穏やかな気持ちにさせてくれる映画なのかどうか、見終わってすぐは判断に迷うが、何事も時が過ぎると穏やかな思い出になる。先週取り上げたドイツ映画『犯罪(幸運)』と似て、暴力的などぎつい場面が満載だが、言いたいことは「愛の力」に尽きる。
本作は同性の心の通いあるいは反発を描いたもので、主題は音楽讃歌だ。今月5日に京都ドイツ文化センターことヴィラ鴨川からのメールで、13日の金曜日、午後7時から同館で映画が上映されることを知った。それだけのために寒い夜に出かける気になれないので、他に用事をふたつ作った。どれがついでかわからない。3つの用事ともそのようなものだ。『4分間のピアニスト』という題名から音楽がテーマになった作品であることはわかったが、ネットで何も調べなかった。前知識なしで映画や展覧会に行くことにしている。その方が驚きが大きい。「驚き」は「感激」と言い代えてよい。最初によく学んでから作品に接するという方法にも利点はあるが、「ああ、あれね」と知ったかぶりから作品の本質を見誤りやすい。「知る」ことと「感激」は違う。「知る」だけならば、家の中から一歩も出ずにネットでいくらでも経験出来る。「感激」するにはそれなりに労力を支払わねばならない。午後7時となると、ヴィラ鴨川辺りは真っ暗だ。同館に行く前、ふたりの人に相次いで会って用事を済まし、『犯罪(幸運)』を見に行った時と同じように、碁盤目状の道路をジグザグに東北に向かって歩き、今度は河原町通りの荒神橋バス停から同橋を西へわたって同館に行った。荒神橋をわたる直前の道はかなり幅が広く、そこを歩くのは筆者は好きだが、先日は貼り紙に目を留めた。ひったくり事件が起こっているらしく、どうやら暗い時間帯は歩くのが物騒だ。そのような暗がりを寒い時期にひとりで歩くのは何とも心細い。同館に着くと、筆者は2番乗りで、また前回と同じ、前から2列目の中央の通り道からすぐ右手の椅子に座った。そこはいわば筆者の指定席だ。映画が始まるまで30分あったので、腕組みして眠った。目覚めたのは上映直前で、そのアナウンスの声であった。その席に座って2時間ほどの上映が終わるまで一度も振り返らなかったが、100人の定員がおそらく数人しか入っていないことは感じていた。筆者が最前列に陣取っていて、帰り際には最後に部屋を出たが、全部で観客は7名であった。よほど暇な人しか見に来ないと見える。上映中に尿意を催した。それで部屋が明るくなると真っ先に地下のトイレに駆け込んだが、観客のうち女性3,4人は全員そうであった。ともかく、ぶらりと映画を見に行き、ままぶらりと帰って来た。その無言の素っ気ない行動が映画を純粋に楽しむにはいい。それを味わいたいために筆者は同館での映画に昔からよく通っている。普通の映画館では味わえない思いなのだ。
さて、映画は日本で未公開かと思っているとそうではなかった。6年前の秋に上映され、かなり話題になったようだ。そのことを上映の翌日ネットで調べて知った。筆者はめったに映画を見ないので、ドイツ文化センターでこうして過去の作品を上映してくれるのはありがたい。DVDで簡単に過去の作品に接することは出来るが、前述のようにわざわざ足を運び、誰とも目を合わさず、話さないまま映画だけ見て帰って来ることは作品鑑賞としてはよけいな印象が入り込まずによい。本作は見ている間になぜ同館が取り上げたかよくわかった。ドイツの音楽の歴史を誇るためには格好の題材で、フランスやアメリカでは同じ脚本では映画化は無理がある。いや、クラシック音楽は今やドイツだけのものではないので、映画の舞台を日本に移してもそれなりに人々を感動させ得るかもしれない。そう言えば今朝のTVで昔の群馬の交響楽団がクラシック音楽に触れたことのない子どもたちの心を豊かにするために演奏会を各地で開き、その指揮に若き小澤征爾が携わったことを伝えていた。だが、やはり日本では無理だろう。スポ根映画は盛んかもしれないが、絵画や音楽などの芸術で若者の人生を大きく変えるという内容の映画は日本ではほとんど考えられない。まだ韓国や中国の方がその方面には意欲がある。美術好き、音楽好きはごくごく一部の人で、大半はプロ野球やサッカーに関心を持つ。前に何度も書いたことがあるが、子どもを音楽塾に通わせてピアノを習わせる親があるが、大半は親の見栄で、子どもはそのことを知りながら我慢して学ぶから、たいていは大人になってからは音楽嫌いになる。そして、そのような子どもにしたいために子どもを音楽塾にやる。つまり拷問だ。一方で、ベートーヴェンやモーツァルトも父の拷問的教育に耐えて大作曲家になったのであるから、嫌がる子どもにピアノの学ばせるのは当然とする意見もある。話が少し変わる。よく自治会に子ども野球のチームがある。その監督は子どもに苛酷な練習を課しながら、自分は温かい格好でベンチに座り、子どもの母親が持って来たコーヒーをすすりながら談笑している。怒鳴るだけのそんな監督を見ながら、ある人が呟いた。監督も親たちも、子どもに野球を早い時期から学ばせ、あわよくば将来大金を稼げるプロ選手になってもらいたい。だが、99.999パーセントの子は練習のし過ぎで身体を壊し、野球を続ける夢を断つ。愚かな監督や母親たちだが、子ども野球を経験させねばプロ選手にはなれないという強迫観念があって、また自分たちは子どもにいいことをしていると内心自惚れている。
主人公は20代前半の女性で、人殺しの刑で服役している。15歳まで父親に徹底してピアノを教えられたのはいいが、父は娘を犯してしまう。そのことで娘は家出をし、悪い男と同棲、挙句はその男が殺した男の死体をバラバラにして捨てた罪で逮捕された。だが、女は何もしておらず、男のために罪を被ったという設定になっている。真実がどうかはわからないが、父に犯されたこと、そして同棲相手の子を妊娠したが死産であったことは確かで、心に大きな傷を負ってしまった。そして刑務所では同じ部屋の囚人とうまくやれず、悶着ばかり起こしている。もうすっかり荒れてしまって、心を誰にも開かない。モニカ・ブライブトロイという女優で、逞しく、ぶっきらぼうな演技が似合う顔つきをしていた。そうした女性の囚人相手に80代の女性音楽教師が定期的にやって来る。新しいピアノを刑務所に運ぶ場面が最初にあるが、ふたりの運転手は刺青だらけで、元は殺人や強姦で収監されていた。そうした荒くれ者と一緒にピアノを運んで来たので、刑務所の署長はいい顔をしない。この男は適当に職務を遂行すればよいと考えていて、囚人のためになることをなかなか許可しない。だが刑務所には老教師の味方もいる。音楽好きの太った看守で、オペラ好きだ。看守は老教師とオペラの有名な一節の言葉を交わしながら、それがどのオペラのセリフかを当て合いしている。その場面は何度か映し出されるが、日本のオペラ好き以外はちんぷんかんぷんだろう。その看守と老教師のやり取りはさすが芸術映画、しかもドイツと思わせられる。そのような教養の一端を面白く映画の筋に織り込める監督が日本にどれほどいるだろう。また、いたとしても観客が理解出来ない。「教養」の要素はむしろ敬遠される。となれば、この映画で奏でられるシューベルトやモーツァルト、ベートーヴェン、シューマンといったドイツの大作曲家の作品はどう聴かれるだろう。だが、クラシック音楽に拒否反応を示す人でも感動出来る仕組みを、クリス・クラウス監督は用いていて、それはひとつにはクラシック音楽そのものが持つ力と、主人公の女性の心の動きが伴った演奏であるからだ。つまり、「教養」がなくても楽しめる作品に仕上がっていて、映画を見た後は映画で奏でられた曲をまた聴きたくなる人は多いだろう。
筆者が最も感動したのはシューベルトの「即興曲 第2番 変イ長調」のイントロで、これが3回ほど演奏された。有名な曲なので誰でもどこかで耳にしたことがあるが、この映画で聴くとまた格別であった。ひとつひとつの音が心に染みわたった。シューベルトのピアノ曲は渋いものが多く、冬に似合うが、この映画を見た夜は寒かったので、なおさら感動的で、ごく短い時間ではあるが、しみじみと穏やかな気分になれた。それはさておき、老教師は囚人の若い女性の中から音楽好きな者を募る。4人がピアノを学びたいと言うがどれも手応えなし、才能なしだ。だが、父に犯された娘は、老教師が囚人全員を集めて教会室でパイプオルガンを演奏している時にひとり両手で鍵盤を奏でる身振りをし続け、その様子がオルガンの蓋に映っている様子を老教師は目撃し、才能があるかもしれないと思い始める。だが、心の蓋を閉ざしたままの娘は老教師にすぐには心を開かず、悪態をつく。それがあまりにひどく、ついには暴れた結果、オペラ好きの看守に暴力を振るい、大けがをさせてしまう。そんなに暴れるからには同じ部屋の囚人からも大いに嫌われ、眠っている間に腕を燃やされかけたりするが、反対にまた相手を袋叩きにして、署長からは手に負えない、更生の見込みのない囚人であるとの烙印を押される。この映画は老教師が主役と言ってよいかもしれず、実在した同じ職業の女性に捧げられているが、父の犯された娘やそれとの関わりはフィクションだ。筆者は漫画の『ピアノの森』を思い出したが、それとの影響関係はないとしても、仕上がりはかなり漫画的で、今の若者には歓迎されやすい物語になっている。手がつけられない娘のピアノの才能をまた引き出そうとする老教師の生涯が回想的に描かれるが、これはよけいなものに思えた。老教師は結婚せず、子どももいないが、ヒトラー政権時代、愛する女性がいて、レスビアンの関係を持っていた。ところが、軍部から共産主義の疑いをかけられ、愛人の女性は拷問の結果殺された。その辛い記憶を持ちながら、まだ彼女のことを愛していると、娘に告白する場面がある。そのようなことで心を開くほど柔な娘ではないが、次第にピアノ演奏を真剣に練習する。老教師は娘がどのような事件を起こしたかを調べ、その残虐さに驚くが、それとピアノ演奏は別と割り切り、とにかく娘を年齢制限のあるコンクールに出して優勝させたがる。そういう老教師のもとに娘の父親が現われ、自分の罪を懺悔したりするが、老教師が父と会ったことを知った娘は激怒し、また心を閉ざすようになったりもする。
大けがを負った看守は、娘のことを許せず、娘が同じ部屋の囚人たちから拷問されている時にも駆けつけない。だが、老教師から諭され、心を許し最後には娘の脱獄に手を貸す。この辺りから物語は最後の10分ほどになるが、音楽で結ばれた娘と看守と老教師、そして娘の父ということだ。書き忘れていたが、この映画にはロック音楽も使われている。最初のピアノをトラックで運ぶ場面がそうだ。娘は父から徹底的にクラシック・ピアノを教え込まれ、幾多のコンクールで受賞して来た。だが、強いビートの音楽も好きで、クラシックのピアノ曲をロック風に奏でたりする。それを老教師は許さない。「黒んぼの曲は腕を落とすのでやめなさい」 その忠告が何度もあるにもかかわらず、娘は目を盗んでは全身でリズムを激しく取りながらロック調で演奏する。「黒んぼの音楽」で思い出すのは、このブログの「その他の映画など」のカテゴリーで最初に取り上げたドイツ映画だ。
『シュルツェ、ブルースへの旅立ち』で、これはとてもいい映画であった。アコーディオン弾きのシュルツェはある日アメリカの黒人音楽に魅せられ、それ風に演奏するようになる。すると周囲からは「黒んぼの音楽」だと揶揄される。それにめげないシュルツェはついにはアメリカに行き、南部の空気を吸って死んでしまう。ドイツには戦前からアメリカからジャズは輸入され、夜の歓楽街では持てはやされた。その様子はオットー・ディック素の絵からもわかる。だが、ディックスの絵においても、黒人のジャズ・メンは戯画化されていて、まともな芸術ととは目されなかったことがわかる。少なくともディックスは好きではなかったろう。戦後のしかも60年代以降になると、たとえばザッパ・ファンがドイツには特に多いことからもわかるように、アメリカの黒人音楽は大流行し、それはすっかり生活の一部になっている。そのため、この映画のクラシックのピアノ曲を徹底して教えられた娘もそればかりを音楽とは思わないことは当然だろう。となれば老教師とは世代間の断絶があって、両者は絶対的に相入れない部分がある。もちろんそれは老教師は知っている。特に娘は悲惨な体験をしていて、それは娘自身が乗り越えねばならない。暴力的な性格はもうどうやっても更生出来ないし、またさせようとも思わないが、音楽だけは取り戻してやりたいと老教師は考え、また娘に言う。
老教師は娘をコンクールに出させようと署長にかけ合うが、ひどい騒ぎを起こしてばかりの娘は危険人物とみなされ、手錠を外す許可が下りない。そこで老教師はもう教えるのを辞めると告げ、ピアノを引き取りに来る。最初と同じく荒くれ者のふたりがトラックを刑務所に乗り入れる。看守の心使いによって、娘は老教師の前に連れて来られ、その前でピアノはトラックの幌の中に積み込まれるが、それが終わるといるはずの娘がいない。次の瞬間その理由がわかる。老教師はピアノを運び出すついでに娘を解放させたのだ。看守がそれに手を貸した。その後は漫画的と言おうか、アメリカ映画によくある大団円だ。大きなホールの前に老教師と娘は着く。娘は囚人服を脱ぐ。すると肌が露わな黒のドレスだ。コンクールの最後の出番で、シューマンのピアノ協奏曲を弾く。とはいえ、オーケストラ抜きだ。名前が読み上げられ、ピアノに着いた時に会場には刑務所からたくさんの警官がやって来て逮捕しようと構える。舞台袖で老教師は演奏させてほしいと言い、何分待てばいいかという質問に4分間と答える。この映画の原題は直訳すると「4分間」だ。観衆と警官たちが見守る中、演奏が始まる。これが予想を覆すもので、娘はまともに演奏せず、全身でリズムを取りながらピアノの胴体を叩いたり、蓋の中に手を突っ込んで弦をかき鳴らす。観衆は呆気に取られる。演奏し終わった時、観衆はブラボーの嵐を贈る。老教師は娘がついに自分の教えを守らなかったことに落胆するが、観衆の喜びを見て自分も拍手する。娘は最後まで父や老教師の言いなりにはならなかった。だが、シューマンの名曲をそのように演奏しても、それもシューマンだ。シューマンが生きていたなら、その演奏を否定しなかったであろう。クラシック音楽を作曲された当時の姿のまま演奏することは今後も正道であり続けるが、20世紀アメリカの黒人音楽を知ってしまった人類は、その要素を美学に持ち込んで悪いとはもはや思わない。「二グロの音楽」ではあるが、それがどうしたというのだろう。音楽の意図は人に感動を与えることだ。それ以外にはあり得ない。娘の演奏はわけがわからないまま、観客に感動を与えた。その事実の前に老教師は納得するしかない。世代間の考えの違いはあって当然ではないか。娘は父や老教師の思いを砕きながら、より大きな感動の世界へと分け入った。父や老教師はそのことを喜ぶべきなのだ。ドイツはかつてダダイズムの経験をした。それを思い起こすと、娘のシューマンは伝統的な行動だ。どこまでも芸術讃歌のこの映画を筆者はドイツの自信と見る。日本にも本当は世界に誇るべき芸術がたくさんある。それを忘れて、あるいは軽んじてもっぱらスポーツ万歳と叫び声を挙げている姿はさびしい。