化が大きく変わったためでもある。第一、漆塗りの製品を日常使う人は稀だろう。味噌汁椀もプラスティック製が漆そっくりで、見分けがつかない人が多い。什器は100円ショップ製品で充分と考える人もある。「値ごろな根来があればほしい」と思う人は、根来の美と価値がわかり、その「値ごろ」が意味する金額は普通の人の感覚よりかなり高い。そして、高価と言ってよい漆器となれば、日常生活で存分に使う気になれず、ちょっとした場所に飾っておきたくなる。そうなれば使い込んでの美しさを実感出来ない。そう思うと、前述した杉製の豆型皿のように、安価な製品でもいいので、気に入った形のものをさっと買い、せいぜい手元に置いてヘヴィーに使う方がよい。安物でもそのうち風格が出て来るだろう。使い込むことが肝心だ。新品のまま長年保存していると、売る時に高い値がつくと考えるケチな人がある。そういう人は自分の人生を味わい深いものにすることに関心がない。自分が齢を重ねるのと同時に身の周りの物もそうなるというのが現実であり、また理想ではないか。使わずの新品のまま所有している満足は、それをいつか所有する人の満足に貢献するだけで、本人は影のような存在だ。筆者はそうありたくない。
今日は「古裂會」から分厚い入札目録がまた届いたが、来年のカレンダーが同封されていた。その表紙が根来の瓶子で、同じようなものが本展図録の最初に20点ほど掲載されている。堂々たる形で、確かにそれらを見ているとひとつ手元に置きたくなる。これは神に捧げる酒を入れるもので、一対として使う。高さは30センチ強で、家に2個あれば邪魔になって仕方がない。神棚に置くにはあまりに大きい。筆者はこの形が好きで、瑠璃色の高さ10数センチの磁器を一対持っていて、伏見人形と一緒に飾っている。左右がほんの少し高さが違い、手作りの雰囲気が漂っているのが面白い。それはさておき、瓶子は根来の代表格ということで最初に展示されたのだろう。盆は平面だが、立体の瓶子は飾った時に見栄えがよい。使われなくなったものが何らかの事情で市中に流出し、それが今では根来ファンや博物館が所有している。柳宗悦は根来をどう思ったのだろう。無名の人が作ったもので、しかも使い込まれたところに美しさがあるから、彼が言う「用の美」の典型だ。あまり貴族的な匂いのするものは拒否したろうが、武骨な形の片口は日本民藝館にもあったはずだ。つまり、使い込むことによる黒と朱の対比は評価しながら、器の形状が醸し出す雰囲気で好悪を分けたのではないか。これは根来なら何でもよいという立場ではない。そして、根来とは何かという疑問を提供する。「根来」は和歌山県に根来寺が今もあって、中世のある時期、およそ300年ほどにわたって同寺で使う漆器が量産されたが、それらを「根来塗」と称し、単に「根来」と呼ぶ場合は、根来寺には関係なく、黒の下地に朱の漆を塗った什器を指す。では根来塗はそれ以前、あるいはほかの地域で作られた同様の漆器と明確な差があるかと言えば、ない。また、根来寺で生産されたものが同様の漆器の最初かと言えばそうではなく、縄文時代に同様のものがすでにあったとされる。根来寺は秀吉によって規模が小さくされてしまい、そうなってからは根来塗はもはや生産されなくなった。ただし、同寺や近辺で木地を作っていた職人や塗りの職人は仕事を求めて日本各地に散らばったはずで、それらの地では同じようなものが作られたであろう。本展は題名にあるように、「中世」の作品をもっぱら展示する、あるいはしたいものだが、製造年月が記されていないので、大部分は時代判定はかなりの幅があるのではないか。塗りは使い方で剥げ落ちる程度にかなりの差があるから、製作年代の判定はもっぱら器の形状比較だろう。あるいは素材である欅の年輪を調べればもっと絞り込みが出来るかもしれないが、重文ならまだしも、そうでないものではそこまで経費をかけられないだろう。そういったことは民藝品と同じと言える。だが、雑器ではなく、それなりに地位のある人たちが用いたもので、庶民が漆器を日常に使うことは今もかなり少ないだろう。

下地の黒はいいとして、朱はパツゥウスカーが使う赤と同じで、茶色がかったもの、臙脂系、柿色などさまざまだ。朱はあでやかで、特別の日に用いるか、特別の人が使うといった感がある。また、漆を何層にも塗り重ねるのであるから、長年使用し続けるのによい。陶磁器のように落としても割れにくいが、漆は剥げるから、長年用いていると、やはり寿命といったものを人は考える。そこで新調することになると、古い什器はどこかに保存されるか、誰かに譲られる。そうなると、市場に出回る古い根来は充分使われて什器としての寿命がほとんど尽きたものと言え、今度は鑑賞の用に供する番になったと考えてよい。それもまた民藝品と同じだ。柳宗悦は民藝館に展示してあるものを日常使うこともあったが、今では展示のみだ。本展は使い込まれて美しくなった根来を一堂に並べることによって、日本の祈りの場での什器がどういう形と色合いをしているかを楽しむもので、古い寺社や絵画を見るような思いに通じている。かつて大寺院を誇った根来寺は今では根来の本場では全くなくなり、寺が焼け落ちた時に資料も消えてしまったが、根来寺で作られたことを示すものが1点あって、今回展示された。短い脚が3つある盥で、茨城のとある寺が所有している。二対4口あって、それぞれの裏面に朱漆で3行の文字が書かれる。その中に「細工根来寺重宗」と作者名が書かれ、1462年から1539までに作られたことが確実とされる。本展でもう1点目だったのは、東大寺二月堂の修二会で使われていた丸い盆だ。これは日の丸に見えるので「日の丸盆」とも呼ばれ、当初は26枚あったとされる。永仁6年(1298)の銘が入っていて、これは根来寺の開山の1132年よりかは新しい。だが、根来寺で根来塗が本格的に始まったのは、高野山と袂を完全に分かち、寺容が整ってからのはずで、それは永仁6年より少し後だ。では日の丸盆がどこで作られたかという疑問が湧くが、大きな寺ではどこもそれなりの漆の工人を抱えていたのかもしれない。その中で根来が特に有名になったのは。それほど同寺が大きかったことと、漆製品を作る組織が整っていたのだろう。そして他の寺で使う什器を作ったかもしれない。
本展は根来の多様な作品を見るにはまたとない機会であったが、どれも赤に黒がところどころ見えている什器であるから、最初はじっくり見ても後半は見流してしまう。そこで絵画も展示された。それらは図録には紹介されず、根来をより際立たせるための道具に徹していた。そうした中に池大雅の書の軸があった。最近ようやく筆者は大雅の書画の面白さがわかって来たが、根来に書画の軸を添えると、その場の空気がより芳醇になると言おうか、そういう特別の世界があったのだということを実感させる。そしてその世界は思いひとつで誰でも実現出来る。そういう美が溢れた空間を身近に実現させながらの生活を送りたいものだが、筆者の場合はあまりにも雑多でよけいなものが溢れている。そのうえに根来を求めると、もうガラクタ屋と同じになってしまうので、買うとしてもせいぜい長さ20センチ程度の豆型の皿がよい。それにピーナッツでも入れて毎日使うのもよいか。そうそう、会場の出口の手前に天井に届く大きな根来寺の山門の写真が貼ってあった。それを見ながら「あきらめワルツ」さんは行ってみたいと洩らした。帰宅後に寺の位置を調べると、行ったことのない不便なところにある。根来寺に行っても根来のかけらもないそうで、何かほかに名物でもあればまだしも、たぶん筆者は行くことはない。南海の和歌山市駅は高島屋が入っているが、一昨日のネット・ニュースでそれが40年の歴史を閉じるとあった。同駅前は人通りが少ない。ここ10年はそれがより加速化しているらしい。だが、賑わいのない街もそれなりにいいのではないか。静かな和歌山市内はそれがかえって売りの材料になりそうな気がする。賑わいは破壊と不即不離の関係でもある。昭和レトロの雰囲気が溢れる和歌山市内はそのまま保存すれば、いつかきっとブームが到来する。そうなれば忘れられたような根来寺にも人が押し寄せるかもしれない。