サントリー美術館で観て来た。ここに訪れたのは去年8月28日の『パリ1900年 ベル・エポックの輝き』以来だ。
その展覧会のすぐ後に『没後100年記念 エミール・ガレ展』が開催されたが、それは観に行かなかった。何度もガレの作品を観る機会はあったし、これからもあるからだ。さて、今回の『アール・デコ展』だが、これも同じようなものがよく開催される。たとえば9月上旬に心斎橋大丸で観た『パリ・モダン』も似た内容だった。だが、今回は会場を訪れて初めて知ったが、絵画はタマラ・ド・レンピッカの2点、マリー・ローランサンの数点以外にはなく、画家のデュフィももっぱら染織図案家として何点か興味深い下絵や作品が展示されていた。家具や調度品、衣類などの建築インテリアや工芸品が中心の展覧会で、全部で200点ほどと、規模がかなり大きかった。今チラシを探したが見当たらない。関西で入手出来る大抵の美術展のチラシは保存しているつもりだが、今回のは入手していないようだ。その代わりに東京展のがある。4月から6月にかけて都美術館で開催された時のもので、デザインがサントリー美術館のものとは全く違う。チラシやチケットは各巡回地で共通の場合もあれば、このように全然違う場合もある。サントリー美術館では上に掲げるチケットにもあるように、女性のシルエットで表現されたプロフィールが、ポスターや図録にも共通して採用された。この作品は都美術館でのチラシには使用されていない。どんな経緯があってそのような差が生まれるのかは知らないが、チラシのデザインが違えば、そそっかしい人は別の内容の展覧会かと思って、2か所とも足を運ぶかもしれない。まさか、それを当て込んでというわけではないと思うが、チラシだけに関して言えば、サントリーの方がよい。そしてこの女性のシルエット・プロフィールを地下鉄車内のポスターで間近に見た時、紙に描いたイラストではなく、皮の光沢を見出して、実物は一体何かと興味をそそられた。前述した『パリ・モダン』展の投稿に書いたように、アール・デコではさまざまな動物の皮が素材として使用された。それがここでも見受けられる。会場に行って初めてわかったが、『パリ・モダン』展の展示と同様、鮫皮の家具がふたつほどあった。だが、『パリ・モダン』展出品の皮の白く透き通る美しさとは違って、うす汚れていた。あるいは鮫皮にも微妙に色がついたものがあるかだ。アール・デコは素材として各種の皮をよく用いたが、チラシにある女性プロフィールは牛皮で作られていて、アヴェ・プレヴォーの小説『マノン・レスコー』の表紙であった。つまり、この女性はマノン・レスコーで、そう言えば小説の内容にいかにもよく似合っている。それに、人物を影の横顔で表現するヨーロッパの当時の伝統にもかなっている。18世紀のフランス小説の、新しい20世紀におけるデザインによる図像的解釈としては実に秀逸と言うべきだ。マノンは尼になるはずが、騎士のグルュウとの運命的な出会いによって娼婦となり、グルュウも破滅の道を辿るという、頽廃性と華麗さを併せ持った物語だが、それが妙にアール・デコから浮かぶイメージと馴染むし、この本の装丁ひとつでアール・デコがどういうデザイン運動であったかが一目でわかるのも、チケットの絵として採用するにはふさわしいと言える。
チラシ裏面の説明からまず書く。『…2003年にロンドンで開催された「アール・デコ 1910-1939」展をもとに構成し、日本では「アール・デコ」をテーマとした初の大規模展覧会です。「アール・デコ」様式は、近代的な機能主義に還元されない「装飾芸術」最後の展開と言われます。…「アール・デコ」様式の作品を単純に紹介するだけでなく、エジプト、中国、など多様な影響源やエキゾティシズムなども紹介。「アール・デコ」様式の基点となった1925年のパリ現代産業装飾芸術国際博覧会の様子や、北米や日本をはじめとする世界へ伝播していった流れを、テーマ立てしながら分析します。』とあるが、どんな美術展のチラシでも、最初に見つけて入手した時はほとんど裏面の文字まで目を通すことがないので、こうしてチラシを横に置きながら初めてこんな内容が書かれていたことを知った。このチラシはブログを書くために探していて見つけたが、チラシをよく読み、ある程度の予備知識が持って会場に行く方がいいのか、それとも内容を全く知らずに行く方がいいのか、筆者の経験から言えば後者だが、それは作品との出会いに意外性が多くなるからだ。チラシや図録などによって、予めどういう作品がやって来るかを知っていると、その実物を会場で見つけた瞬間にそれで納得してしまい、よく観ることをしない。これではせっかく会場に訪れた意味がない。いくら精巧な写真図版が手元にあっても、実物はそれでしか伝えないものを確実に持っている。これは予想の範囲に収まるどころではない。むしろどんな意外な様相でその作品が待ち受けているかわからない。作品との出会いは一期一会なのだ。その1回限りの出会いの機会をより強いものとして受けとめるには、予めどういう作品があるのかをなるべくなら知らない方がよいと思う。一目惚れ的な出会いをなるべく多く得たいからだ。それはさておき、日本における「アール・デコ展」が「アール・ヌーヴォー展」よりうんと少ないのはわかるが、今回が初の大きなものとは知らなかった。そう言えば図録はかなり分厚く、企画をしたロンドンのヴィクトリア・アンド・アルバート美術館がかなり力を入れていることがわかる。それでも図録は買わなかった。いずれ古書で安く出回った時に買う。
今回の展覧会は「アール・デコ」にまつわる不明な部分をかなりすっきりとわかりやすく伝えてくれた。それは企画者の功績で、多角的なこの装飾様式を説明するのにうまい分類を提出している。会場では「影響源」として、9つの項目が挙げられ、それにしたがって作品が順に展示されていた。それらは(1)エジプト、(2)古典主義、(3)アフリカ、(4)中国、(5)日本、(6)中米、(7)アール・ヌーヴォー、(8)ナショナル・トラディション、(9)アヴァン・ギャルドで、このように分けられると、曖昧としていたアール・デコの広がりが何となく理解出来る気がして来るし、なるほどとも思う。そしてまた一方では、結局は何でもありだったということで、現在とほとんど変わらないことに気がつく。とはいえ、アール・デコにはそれなりのスタイルがはっきりとあって、現在作られているものが100年後にアール・デコ時代のものと紛らわしくなることはまずないであろう。この差はどこにあるのだろう。アール・デコがよいのであれば、それをそのまま洗練させて今に伝えればよかったのに、そういう面もあるだろうが、戦後は大量生産主義と機能主義が最優先され、美意識もかなり変わった。日常に使用する大衆品でもアール・デコ時代はまだ手仕事に頼る部分が多かったが、この展覧会でも説明されていたように、アメリカの経済恐慌以降、安物の加工しやすい素材で大量消費の商品が機械によって作られるようになった。その時代がそのまま戦後の、そして今のプラスティック製品時代に続いている。これは、一部の比較的上流の階級の人々の使用するものが、デザインの雰囲気だけを残して安っぽく模倣されて誰にでも手の届く商品としてばら巻かれて来たことを示している。同じような高級デザインを安易に模倣した普及品はもっと昔からあったが、アール・デコの1920年代は、都市に高層ビルが建ち、百貨店文化が栄え始めたことにおいて、産業と芸術がまだ強くつながるその最後の時代であったから、その模倣の規模も商品量の規模も昔とは比較にならなず、今の生活にそのままつながってもいる。だが、今はアール・ヌーヴォー調もアール・デコ調もあるといった何でも主義の時代で、それらはアール・デコ時代がそのようなスタイルを獲得する影響の必然性と密着していたのに対して、どこまでも恣意的なものだ。
これは世界が均一化して来たことからの必然とも言えるかもしれない。確かにまた、たとえば日本が何らかの歴史事情によって国家主義色を強めた場合、商品のデザインにまでそれが及び、明治期を参考に新たな装飾スタイルを生み出すことも考えられる。だが、こうしたある国の特殊事情は、ヨーロッパにおけるアール・デコとは全く別物のローカルな出来事として捉えられる公算が大きいし、また芸術の歴史の中において見た場合、それがひとつの確固たる様式美として主張するに足るものになり得るかどうかも疑わしい。その意味でもアール・デコは現代的生活のスタートに位置していた輝かしい芸術であり、最後のそれでもあると言える。現代的生活がさらに根本的に変貌を遂げる大きな転換期を人類が迎える時には、きっとそれに応じた新しいデザインの潮流が当然生まれるが、目下のところはモダン以降のゲリラ的活動が単発的に行なわれているに過ぎないように見える。映画『細雪』では1940年頃の関西を舞台にしていたが、それはこの展覧会で取り上げられている1910から1939年の期間とどうにか同じとみなすことも出来る点で、映画における室内装飾やファッションを見ることで、日本の上流階級にどのようにアール・デコが浸透していたかを確認するひとつの手立てになる。キモノ文化がまだまだ健在ではあったが、末娘の妙子が着る派手なプリントのワンピースは、いかにもアール・デコ時代の産物であり、居間に置かれる家具類も日本で作られたアール・デコ調のモダンさを示していた。筆者もよく記憶しているが、そうした上流社会の使用するものが、安い素材で模倣されて昭和30年代には大量に供給された。それらはどこかでアール・デコに連なっていたはずのものであるが、使用する者はそんなことは思いもせず、家具屋に行けばそうしたものしか売られていないので、後は少ない予算の中から適当に選んだだけであった。そんな昭和時代の消耗品も今では珍しいためにそれなりに古道具としての価値があるのだろうが、筆者としては何ら美的なものを感じず、ほしいとは思わない。懐かしさがあったとしても、華麗さを併せ持つのはやはり高級品に限るし、そうしたものの中からさらに良質のものがたとえばヴィクリア・アンド・アルバート美術館などに収集保管される。その意味で、こうした展覧会で作品を見ても、それは芸術鑑賞と同じであって、デザイナーが自分の仕事に生かして新しい商品を生み出す力にはほとんどならないように思える。一デザイナーの能力だけではアール・デコに匹敵する大きなデザインの流れは決して起こらない。
9つの影響源をかいつまんで説明する。(1)のエジプトは、1922年にツタンカーメンの墓が発見されたことが大きなきっかけになっている。エジプト時代の装飾品のデザインがアール・デコ時代に豪華な宝石や金で模倣されたが、直線を生かした都会的センスが強調されている。(2)はフランスにおいて顕著なことで、新古典主義時代を現代的感覚と融合させる様式だ。(3)のアフリカの要素は、帝国主義による植民地支配によって、たとえば現地人の染織などのプリミティヴなデザインがそのまま応用された。これをブラック・デコと呼ぶと言う。(4)の中国は、今回はあまり作品が来ていなかったが、上海の国際都市ではそれなりにアール・デコが浸透し、中国服の服地デザインにアール・デコ調が見られる。一見すると相変わらず中国そのものだが、文様の独特の織りなす直線がアール・デコからの影響をそのまま受けていて面白い。だが、この程度の影響はいつどこでも一時的な流行として生まれるものであろう。(5)の日本だが、日本の代名詞と言われる漆がこのアール・デコ時代では重要な素材となった。フランスに滞在した菅原精造がアイリーン・グレイやジャン・デュナンに技法を教え、大きな衝立作品がよく作られた。それらは日本的発想の絵柄を描くものではなく、すっかりヨーロッパのものとなっている。『パリ・モダン』展には人物を描いた珍しいものが出品されていたが、今回はすっきりとした抽象性に富むものが来ていた。(6)は意外な気がするが、これはアメリカを考えればよくわかる。ヨーロッパだけではなく、アメリカにもアール・デコが流行したからだ。中米の古代文化のモチーフがデザインに応用された。(7)のアール・ヌーヴォーは、アール・デコ直前の芸術運動であり、アール・デコがそれをそのまま引き継いでいることは誰の目にも明らかだ。(8)のナショナル・トラディション(国民的伝統)は、ヨーロッパ各国の個別的事情だ。ドイツならビーダーマイヤー様式、フランスならルイ16世様式、ルイ=フィリップ様式といったものが、現代的な感覚でアレンジされた。(9)は新時代の全く新しい前衛様式で、いわば影響源が見出せないものだ。
チラシに書いてあるように、1925(大正14)年はパリで現代産業装飾国際博覧会があった。これは別名アール・デコ博覧会と言われる。つまり、アール・デコの名称の発祥がここにある。セーヌ川両岸に150のパヴィリオンや施設を立てて開催されたものだが、呼びかけにもかかわらずドイツやアメリカは参加せず、事実上フランスの装飾芸術のアピールの場となった。日本も不参加で、後になってこの博覧会の様子を知って愕然としたという。日本ではアール・デコを示す建築は1933年に建てられた東京都庭園美術館にわずかにあるだけだそうだが、1873(明治6)年に初めて国家として万博に参加した日本はその後も積極的に自国の自慢の工芸品を紹介し続けたのが、1925年頃はそれも一息つき、一方でファシズムへの道まっしぐらで、万博どころではなかったと言ってよいだろう。アール・ヌーヴォーはジャポニズムのブームを生み、日本では美術学校では盛んに図案を教えたりしたのに、アール・デコではぷっつりと日本は置いてきぼりにされた格好だ。そのために今ひとつアール・デコの都会的に洗練されたデザイン感覚をただ眩しいと感ずる向きが多いのではないだろうか。日本にそれが本格的に入って来たのは戦後で、しかも何度も書くように、アメリカで量産され、うすめられたアール・デコが移入された側面が大きい。それらは機能優先で、しかも消耗品としての位置づけを生産者も消費者も抱き続けているため、美というものが長続きするものではなく、次々と発売される商品に一瞬にしか宿らないとも思っている。たまには一流のアール・デコ芸術をこうした展覧会で再確認し、日本の1930年代以降の歩みを振り返ってみるのもよい。